日々の神の御言葉: いのちへの入り | 抜粋 517
赤い大きな竜の国における神の働きは驚くべきものであり、測り知ることができない。神によって完全にされる人々の集団もあれば、淘汰される集団もある。と言うのも、教会にはあらゆる種類の人がいるからである。真理を愛する人と愛さない人、神の働きを経験する人としない人、本分を尽くす人と尽くさな…
神は、それぞれの時代において自身の言葉を語り、自身の働きをする。そして異なる時代において、神は異なる言葉を話す。神は規則に従わず、同じ働きを繰り返さず、また過去の事柄に対し懐旧の念を抱かない。神は常に新しく、古さとは無縁であり、そして毎日、神は新しい言葉を話す。あなたは、今日従うべきことに従うべきである。これが、人の責任であり本分である。神の現在の光と言葉を軸として実践することが不可欠である。神は規則に従わず、そして自身の知恵や全能性を明らかにするために多くの異なる視点から話すことができる。神が霊の視点から話すか、人の視点から話すか、あるいは第三者の視点から話すかは問題ではない。神は常に神であり、神が人の視点から話すことを理由に、神が神ではないと言うことはできない。神が様々な側面から話す結果、一部の人たちの間である観念が生まれてしまった。そのような人々は神について何の認識ももっておらず、神の働きについても何の認識もない。神がいつも一つの視点から話せば、人は神に関して規則を定めたりしないだろうか。神は、人がそのように振舞うことを許すことができるだろうか。神がどの視点から話すにせよ、神はそれぞれの視点に対して自身の目的を持っている。もし、神がいつも、霊の視点から話すようなことがあったなら、あなたは神と関わりをもつことができるだろうか。したがって、神は自身の言葉をあなたに与え、そしてあなたを現実性へと導くために、第三者の立場で語る。神が行う万事が適切である。要するに、すべては神によってなされているのであり、あなたはこのことについて疑いを抱くべきではない。神が神であるのなら、どの視点から話しても、神は依然として神である。これは、不変の真理である。どのような形で神が働きをしたとしても、神は依然として神であり、神の本質は変わることがない。ペテロは深く神を愛し、神自身の心に叶う人であったが、神はペテロを主あるいはキリストとして証しすることはなかった。なぜなら、あるものの本質とは、今そこにあるそれ自体以上のものでも以下のものでもなく、決して変わることはできないからである。自身の働きにおいて、神は規則に従うのでなく、自身の働きを効果的にし、人が自身についての認識を深められるように、種々の方法を用いる。神が働きをする方法のすべてが、人が神を知るのを助け、そして人を完全にするという目的を持っている。神がどのような働きの方法を用いても、それぞれが、人を作り上げ人を完全にするという目的を持っている。神が働きをする方法のうちの一つが非常に長い時間続いたかもしれないが、それは、神への人の信仰を固めさせるためである。したがって、あなたがたは疑いをもつべきではない。これらはすべて神の働きの段階であり、あなたがたはそれらに従わなければならない。
『神の出現と働き』「すべては神の言葉が達成する」(『言葉』第1巻)より
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