日々の神の御言葉「精錬を経験することでのみ、人は真の愛をもつことができる」抜粋510

2020年10月10日

人の状態と神に対する人の態度に直面した神は新しい働きを行ない、人が神に対する認識と服従、そして愛と証しをもつことを可能にした。したがって、人は神による精錬、裁き、取り扱い、刈り込みを経験しなければならず、それがなければ神を知ることは決してなく、神を真に愛し、神への証しを行なうこともできない。神による人間の精錬は単に一面的な効果のためでなく、多面的な効果のためである。神はこのような方法でのみ、進んで真理を求める人々の中で精錬の働きを行ない、それによってその人たちの決意と愛を完全にする。進んで真理を求める者、神を切望する者にとって、このような精錬以上に意味のあるもの、大きな支えとなるものはない。つまるところ、神は神なのだから、神の性質が人によってそれほど容易に知られたり、理解されたりすることはない。最終的に、神が人と同じ性質をもつことはあり得ず、したがって人が神の性質を知るのは容易なことではない。真理は人が本質的に有しているものでなく、サタンによって堕落した人々が容易に理解できるものでもない。人には真理がなく、真理を実践する決意もないので、苦しみを受け、精錬されたり裁かれたりすることがなければ、その人の決意が完全なものになることは決してない。すべての人にとって精錬は耐え難く、非常に受け入れ難いものであるが、神が自身の義なる性質を人に明らかにし、人に対する要求を公にし、より多くの啓き、そしてより現実的な刈り込みと取り扱いを与えるのは精錬のさなかである。事実と真理の比較を通じ、神は自己と真理に関するより大きな認識を人に授け、神の旨をより深く理解させ、そうしてより真実かつ純粋な神への愛を人が抱けるようにする。それらが精錬を実行する神の目的である。人の中で神が行なうすべての働きには固有の目的と意義がある。神は無意味な働きをせず、人に恩恵がない働きもしない。精錬とは人々を神の前から取り除くことでなく、地獄で人々を滅ぼすことでもない。それはむしろ、精錬のさなかに人の性質を変え、その人の意図や従来の見方を変え、神に対する愛を変え、生活を変えることを意味する。精錬は人に対する実際の試練の一つであり、実際の鍛錬の一形態であって、精錬のさなかでのみ人の愛はその本質的な機能を果たすことができる。

『言葉は肉において現れる』より引用

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