完全にされる者は精錬を経なければならない(前半)

 あなたが神を信じているのであれば、神に従い、真理を実践し、自分の本分をすべて尽くさなければならない。それに加えて、自分が経験すべき物事を理解しなければならない。単に取り扱い、懲らしめ、そして裁きを経験するだけで、神を享受することはできても、神があなたを鍛えたり取り扱ったりしている際、それを感じられないままでいるなら、それは受け入れ難いことである。あなたはおそらく、こうした精錬に臨むとき、しっかり立つことができるだろうが、それだけではまだ十分ではない。あなたは前進し続けなければならない。神を愛することを学ぶにあたり、それが止まることはなく、そこに終わりはない。人々は神を信じることを、極めて単純なものと見ているが、ひとたび実際の経験を得ると、神への信仰は人々が想像するほど簡単ではないことに気づく。神が働きを行なって人間を精錬するとき、人間は苦しむ。人間に対する精錬が大きいほど、神に対するその人の愛は大きくなり、その人の中で神の力がさらに示される。逆に、人の受ける精錬が少なければ少ないほど、神に対するその人の愛も少なくなり、その人の中で示される神の力も少なくなる。人に対するこうした精錬と苦痛が大きいほど、またその人の経験する苦悶が多いほど、神に対するその人の愛が深まり、神への信仰もさらに純粋なものとなり、神に関する認識もより深いものになる。あなたは自分の経験の中で、精錬を受けながら大いに苦しむ人、多くの取り扱いと懲らしめを受ける人を目の当たりにし、神への深い愛を抱き、神に関するさらに深遠で鋭い認識をもつのはこのような人だと理解する。取り扱いを経験していない人には表面的な認識しかなく、ただ「神は本当に良いお方だ。人々が神を享受できるよう、彼らに恵みを授けられる」と言うことしかできない。取り扱いと懲らしめを経験していれば、神に関する真の認識について話すことができる。したがって、神が人間の中で行なう働きが驚異的であればあるほど、それはいっそう貴重であり、有意義なものになる。それがあなたにとって測り知れないものであればあるほど、またそれがあなたの観念と相容れないものであればあるほど、神の働きはますますあなたを征服することができ、またあなたを獲得して完全にすることができる。神の働きの意義はなんと大きいことか。神がこのようにして人間を精錬しなければ、またこのような方法によって働きを行なっていなければ、神の働きは効果に乏しく、その意義を失ってしまうだろう。神がこの集団を選んで獲得し、終わりの日に完全にするであろうことは、過去に語られていた。その中に、並外れて大きな意義がある。神があなたがたの中で行なう働きが偉大であればあるほど、神に対するあなたがたの愛はいっそう深く純粋なものとなる。神の働きが偉大であればあるほど、人は神の知恵に関する何かをいっそう把握し、神に関する認識もより深くなる。終わりの日には、六千年にわたる神の経営計画が終焉を迎える。それがたやすく終わるなど、本当にあり得るのか。神がひとたび人類を征服すれば、神の働きは終わるのだろうか。これほど単純なことなのか。人はまさに、それはこんなに単純なのだと想像しているが、神が行なうことはそれほど単純なものではない。あなたが神の働きのどの部分に触れようとも、神の働きはどれも人間にとって測り知れないものである。仮にあなたがそれを推し量れたとしたら、神の働きの意義や価値は失われてしまうだろう。神によってなされる働きは測り知れないものであり、あなたの観念とまったく正反対のものである。そして、それがあなたの観念と一致しなければしないほど、神の働きは有意義であることがよりいっそう示されるのである。もしもあなたの観念と一致するならば、それは無意味なものとなるはずだ。現在あなたは、神の働きはとても不思議だと感じているが、不思議だと感じれば感じるほど、神は測り知れないとますます感じるようになり、神の業がいかに偉大かを理解するのである。仮に、神が表面的かついい加減な働きだけを行なって人を征服し、その後は何もしなかったとすれば、人は神の働きの意義をその目で見ることができないだろう。あなたは今少しばかりの精錬を受けているが、それはあなたのいのちの成長に極めて有益なものである。ゆえに、あなたがたがそうした困難を経るのは不可欠なことなのである。今日、あなたは少しばかりの精錬を受けているが、後になれば神の業を真に目の当たりにすることができ、最終的に「神の業は実に不思議だ」と言うだろう。それがあなたの心の声なのだ。神の精錬(効力者の試練と刑罰の時)をしばらく経験して、最後に「神を信じることは実に難しい」と言った人がいる。