日々の神の御言葉: いのちへの入り | 抜粋 542

2020年9月27日

あなたが神の旨に配慮すればするほど、あなたの重荷は大きくなり、その重荷が大きければ大きいほど、あなたの経験は一層豊かになる。あなたが神の旨に配慮するとき、神はあなたに重荷を与え、あなたに委ねた務めについてあなたを啓いてくださる。神があなたにこの重荷を与えると、あなたはそれに関連するすべての真理に留意しながら、神の言葉を飲み食いするようになる。あなたが兄弟姉妹のいのちの状態に関する重荷を負っているとすれば、それは神があなたに委ねた重荷であり、あなたは日々の祈りの中で常にその重荷を負うことになる。神の行いはあなたに課せられており、あなたは神が望むことを喜んで行なう。これが、神の重荷を自らの重荷として背負うということである。この時点であなたは、神の言葉を飲み食いする際、この種の問題に集中し、そして考えるようになる——「どうやってこの問題を解決すればいいだろうか。兄弟姉妹が解放され、霊的喜びを得られるようにするにはどうすればいいだろうか」と。また交わりにおいてもこうした問題の解決に集中し、神の言葉を飲み食いする際は、そうした問題に関する言葉の飲み食いに集中する。そして神の重荷を負いつつ、神の言葉を飲み食いする。ひとたび神の要求を理解すれば、あなたは歩むべき道を明確に理解できるようになる。これがあなたの重荷によってもたらされる聖霊の啓きと照らしであり、またあなたに与えられた神の導きでもある。わたしがこう言うのはなぜか。重荷がなかったとしたら、あなたは不注意に神の言葉を飲み食いすることになるが、重荷を負いつつ神の言葉を飲み食いすれば、神の言葉の本質を把握し、自分の道を見出し、神の旨に配慮することができる。だから神に祈るときは、自分にもっと多くの重荷を与え、より大きな任務を委ねてくださるよう祈りなさい。前途により多くの実践の道を得て、神の言葉の飲み食いをより効果的に行い、神の言葉の本質を把握し、より一層聖霊によって感動することができるようになるために。

神の言葉を飲み食いし、祈りを実践し、神の重荷を受け容れ、神が自分に委ねる任務を受け容れることはすべて、自分の前途を拓くためである。神の委託による重荷が大きければ大きいほど、神によって完全にされることが容易になる。神に仕える中で、召し出されても他者と協力したがらない者がいるが、そうした者は怠惰で、ただ快楽に溺れることを望んでいる。他者と協力して神に仕えることを求められれば求められるほど、得られる経験が多くなる。そしてより多くの重荷と経験を持つことで、完全にされる機会も増えることになる。そのためあなたが誠意を持って神に仕えることができれば、あなたは神の重荷を心に留めるようになるので、神によって完全にされる機会を一層多く得られるようになる。現在完全にされているのは、まさにこうした人々である。聖霊があなたに触れるほど、あなたは神の重荷を心に留めるために割く時間が増え、より一層神によって完全にされ、より神のものとされて、最終的には神に用いられる者となる。現在、教会のための重荷をまったく担っていない者もいる。そうした者は怠惰で不注意で、自らの肉のことしか考えていない。彼らは極度に自分勝手で、盲目でもある。この事実を明確に理解できないなら、あなたは重荷を担わないだろう。あなたが神の旨に配慮すればするほど、神があなたに託す重荷も大きくなる。自分勝手な者はそうした物事に煩わされたがらず、代償を払いたがらず、その結果として、神に完全にされる機会を失うのだ。これは自らを害する行為ではないだろうか。あなたが神の旨に配慮する者であれば、教会のために真の重荷を抱くようになる。実際、それは教会のために担う重荷というよりも、自分自身のいのちのために担う重荷と呼んだほうがいい。なぜならあなたが教会のために抱くこの重荷は、あなたがその経験によって神に完全にされるためのものだからだ。したがって、教会のために最大の重荷を担う者、いのちに入るための重荷を負う者は、神によって完全にされる者である。このことを明確に理解しているか。あなたが属する教会が砂のように乱れているにもかかわらず、あなたが憂慮も懸念もせず、兄弟姉妹が神の言葉を普通に飲み食いしていなくても見て見ぬふりさえしているなら、あなたは何の重荷も負っていない。そのような者は神に好まれない。神が好む者は、義に飢え渇き、神の旨に配慮している。だから、あなたがたはたった今神の重荷を心に留めるべきである。神がその義なる性質をすべての人間に表したら、それから神の重荷を心に留めようといって待っていてはならない。そのときにはすでに手遅れではないか。今は神に完全にされる好機である。もしこの機会を逃したなら、あなたは一生後悔するだろう——カナンの良き地に入れずに一生後悔して、自責のうちに死んだモーセのように。神がその義なる性質をすべての民に表すと、あなたは後悔の念に満たされることになる。神があなたを罰しないとしても、あなたは自責の念で自らを罰するだろう。このことに納得しない者もいるが、信じないなら、ただ見ていればいい。これらの言葉を全うすることだけを目的としている者もいるのだ。あなたは、この言葉のために身を捧げる意志があるだろうか。

神によって完全にされる機会を求めず、誰よりも早く完全にされるよう努めないならば、最終的には後悔の念で満たされることになるだろう。完全にされる絶好の機会、絶好の時は、今である。神に完全にされることを熱心に求めなければ、神の働きが完了した時にはすでに手遅れで、あなたは機会を逸したことになる。どれほど強く願っても、神がもう働きを行っていなければ、どんな努力を払っても、決して完全にされることはできない。あなたはこの機会をとらえ、聖霊がその大いなる働きを行っている間に協力する必要がある。この機会を逃せば、どれほど努めても二度と機会は与えられない。中には「神よ、私は喜んであなたの重荷を心に留め、あなたの旨を喜んで満たします」と叫ぶ者もいるが、そうした者には実践の道がないので、重荷は長く続かない。目の前に道があるなら、あなたは一歩ずつ経験を得ていき、その経験は体系的に整理されたものになるだろう。1つの重荷が完了すると、別の重荷が与えられる。あなたのいのちの経験が深まるほど、あなたの重荷も深みを増す。人によっては、聖霊に触れられたときだけ重荷を負い、しばらくして実践の道がなくなると、それ以降は重荷を負わない者もいる。あなたの重荷は、ただ神の言葉を飲み食いするだけで抱けるものではない。あなたは多くの真理を理解することで分別を身に付け、真理を用いて問題を解決できるようになり、神の言葉と旨についてのより正確な認識を得るだろう。こうしたことによってあなたは重荷を抱えるようになり、そうなって初めて、正しい働きを行えるようになる。重荷を抱えていても真理を明確に理解していなければ、それもまた意味がない。あなたは神の言葉を直接体験し、それを実践する方法を知らなければならない。自分自身が現実に入って初めて、他者に施し、他者を導き、神に完全にされることができるようになるのだ。

『神の出現と働き』「完全にされるべく、神の旨に配慮せよ」(『言葉』第1巻)より

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