日々の神の御言葉: いのちへの入り | 抜粋 383

2021年11月22日

性質の変化は振る舞いの変化ではなく、偽った外面的変化でもなく、情熱から生まれた一時的な変化でもありません。むしろそれは、振る舞いの変化をもたらす真の性質の変化です。このような振る舞いの変化は、人の表面的な振る舞いや行為において現われる変化と同じではありません。性質の変化は、自分が真理を理解し、経験し、真理が自分のいのちになったことを意味します。過去、あなたはそのことにまつわる真理を理解しましたが、それを実践することはできませんでした。真理はあなたにとって、留まることのない教義に過ぎなかったのです。自分の性質が変化したいま、あなたは真理を理解しているだけでなく、それにしたがって実践します。あなたはいま、それまで好んでいた物事、かつて喜んでしていたこと、自分の想像、そして自分の観念を捨て去ることができます。過去に捨て去ることができなかった物事を捨て去ることができるのです。それは性質の変化であり、同時にあなたの性質が変化する過程でもあります。これは極めて単純に聞こえるかもしれませんが、実を言えば、この過程のさなかにある人は多くの苦難を受け、自分の肉体を克服し、自身の本性の一部である肉の側面を捨てなければなりません。またこのような人は、取り扱いと刈り込み、刑罰と裁き、試練と精錬を経る必要があります。そのすべてを経験して初めて、人は自分の本性をいくらか認識できるのです。ただし、それについて何らかの認識があるからといって、その人がすぐに変化できるというわけではありません。その過程で苦難に耐えなければならないのです。同様に、物事を多少理解すれば、それですぐに実践を始めることができますか。すぐにはできません。あなたは理解を得てはいますが、他の人たちがあなたを刈り込んで取り扱うので、環境のせいでやむを得ず、真理原則に従って行動せざるを得なくなっているのです。場合によってはそれを嫌がり、「あのようにやってはなぜいけないのか。このようにしなければいけないのか」などと言う人もいます。また、「神を信じているなら、このようにするべきだ。このようにすることが真理に沿っているのだ」と口にする人もいます。一定の段階に達し、ある程度の試練を経て、神の旨や多少の真理を理解するようになると、人は真理原則に従って行動することが嬉しくなり、進んでそうするようになります。当初、人々は真理を実践することに消極的です。たとえば、献身的に自分の本分を尽くすことを考えてみましょう。あなたは本分を尽くし神に献身することについて多少の理解を得ており、それに関連する真理も理解していますが、いつになったら自分自身を完全に神に捧げられるようになるのでしょうか。いつになったら、名実ともに本分を尽くせるようになるのでしょうか。それには一つの過程が必要であり、その過程では多くの苦難を経験するかもしれません。あなたを取り扱う人もいれば、批判する人もいるでしょう。全員の目があなたに注がれ、そのとき初めて自分が間違っていること、下手なことをしたのが本当に自分であること、本分を尽くす上で献身が欠けていることは許されず、不注意だったりおざなりだったりしてはいけないことに気づき始めます。そして聖霊があなたを内から啓き、間違いを犯すと叱責してくれるようになります。この過程の中で、あなたは自分に関することを多少理解し、本分を尽くす際に自分があまりに不純で、個人的な動機を抱えすぎ、法外な欲望を持ちすぎていることを知るようになります。そういったことの本質に気づいたら、神の前に出て祈り、真に悔い改めることができます。そうすることで、それらの不純が清められるのです。このような形で頻繁に真理を求め、自分の実際的な問題を解決していけば、徐々に正しい信仰の道へと踏み出すことができます。堕落した性質が清められれば清められるほど、その人のいのちの性質は変化するのです。