その人たちが「実に難しい」という言葉を使った事実は、神の業が測り知れないものであること、神の働きに大きな意義と価値があること、そして神の働きには人間によって大切にされる価値があることを示している。わたしがこれほど多くの働きを行なった後、もしもあなたに認識が一切なかったとしたら、わたしの働きにはそれでも価値があるだろうか。あなたはそれを受けてこう言うだろう。「神への奉仕は実に困難だ。それに、神の業はほんとうに不思議で、神には真に知恵がある。神は実に麗しい」。一定期間の経験を経た後、もしもあなたにこのような言葉が言えたなら、それは自分の中で神の働きを得たことを証明している。いつの日か、あなたが海外に福音を広めている際、誰かから「あなたの神への信仰はどうなっているのか」と訊かれたら、あなたは「神が行なうことは実に素晴らしい」と言えるようになるはずだ。すると相手は、あなたの言葉は実際の経験から語られたものだと感じる。これこそが、ほんとうに証しをするということである。あなたは、神の働きは知恵に満ち、自分の中での神の働きが真に自分を確信させ、自分の心を征服した、と言うだろう。神は人類の愛にふさわしい以上の存在なのだから、あなたは常に神を愛する。こうしたことを話せるならば、あなたは人々の心を感動させることができる。そのすべてが証しをするということである。鳴り響くような証しをして涙を流すほど人々を感動させることができるならば、それは、あなたが真に神を愛する者であることを示している。と言うのも、あなたは神への愛を証しすることができ、あなたを通じて神の業が証しされるからである。そしてあなたの証しを通じ、他の人は神の働きを探し求め、神の働きを経験するようになり、どのような環境においても揺るぎなく立てるようになる。これが証しをする唯一の真の方法であり、まさに今あなたに求められていることである。神の働きは極めて貴重で人によって大切にされる価値があり、神はかくも貴重で豊富さに溢れていることを、あなたは理解すべきである。神は語ることだけでなく、人々を裁き、彼らの心を精錬し、彼らに喜びをもたらし、彼らを自分のものとし、征服し、完全にすることができる。神が非常に素晴らしいであることを、あなたは自分の経験から知るだろう。では、あなたは今、どれほど神を愛しているのか。これらのことを本当に心から言えるのか。これらの言葉を心の底から表現できるとき、あなたは証しすることができるだろう。ひとたびあなたの経験がこの段階に達すれば、あなたは神の証人になることができ、その資格を得るだろう。自分の経験においてこの段階に達していなければ、あなたは依然として遠くかけ離れている。精錬される過程において、人が弱点を見せるのは普通のことだが、精錬された後には、「神はとても賢く働きを行なう」と言えなければならない。それらの言葉に関する実践的な認識を本当に得られれば、それはあなたにとって大切なものになり、あなたの経験に価値が生まれる。

 今、あなたは何を追い求めるべきか。あなたが神の働きを証しできるかどうか、神の証しと顕示になれるかどうか、神によって用いられるのにふさわしいかどうかが、あなたの求めるべきことである。神はあなたの中で、実際にどれほどの働きを行なってきたのか。あなたはどれほど見て、どれほど触れたのか。どれほど経験して味わったのか。神があなたを試したかどうか、取り扱ったかどうか、あるいは懲らしめたかどうかにかかわらず、神の業と働きがあなたに対してなされてきたのである。しかし、神を信じる者として、そして神によって完全にされることを進んで追い求める者として、あなたは自分の実際の経験を基に、神の働きを証しできるのか。自分の実際の経験を通じ、神の言葉を生きることができるのか。自分の実際の経験を通じ、他の人々に糧を施し、自分の生涯を捧げて神の働きを証しすることができるのか。神の働きを証しするには、自分の経験、認識、そして支払った代価に頼らなければならない。そうすることでのみ、あなたは神の旨を満たすことができる。あなたは神の働きを証しする者なのか。あなたにそうした志があるのか。神の名、さらには神の働きを証しすることができ、神が自身の民に求める姿を生きることができるなら、あなたは神の証しをする人である。あなたは実際に神をどう証しするのか。それには、神の言葉を求め、それを生きることを切望し、また自分の言葉で証しを行ない、人々が神の働きを知り、神の業を見られるようにしなさい。そのすべてを心から求めるなら、神はあなたを完全にする。神によって完全にされ、最後に祝福されることしか求めないのであれば、あなたの神への信仰に対する見方は純粋ではない。