日々の神の御言葉: いのちへの入り | 抜粋 499

2021年12月10日

大半の人の神に対する信仰の実質は、宗教的な信仰である。彼らは神を愛することができず、ロボットのように神に付き従うことしかできない。心から神を切望することも、慕い求めることもできないのである。このような人は黙って神に付き従っているに過ぎない。神を信じる人は多いものの、神を愛する人はほとんどいない。人々は災難を恐れて神を「畏れる」だけか、さもなければ神が高く偉大な存在なので「崇めて」いるかに過ぎない。しかし、彼らの畏れや敬慕には、愛も、心からの切望もない。人々は自身の経験の中で、真理の些細な部分、あるいは取るに足らない奥義を求めている。大半の人は単に従うだけで、漁夫の利を得ようとしている。そのような人は真理を求めず、また神の祝福を受けるべく、心から神に従うこともない。すべての人が送る、神への信仰の生涯は無意味である。そこに価値はなく、自分の個人的な考慮と追求しかない。彼らは神を愛するために神を信じているのではなく、祝福を受けるために信じている。多くの人は思うがままに振る舞い、好きなことをするばかりで、神の益を考慮せず、自分の行ないが神の旨に適っているかどうかを考えることもない。そのような人は神を愛するどころか、真の信仰をもつことさえできない。神の本質は、単に人間が信じるべきものではない。それ以上に、人間が愛すべきものである。しかし、神を信じる人の多くは、この「秘密」を見いだすことができない。人々はあえて神を愛そうとせず、愛そうと試みることもない。神には愛すべき点が数多くあるのを見出したことがなく、神が人を愛する神であること、人が愛すべき神であるのも見出したことがない。神の愛すべき素晴らしさはその働きに示されている。人は神の働きを経験してはじめて、神の愛すべき素晴らしさを見出す。人は実際の経験の中でしか、神の愛すべき素晴らしさを理解できない。そして実生活においてそれを目の当たりにしなければ、誰一人神の愛すべき素晴らしさを見出せない。神には愛すべき点が数多くあるものの、実際に神と関わらなければ、人はそれを見出せない。つまり、もし神が受肉しなければ、人々は実際に神と関わることができず、実際に神と関わることができなければ、その働きを経験することもできない。そのため、神に対する人々の愛は、数多くの偽りや想像によって汚されることになる。天なる神への愛は、地上にいる神への愛ほど現実的なものではない。と言うのも、天なる神に関する人の認識は、その目で見たり自ら経験したりしたことではなく、自分の想像に基づいているからである。神が地上に来ると、人々は神の実際の業と、神の愛すべき素晴らしさを目の当たりにできる。神の実際的かつ普通の性質をすべて見られるのであり、それらはみな、天なる神についての認識より数千倍も現実的なものである。人々が天なる神をどれほど愛そうと、その愛に現実的なところは何ひとつなく、人間の考えで満たされている。地上にいる神への愛がどれほどささやかなものであっても、その愛は現実のものである。たとえごくわずかであっても、やはり現実のものなのである。神は実際の働きを通して人々に自分を知らしめ、それによって人々の愛を得る。ペテロもこれに似ている。イエスと共に暮らしていなければ、ペテロがイエスを愛することは不可能だったろう。イエスに対するペテロの忠誠心もまた、イエスとの交わりを通して築かれたものである。人間が自分を愛するようにすべく、神は人の間に来て人と共に生きてきた。そして神が人に見させ、経験させるものはみな、神の現実なのである。

『言葉は肉において現れる』より引用

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