日々の神の御言葉「神への真の愛は自発的なものである」抜粋493

2020年10月7日

人々が自分の心で神に接したとき、心を完全に神に向けることができたとき、それは人間が神を愛することの第一歩である。神を愛したいなら、まず心を神に向けることができなければならない。心を神に向けるとはどういうことか。それは心の中で行うあらゆる追求が、神を愛し神を得ることを目的とするということであり、それはあなたが自分の心を完全に神に向けたことを意味する。あなたの心には神と神の言葉以外にほとんど何もなくなり(家族、富、夫、妻、子供など)、たとえ何かがあったとしても、それに心を占められることはない。また自分の将来の見通しについて考えることもなく、ひたすら神を愛することを追求するようになる。そのときあなたは、完全に自分の心を神に向けたことになるのだ。もし依然として心の中で自分の計画を立て、常に自分個人の利益を追求し、「いつ神にちょっとした願い事ができるだろう。私の家族はいつ裕福になるだろうか。どうやっていい服を手に入れよう」などといつも考えているとしよう。そのような状態で生活しているなら、それはあなたの心が完全には神に向いていないことを示している。あなたの心にあるものが神の言葉だけであり、あなたが常に神に祈って、どんな時でも神に近づくことができるなら――まるで神がとても親しく、神があなたの中にいて、あなたが神の中にいるかのように――それはあなたの心が神の前にあることを意味する。毎日神に祈り、神の言葉を飲み食いし、いつも教会での働きのことを考え、神の旨に配慮し、心を尽くして真に神を愛し神の心を満足させているなら、あなたの心は神のものになる。もしあなたの心が他の多くのことで占められているなら、あなたの心はまだサタンに占拠されており、本当の意味で神に向いてはいない。ある者の心が本当に神に向かうと、その者は神への真の自発的な愛を持ち、神の働きに配慮できるようになる。まだ愚かさや理不尽さを示すことがあったとしても、神の家の利益、神の働き、そして自らの性質の変化に配慮するようになり、その心は正されることになる。中には、自分のすることはすべて教会のためだと言いながら、実のところ自分自身の利益のために行動している人々もいる。そのような人々は誤った意図を持っており、その心は曲がっていて偽りに満ち、為すことのほとんどは自分個人の利益のためだ。この種の人々は神を愛することを追求しない。彼らの心は依然としてサタンのものであり、神に向かうことができない。そのため神には、この種の人間を得る方法がないのだ。

真に神を愛し神に得られることを望むなら、まず第一歩として、心を完全に神に向けることだ。為すことすべてにおいて、自分の心を探り、次のように自問しなさい。「私はこれを、神を愛する心に基づいてやっているだろうか。何か裏に個人的な意図がないだろうか。この行動の実際の目的は何だろうか」。神に心を捧げたいなら、まず自分の心を抑制し、自分の意図をすべて捨て去り、完全に神に尽くすという状態に達さなければならない。これが神に心を捧げることを実践する道である。自分の心を抑制するとは、どういうことを意味するのか。それは肉の贅沢な欲望を捨て去り、安逸や地位の恩恵をむさぼらず、あらゆることを神を満足させるために行うことであり、また自分の心を自分自身のためのものではなく、完全に神のためのものとすることである。それでことは足りるのだ。

『言葉は肉において現れる』より引用

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