あなたは実生活において神の業をどう見るべきか、神の旨が示されたときに神をどう満足させるべきかを追い求め、神の不思議と知恵をどう証しするべきか、神が自分を懲らしめ取り扱うことをどう証しすべきかを探し求めるべきである。これらはすべて、今あなたが熟考しているべきことである。神に対するあなたの愛の目的が、神によって完全にされた後、神の栄光に預かれるようになることだけであれば、それはまだ不十分であり、神の要求を満たせない。実践的な形で神の働きを証しし、神の要求を満たし、神が人々に行なう働きを経験できなければならないのである。苦痛であれ、涙であれ、あるいは悲しみであれ、あなたはそのすべてを実践の中で経験しなければならない。それらの目的は、神の証しをする一人としてあなたを完全にすることである。今、あなたはいったい何のために苦しみ、完全にされることを求めるよう強いられているのか。あなたの現在の苦しみは本当に神を愛して神の証しをするためなのか。あるいは肉の祝福のため、自分の将来的な見込みと運命のためなのか。あなたの意図、動機、そして追い求める目標はすべて正される必要があり、それらを自分の意志で導くことはできない。祝福を受けて権力を握るために完全にされることを求める人がいる一方、神を満足させ、神の働きを実際に証しするために、完全にされることを追い求める人もいるならば、この二つの追求の仕方のうち、あなたはどちらを選ぶだろうか。前者を選ぶのであれば、あなたはまだ神の基準から遠くかけ離れている。わたしは以前、自分の業を全宇宙に公然と知らしめ、この宇宙で王として君臨するだろうと語った。その一方、あなたがたに託されているのは神の働きを証ししに行くことであり、王となって全宇宙に君臨することではない。宇宙と天空は神の業で満たされよ。あらゆる者にその業を見せ、それを認めさせよ。これらの言葉は神自身に関連して語られるのであり、人間が行なうべきは神の証しをすることである。あなたは今、神をどれほど知っているのか。神についてどれほど証しできるのか。神が人間を完全にする目的は何か。ひとたび神の旨を理解した後、あなたはいかにして神の旨への配慮を示すべきか。自分が完全にされる意欲、自分が生きるものを通じて神の働きを証しする意欲があなたにあり、それがあなたの原動力になるのであれば、難しすぎることは何もない。人々が今必要としているのは信仰である。あなたにこの原動力があれば、否定的態度、消極性、怠惰、肉の観念、処世哲学、反抗的性質、そして感情といったものをすべて容易に捨て去れる。

 人が試練を受けている際に弱くなったり、自分の中で消極性が生じたり、神の旨や自分の実践の道が明らかでなくなったりするのは普通のことである。だがいずれにせよ、あなたはヨブのように神の働きを信じなければならず、神を否定してはならない。ヨブは弱く、自分が生まれた日を呪ったにもかかわらず、人生におけるすべての物事がヤーウェによって授けられること、そしてそのすべてを奪うのもまたヤーウェであることを否定しなかった。いかにして試されようとも、ヨブはこの信念を堅持した。あなたが自分の経験の中で、神の言葉を通じてどのような精錬を受けようとも、神が人類に求めるのは、要するに神への信仰と愛である。神がこのようにして働きを行なうことで完全にするのは、人々の信仰と愛、そして志である。神は人々を完全にする働きを行なうが、人はそれを見ることも、それに触れることもできない。こうした状況において、あなたの信仰が必要とされるのである。肉眼で見えない何かがあるときに、人々の信仰が必要とされる。また、あなたが自分の観念を捨てられないとき、あなたの信仰が必要とされる。神の働きについてよく理解できないとき、あなたに求められるのは信仰をもつこと、そして揺るぎなく立って証しをすることである。ヨブがこのような状態に達したとき、神がヨブの前に現われ、ヨブに対して語った。つまり、あなたが神を見られるのは自分の信仰の中からだけであり、あなたに信仰があるとき、神はあなたを完全にするのである。信仰がなければ、神はそれを行なうことができない。あなたが何を得たいと望もうと、神はそれを授ける。あなたに信仰がなければ、あなたは完全にされることができず、神の業を見ることもできないし、ましてや神の全能を見ることなどできない。自分の実際の経験の中で神の業を見るという信仰があれば、神はあなたの前に現われ、あなたを中から啓いて導く。この信仰がなければ、神がそれを行なうのは不可能である。あなたが神への望みを失ったとしたら、どうして神の働きを経験できるだろうか。したがって、あなたに信仰があり、神に対して疑いを抱かず、神が何をしようと神に対する真の信仰をもっているときにだけ、神はあなたの経験を通じてあなたを啓いて照らし、そのとき初めてあなたは神の業を見ることができる。