日々の神の御言葉: いのちへの入り | 抜粋 531

2020年9月18日

ペテロの名を聞くと、誰もがみな、たたえの心に満ち、ペテロについての物語のあれこれを思い出す——彼が三度神を否定したこと、さらに、サタンの手助けをしたこと、そうして神を試みたこと、しかし、最後には神のために十字架に逆さに釘で打ち付けられたこと、等々。今、わたしはペテロがどのようにしてわたしを知るようになり、最後にはどうなったかを語ることを重視している。このペテロという人は、すばらしい素質の持ち主だったが、彼の境遇はパウロのそれとは異なっていた。彼の両親はわたしを迫害した。彼らはサタンにとりつかれ、悪魔の側にいた。だから、二人がペテロに道を教えたとは言えない。ペテロは頭脳明晰で、生まれながらに豊かな知性をもち、子供のころから両親に可愛がられて育った。しかしながら、彼は両親の敵になった。というのも、ペテロがいつもわたしを知ろうと願い、その結果、両親に背を向けることになったからなのだ。それはつまり、第一に、彼は天と地はみな全能者の手の内にあり、すべてのよいものは神に発し、サタンの手を経ることなく、神から直接来ていると信じたからである。両親の悪い手本のおかげで、ペテロはかえって、わたしの愛と憐れみとをみてとることができ、そうして、わたしを求める欲求がより強く燃え上がることになった。彼はわたしの言葉を飲み食べるだけではなく、わたしの意図するところを把握しようと注意を払った。そして、常に思慮深く、慎重に考えた。だから、彼はいつでも霊が敏感で、その行いのすべてにおいて、わたしの心に適うようにすることができたのだ。ふだんの生活では、失敗の網にかかるようなことを深く恐れ、過去に失敗した人々の教訓を元に、より大きな働きができるよう、自らを励ました。ペテロはまた、遠い昔から神を愛した人々すべての信仰と愛から学んだ。このようにして、ペテロはどのような状況からも学び、急速に成長し、わたしの前で最もよくわたしを知る者となったのだ。このため、想像に難くないことだが、彼は所有物をすべてわたしの手に託し、もはや食べること、着ること、眠ること、どこに宿るかにおいてさえ、自分の主人であることをやめ、あらゆる点においてわたしを満足させ、それによってわたしの恵みを豊かに得たのである。まことに、わたしは何度もペテロを試した。もちろん彼は死にかけたのだが、そうした何百もの試練の中にあっても、彼は一度たりとわたしへの信仰を失ったり、わたしに失望したりしなかった。わたしがもう彼を捨て去ったと告げた時でさえ、ペテロの心が弱ってしまったり、絶望してしまったりすることなく、それまでと同じように、わたしへの愛を実現するため、自分の信じることを続けた。わたしは彼にこう告げたのだ。おまえをほめはしない。かえって、最後には、サタンの手中に投げ込む、と。そうした試練、肉の試練ではなく、言葉による試練の中にあって、ペテロはそれでもわたしに祈った——おお、神よ。天と地ともろもろのものの中にあって、人間や生き物、あるいはその他のもので、全能者の手の中にないものが何かあるでしょうか。あなたが憐れみを示されるとき、その憐れみのためにわたしの心は大いに喜びます。あなたがわたしに裁きを下されるとき、わたしはそれに相応しい者ではありませんが、その御業に神の計り知れない奥義をますます深く感じるのです。なぜなら、神は権威と知恵とに満ちておられるからです。わたしの肉は苦しみを受けても、霊においては慰められます。どうして神の知恵と御業とをたたえずにおられましょう。たとえ神を知って後に死ぬとしても、常に備えと心構えができています。おお、全能者よ。まことに、神がお姿をお示しにならないのは、そう望んでおられないためではないでしょう。まことに、わたしに神の裁きを受ける資格に欠けているからではないでしょう。わたしの中に、ご覧になりたくないものがあるということなのでしょうか。こうした試練の中にあって、ペテロはわたしの意図を正しく把握することはできなかったが、わたしに用いられることを(たとえそれが、人類にわたしの威厳と怒りとを示すため、裁きを受けるだけだったとしても)誇りと栄光であると考え、試練にさらされても、心砕けることがなかった。わたしの前で忠実であったため、また、わたしの与えた恵みのゆえに、ペテロは数千年もの間、人類のための手本、見習うべき者となったのだ。これこそは、あなたがたが見習うべき例ではないのか。今このとき、あなたがたは、わたしがなぜペテロのことを詳しく語っているのか、よくよく考えて、理解しなければならない。これをあなたがたの行動の原則としなければならない。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第六章」(『言葉』第1巻)より

試練へのペテロの態度

神は何度もペテロに試練を与え、そのため、もちろん彼は死にかけたのだが、そうした何百もの試練の中にあっても、彼は一度たりとも神への信仰を失ったことがない。神がもう彼を捨て去ったと告げた時でさえ、ペテロの心が弱ってしまったり、絶望してしまったりすることはなく、それまでと同じように、神を実際的なやり方で愛し続けた。神は彼に「たとえおまえがわたしを愛しても、おまえをほめず、最後にはサタンの手中に投げ込む」と言った。そうした試練の只中、それは肉への試練ではなく、言葉による試練であったのだが、ペテロはそれでも神に祈った。

おお、神よ。天と地ともろもろのものの中にあって、人間や生き物、あるいはその他のもので、全能者の手の中にないものが何かあるでしょうか。あなたが私に憐れみをお示しになりたいとき、その憐れみのために私の心は大いに喜びます。あなたが私に裁きを下されるとき、私はそれに相応しい者ではありませんが、その御業に計り知れない奥義をますます深く感じるのです。なぜなら、神は権威と知恵とに満ちておられるからです。私の肉は困難に苦しんでも、私の霊は慰められます。どうして神の知恵と御業とをたたえずにおられましょう。たとえ神を知った後に死ぬとしても、常に備えと心構えができています。

このような試練の中にあって、ペテロは神の意図を正確に把握することはできなかったが、神に用いられることを誇りと栄光であると考え、試練にさらされても心砕けることがなかった。神の前で忠実であったため、また、神の与えた恵みのゆえに、ペテロは数千年もの間、人類のための手本、見習うべき者となった。これこそは、あなたがたが見習うべき例ではないのか。今このとき、神がなぜペテロのことをこれほど詳しく語っているのか、あなたがたはよくよく考えて、理解しなければならない。これをあなたがたの行動原則としなければならない。

『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

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