日々の神の御言葉: いのちへの入り | 抜粋 457

2020年9月28日

働きと言うと、それは神のために走り回り、あらゆる場所で説教を行ない、神のために費やすことだと人間は信じている。その考えは正しいが、あまりに一面的である。神が人間に求めているのは、自身のために走り回ることだけではない。それ以上に、この働きは霊の中において務め、与えることである。多くの兄弟姉妹は、長年経験を重ねた後でさえも、神のために働くことについて考えたことがない。なぜなら、人間が考える働きは、神が求めることと矛盾するからである。したがって、人間は働きの問題について一切関心をもたないのだが、それがまさに、人間の入りが極めて一面的であることの理由でもある。あなたがたはみな、あらゆる面でよりよく経験できるよう、神のために働くことから自身の入りを始めるべきである。これが、あなたがたが入るべきことである。働きとは、神のために走り回ることではなく、人間のいのちと生きる事柄が、神に喜びをもたらせることを指す。働きとは、人々が神への献身と神に関する認識を用いることで、神について証しを行ない、また人間を牧することを指す。これが人間の責任であり、すべての人が認識すべきことである。あなたがたの入りがあなたがたの働きであり、あなたがたは神のために働く過程で入ることを求めていると言えるだろう。神の働きを経験することは、単に神の言葉をどう飲み食いするかを知っているという意味ではなく、より重要なこととして、どうすれば神についての証しを行ない、神に仕え、人間を牧し、人間に施せられるかを知らなければならない。これが働きであり、あなたがたの入りでもある。これはすべての人が成し遂げるべきことである。神のために走り回り、あらゆる場所で説教することにだけ集中しつつ、自分の個人的経験を軽視し、霊的生活への入りを無視する者が多数いる。神に仕える者が神に反抗する者になってしまったのは、これが原因である。長年にわたり神に仕え、人間を牧してきたこれらの者たちは、単に働きや説教を行なうことを入りと考えており、自分個人の霊的経験を重要な入りと捉える者はいなかった。それどころか、彼らは聖霊の働きから引き出した啓きを、他人に説教する資本と見なしてきた。彼らは説教するとき、重荷を背負って聖霊の働きを授かり、それによって聖霊の声を伝えている。この時、働きを行なう者は、あたかも聖霊の働きが自分個人の霊的経験となったかのように、自己満足で一杯になる。つまり、自分の述べている言葉がすべて自分自身のものであるかのように感じているのだが、その反面、自分の経験が自分で述べたほど明瞭でないかのように感じる。さらに、彼らは話をする前は、自分が何を話すのかまったく気づいていないが、彼らの中で聖霊が働くと、果てしない流れのように言葉が流れ出す。ひとたびこのようにして説教を行なうと、あなたは自分の実際の霊的背丈が考えているほど小さくないと感じる。そして聖霊があなたの中で何度か働いた時と同じように、自分はすでに霊的背丈を有していると判断し、聖霊の働きを自分自身の入り、自分そのものだと誤解する。絶えずこのようにして経験するなら、あなたは自分の入りについて注意が緩み、気づかぬうちに怠惰になり、自分個人の入りをまったく重視しなくなる。そのため、他人を牧する時は、自分の霊的背丈と聖霊の働きを明確に区別しなければならない。そうすることで、あなたの入りはより簡単になり、あなたの経験にさらなる益がもたらされる。聖霊の働きを自分の個人的経験と捉える時、それが堕落の根源になる。そのため、自分の尽くす本分が何であろうと、自分の入りを欠かすことのできない学びと考えるべきだと、わたしは言うのである。

『神の出現と働き』「働きと入ること(2)」(『言葉』第1巻)より

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