これらはすべて信仰を通じて成し遂げられる。信仰は精錬を通じてのみ生じるのであって、精錬なくして信仰が育まれることはあり得ない。「信仰」というこの言葉は何を指すのか。信仰とは、見ることも触れることもできないものがあるとき、神の働きが人間の観念にそぐわないとき、また、それが人間の手に届かないときに、人間がもつべき真の信念であり、誠実な心である。これこそが、わたしの言う信仰である。苦難や精錬のとき、人は信仰を必要とする。そして信仰の後には精錬が続く。精錬と信仰は切り離せないのである。神がどのように働きを行なおうと、また自分の環境がどのようなものであろうと、あなたはいのちと真理を追い求め、神の働きに関する認識を求め、神の業を理解し、真理にしたがって行動することができる。そうすることが真の信仰をもつということであり、あなたが神への信仰を失っていないことを示している。あなたが精錬を通じて真理を追求することにしがみつき、神を真に愛し、神への疑念を募らせない場合にのみ、そして神が何をしようとも真理を実践して神を満足させ、神の旨を深く求め、神の旨に気を配ることができる場合にのみ、あなたは神に対する真の信仰をもつことができる。以前、あなたが王として治めるだろうと神が語ったとき、あなたは神を愛した。また、神があなたに自身を公然と示した際、あなたは神を追い求めた。だが現在、神は隠され、あなたは神を見ることができない。そして、あなたは多くの問題にぶつかっている。ならば今、あなたは神への望みを失うのか。ゆえに、あなたはいかなる時もいのちを追い求め、神の旨を満たすことを求めなければならない。これが真の信仰というものであり、最も美しい真実の愛である。

 かつて、人々はみな神の前に出て決意を固め、「たとえ他の誰も神を愛さなくても、わたしは神を愛さなければならない」と言ったものだ。しかし今、精錬があなたに降りかかり、それが自分の観念にそぐわないせいで、あなたは神への信仰を失っている。これが真の愛なのか。あなたはヨブの行ないについて何度も読んでいるが、それらを忘れてしまったのか。真の愛は、信仰の中からのみ形を成すことができる。あなたは自分が受ける精錬を通じて神への真の愛を育む。また、あなたが実際の経験の中で神の旨に気を配れるのは信仰を通じてであり、自分の肉を捨てていのちを追い求められるのも信仰を通じてである。これこそが人の為すべきことである。あなたがそれを行なえば、神の業を見られるだろう。しかし、あなたに信仰が欠けているなら、神の業を見ることも、神の働きを経験することもできない。もしも神によって用いられ、完全にされたいと望むのであれば、次に挙げるものをすべて備えていなければならない。すなわち、苦しむ意志、信仰、忍耐、服従、そして神の働きを経験し、神の旨を把握し、神の悲しみを思いやれる能力などである。一人の人間を完全にするのは容易なことでなく、あなたが経験する一つひとつの精錬において、あなたの信仰と愛が必要とされる。神によって完全にされたいのであれば、ただ道へと駆け出したり、神のために自分を費やしたりするだけでは十分ではない。神によって完全にされる者となり得るには、多くのものを備えていなければならない。苦難に直面したときは肉への不安を脇にのけ、神に不満をぶつけずにいられる必要がある。神があなたから隠れているときは、神に付き従う信仰をもち、以前の愛が揺らいだり、消え去ったりすることがないよう維持できなければならない。神が何を行なおうと、あなたは神の意図に従わなければならず、また神に不満をぶつけるのではなく、自らの肉を呪う覚悟をしなければならない。試練に直面した際は、たとえ苦い涙を流したり、愛するものとの訣別が嫌だったりしても、神を満足させなければならない。それだけが真の愛、真の信仰なのである。あなたの実際の霊的背丈がどの程度であろうと、まずは苦難を受ける意志と真の信仰をともに備え、肉を捨てる意志も備えていなければならない。神の旨を満足させるべく、自ら進んで自分の苦難に耐え、個人の利益を失うことを惜しんではならない。また、自分に後悔することもできなければならない。過去、あなたは神を満足させることができなかったが、今では悔いることができる。これらのどの点においても欠けがあってはならない。神はこれらのことを通じてあなたを完全にするのである。これらの基準を満たせなければ、あなたが完全にされることはない。

『言葉は肉において現れる』より引用

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