日々の神の御言葉: いのちへの入り | 抜粋 518

2020年9月2日

神を信じること、そして神を知ることは、天の掟であり地上の原則である。だから、受肉した神が自身の働きをする今こそ、神を知るのに特別相応しい時なのだ。神を満足させるのは神の心を理解する基礎の基にして適えられる。神の心を理解するためには神を知らなくてはならない。神に関する認識とは、神を信じる者が心に持つべきビジョンである。これが神に対する人々の信仰の基礎である。神に関する認識を持っていなければ、その人間の信仰は曖昧で、そこには空疎な理論があるだけである。このように神に従うような決心をしたとしても、手に入る物は何もない。この流れの中で何物をも手に入れることができない者は排除され、単に最小限のことしかできない者たちである。あなたが、神の働きのどの段階を経験するにせよ、力強いビジョンを伴っていなくてはならない。力強いビジョンがなければ、神からの新しい働きの各段階を受け入れることは困難である。というのは人には神の新しい働きを想像することができない。神の働きは人の考えを超えるものだからだ。それだから、面倒をみてくれる羊飼いがいなければ、ビジョンに関して語ってくれる羊飼いがいなければ、人は新しい働きを受け入れることはできない。人がビジョンを受けることができなければ、神の新しい働きを受けることはできない。人が神からの新しい働きに従うことができなければ、神の心を理解することができない。そうなれば、神に関する認識は何の役にも立たなくなってしまう。神の言葉を実行する前に、神の言葉を知らなければならない。つまり神の心を理解しなければならない。理解してはじめて、神の言葉を正確に実行でき、神の心にかなうことができるのだ。真理を求める者全てによって、このことを会得しなければならず、神を知ろうとする者全てによってこうした過程を経なければならない。神の言葉を知る過程は、神を知る過程にほかならず、神の働きを知る過程でもある。だから、ビジョンを知ることは、受肉した神の人性を知るだけではなく、神の言葉と神の働きを知ることでもある。神の言葉から人々は神の心を理解するようになり、神の働きから神の性質を知り、神であるものを知るようになる。神を信じることは神を知ることへの第一歩である。この初めの段階からもっとも深い信仰へと前進する過程は、神を知ることであり、神の働きを経験するという過程である。単に神を信じるという目的だけで信仰を持ち、神を知るために信じるのでないのであれば、あなたの信仰には現実性がなく、純粋な信仰とはなり得ない。これは、疑いのないことである。神を経験する過程の中で次第に神を知るようになると、人の性質は次第に変化していき、その信仰が次第に真実のものになっていく。こうして、神への信仰が持てるようになれば、完全に神を得ることになる。神はこのように長い時間をかけて再び肉となり、人が神を知り神を見ることができるように、人への働きを直接行なった。人が神を知ることができるのは、神の働きの最後の段階である。神を知ることは、神から人間への最終的な要求である。これは、神が自身の最終的な証として行なうもので、人が遂に完全に神に心を向けるために成されるものだ。人は、神を知ることによって、はじめて神を愛することができる。神を愛するためには神を知らなければならない。どのように求めても、何を得ようと求めても、人は神の認識に到達しなければならない。こうして、はじめて人は神の心を満足させることができる。神を知ることによってはじめて本当に神を信じることができる。そして、神を知ることによってのみ、真に神を畏れ神に従うことができる。神を知らない人々は決して真に神に従い、神を畏れることはできない。神を知ることは神の性質を知り、神の心を理解し、神であるものを理解することを含む。とはいえ、神を知るためのどのような側面にしても、人が代価を払わなければならず、従う意思を持たねばならない。そうでなければ誰も最後まで付き従うことはできない。神の働きは、人の観念とはまったく異なったものであり、神の性質も、神であるものを知ることも、人には難し過ぎる。神が言うことも、行う事柄も、人の理解を超えるものである。神に付き従うことを望みながら神に従おうとしない者は、何も得ることはできない。天地創造の時から今日に至るまで、神は人には理解できず、受け入れ難い多くのことを行ってきた。そして、人は神が言った言葉の多くを理解できず、受け入れることもできない。それでも、神は自身の働きをやめようとはしない。なぜなら、人にはあまりにも多くの困難があるからだ。神は働きをやめず、語りかけもやめようとはしない。多くの「戦士たち」が道端に倒れてしまっても、神は自身の働きを続け、神の新しい働きに喜んで従う人々の群れを次々と選び続ける。神は、これらの倒れた「英雄たち」を憐れむことなく、神の新しい働きと言葉を受け入れる者たちを大事にする。ではこの段階を踏んだ神の働きはどこで終わるのだろうか。なぜ、神は人々を選りわけ、選別するのだろうか。なぜ、神はそうした手段を取るのだろうか。神の働きの目的は、人が神を知り神のものとされることである。神の働きの原則は、現在の神の業に従うことのできる人々に働くことであり、過去の神の業に従っても現在の業には従わない人々に働くことではないからだ。こういうわけで、神は多くの人々を排除するのであるのだ。

