日々の神の御言葉「働きと入ること(2)」抜粋458

2020年10月23日

人が働くのは、神の旨を満足させ、神の心にかなう人々を残らず神の前に導き、人間を神のもとへ連れ出し、聖霊の働きと神の導きを人間にもたらし、よって神の働きの成果を完全なものにするためである。したがって、働きの本質を徹底的に理解することが必須なのである。神に用いられる者として、すべての人が神のために働く価値をもつ。つまり、誰もが聖霊に用いられる機会を有しているのである。しかし、認識すべき点がひとつある。すなわち、神から託された働きを行う時、人間には神に用いられる機会が与えられてきたが、人間の言うことや知っていることが、人間の霊的背丈とは限らない、ということである。あなたがたにできるのは、働きの過程で自分の欠点をよりよく知り、聖霊からのより偉大な啓きを自分のものにすることだけである。そうすることで、自分の働きの過程において、よりよい入りを得られるのである。神から来る導きを自分の入りと考えるなら、そして自分にもともと備わっている何かと考えるなら、人間の霊的背丈が成長する可能性はない。聖霊が人の中で働かせる啓きは、その人が正常な状態の時に生じる。そのような時、人々は自分の受け取る啓きを、しばしば自分の実際の霊的背丈だと勘違いする。なぜなら、聖霊が啓く方法は並外れて普通のものであり、人間にもともと備わっているものを活用するからである。人々が働きを行ない、話をする時、あるいは祈りを捧げて霊のデボーションを行なっている時、突如として真理が明瞭になることがある。しかし実際には、人間が理解したことは聖霊による啓きに過ぎず(当然、その啓きは人間の協力に結びついている)、人間の真の霊的背丈を表わすものではない。一定期間にわたる経験の中でいくつかの困難や試練に遭遇した後、人間の真の霊的背丈はこのような状況において明らかになる。その時初めて、人は自分の霊的背丈がそれほど大きくないことを知り、人間の利己心、個人的な考え、そして強欲さが一斉に現われる。こうした経験を何度か繰り返して初めて、霊の中で目覚めている人の多くが、自分が過去に経験したものは自分個人の現実でなく、聖霊による一時的な照らしであり、人間はその光を受けただけなのだと気づく。聖霊が人間を啓いて真理を理解させる時、それはしばしば明瞭かつ顕著な形で行なわれ、物事がどう生じるかとか、どこに向かうかなどを説明することはない。つまり、聖霊は人間の困難をその啓示に組み入れるのでなく、むしろ直接的に真理を啓示する。人間が入りの過程で困難に遭遇し、聖霊の啓きを組み入れる時、それは人間の実際の経験となる。……したがって、あなたがたは聖霊の働きを受け取ると同時に、自分の入りをよりいっそう重視し、聖霊の働きとは何か、自分の入りとは何かを正確に見極めつつ、聖霊の働きを自分の入りに組み入れなければならない。そうすることで、あなたがたはより多くの点で聖霊によって完全にされ、聖霊の働きの実質があなたがたの中で形作られる。聖霊の働きを経験する過程において、あなたがたは聖霊と自分自身を知るようになり、そしてさらに、激しい苦しみが無数に繰り返される中で神との正常な関係を育み、あなたがたと神との関係は日を追うごとに近くなる。無数の刈り込みと精錬を経た後、あなたがたは神に対する真の愛を育む。それゆえ、苦しみ、一撃、そして苦難を恐れるべきではないと気づく必要がある。恐れるべきなのは、自分に聖霊の働きがあるだけで、入りがないことである。神の働きが終わりを迎える日、あなたがたの苦労は無に帰している。神の働きを経験したにもかかわらず、聖霊を知ることも、自分の入りを得ることもなかったのである。聖霊が人間の中で働かせる啓きは、人間の情熱を維持するためのものではなく、人間の入りのために道を開き、人間が聖霊を認識できるようにするとともに、それ以降、神を畏れて敬愛する気持ちを育めるようにするためのものである。

『言葉は肉において現れる』より引用

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