本質的に、あなたは今どれだけの本分を真剣に尽くしていますか。性質が変わった後、どれだけの本分を真理に沿って尽くしていますか。これを調べることで、自分の性質が実際にはどれほど変わったかがわかります。性質の変化を成し遂げるのは容易なことではありません。それは単に行動がいくらか変わり、真理の認識をいくらか得て、真理のあらゆる側面に関する自分の経験を少し話せるようになるとか、あるいは懲らしめを受けた後でいくらか変わった、または少しばかり従順になった、といったことではないのです。そうしたことはいのちの性質の変化にはなりません。わたしはなぜそう言うのでしょうか。あなたはいくらか変化したかもしれませんが、依然として真に真理を実践しているわけではないのです。適切な環境や好ましい状況に一時的に置かれているため、あるいは現在の状況に強いられて、そのように振る舞っているだけかもしれません。さらに、精神状態が落ち着いていて聖霊が働きを行なっていれば、あなたは実践することができます。今まさに試練を受けていて、ヨブのように苦難を経ているとしたら、あるいは神に死ぬよう求められたペテロのようであれば、あなたもこのように言うことができるでしょうか。「たとえあなたを知った後に死ぬことになっても、それで構いません」と。性質の変化は一夜のうちに起きるものではなく、いったん真理を理解したところで、どんな環境でもそれを実践できるとは限りません。そこには人間の本性が関係しています。真理を実践しているように見えても実際には、あなたがそうしていることをあなたの行動の本質は示していない、ということもあります。家族や仕事を捨てて本分を尽くせるというように、多くの人にはある種の外面的な振る舞いがあり、それゆえ自分は真理を実践していると信じています。しかし神は、その人が真理を実践しているとは認めません。あなたが行なうすべてのことに個人的な動機があって不純なら、あなたは真理を実践しておらず、表面的な行為を示しているだけです。厳しく言えば、あなたの行ないは神に断罪されるでしょうし、神に讃えられたり記憶されたりすることはありません。さらに分析すれば、あなたは悪事を犯しているのであり、その行為は神に反抗するものです。表面的に見れば、あなたは何かを妨害することも混乱させることもなく、実害を与えたり真理に背いたりしているわけでもありません。あなたの行動は論理的かつ合理的に見えますが、その本質は悪事を犯し神に逆らうものです。したがって、自分の行動に潜む動機を神の言葉に照らして見つめ、それによって自分に性質の変化が生じたかどうか、自分が真理を実践しているかどうかを判断しなければなりません。それは、自分の行動が人間の想像や意図と一致しているかどうか、あるいは自分の好みに合っているかどうかという、人間の見方に左右されるものではありません。そうしたことは重要ではないのです。むしろ、あなたが神の旨に従っているかどうか、あなたの行動に真理現実があるかどうか、神の要求と基準を満たしているかどうかについて、神がどのように言うかに左右されます。自分自身を正確に測るには、神の要求に照らすしかありません。性質を変えて真理を実践に移すことは、人が想像するほど単純でも容易でもありません。今それを理解していますか。それについて何か経験したことはありますか。問題の本質について言うと、あなたがたはそのことを理解していないのかもしれません。あなたがたの入りはあまりにも表面的なのです。あなたがたは一日中、早起きしてから夜遅く床につくまで、朝から晩まで走り回っていますが、それでもいのちの性質は変化しておらず、そのような変化には何が関係しているのかも把握できていません。それはあなたがたの入りが浅すぎるということではないでしょうか。どれほど長く神を信じてきたとしても、性質の変化の達成に関わる本質や深い物事を感じ取っていないのかもしれません。これは、あなたの性質が変わったと言えるでしょうか。神が自分を讃えているかどうかは、どうすればわかるでしょうか。少なくとも、あなたは自分のあらゆる行ないについて並外れた着実さを感じるでしょうし、また神の家で本分を尽くして働きを行なっているとき、あるいは普段のとき、聖霊が自分を導いて啓き、自分の中で働きを行なっていると感じます。あなたの行ないは神の言葉に逐一かない、ひとたびある程度の経験を得ると、過去の自分の行動は比較的適切だったと感じます。しかし、一定期間にわたり経験を得た後、過去に行なったことの一部が適切でないと感じ、それに満足せず、自分が行なったことに真理はなかったと感じるのであれば、それは過去の行ないがどれも神に逆らうものだったことを証明しています。あなたの奉仕が反逆と抵抗、そして人間の振る舞い方で満ちていることの証拠なのです。

『終わりの日のキリスト講話集』「性質の変化について知るべきこと」(『言葉』第3巻)より

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