神を知るという訓練の成果は、一日や二日で達成できるものではない。人は経験を重ね、困難に耐え、そして真の服従心を持たなければならない。まず、神の働きと神の言葉から始めることだ。神を知るとはどのようなことを含むのか、神の認識にどのようにして到達できるのか、自分の経験において神をどのように見るかを知らねばならない。神を知ろうとする者は、これらのことが必ず必要になる。神の働きと言葉とをただちに把握できる人はいない。短い期間に完全なる神の認識に到達することは誰にもできない。必要な経験を積み重ねることが求められ、それがなければ誰も、神を知ることも神に心から従うこともできない。神が多くの働きをすればするほど、人は神についてより多くを知ることになる。神の働きが人の考えと異なれば異なるほど、人は神について新しく知り、深く知るようになる。神の働きがいつまでも変わらなければ、人は神について少ししか知ることができないだろう。天地創造の時から今日に至るまで、神が律法の時代に何を行ったのか、恵みの時代に何を行ったのか、神の国の時代に何を行うのかをはっきりと知らなければならない。あなたがたは神の働きを知らなければならない。

『神の出現と働き』「神を知る者だけが神に証しをすることができる」(『言葉』第1巻)より

神を知ることは人類への最後の要求

神の言葉を知る過程とは、神とその働きを知ること。ビジョンを知ることは、肉なる神とその人間性、言葉、業を知ること。

神の言葉から人は神を知り、神の御心を悟るようになる。神の業から神の性質と存在そのものを知る。神を知ることは、神の働きの完成時の最後の成果、人への最後の要求だ。神の最後の証しのためだ。神がこの働きをするのは、人が完全に神に立ち返るためだ。

神への信仰は神を知る第一歩。最初の信仰が深まっていくのは、神を知り神の働きを経験していく過程だ。

神への信仰がただ信じるだけで、神を知るためでないなら、その信仰には現実性がなく、明らかに純粋ではない。

神を知ることは、神の働きの完成時の最後の成果、人への最後の要求だ。神の最後の証しのためだ。神がこの働きをするのは、人が完全に神に立ち返るためだ。

神の働きを経験する過程で、人が次第に神を知ると、人の性質はゆっくり変わり、信仰はより本物になる。神への信仰が成り立つとき、人は神を完全に得ている。神は犠牲を払い、再び肉となった。それは人が神を知り見るため。

神を知ることは、神の働きの完成時の最後の成果、人への最後の要求だ。神の最後の証しのためだ。神がこの働きをするのは、人が完全に神に立ち返るためだ。

人は神を知ることでのみ神を愛する。愛するには理解しなければならない。何をどう求めようと神を知らなければならない。それが神の意志に適う唯一の道だ。

『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

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