日々の神の御言葉: いのちへの入り | 抜粋 559

2021年11月24日

人間の本性をどのように理解しますか。本性を理解するとは、実は魂の深さを分析するということです。それは、いのちの中にあるものにかかわっています。あなたがこれまで生きるにあたり、頼ってきたのはサタンの論理、サタンの観点です。つまり、あなたはサタンのいのちによって生きてきたのです。自分の魂の奥深い部分を掘り起こすことでのみ、あなたは自分の本性を理解できます。どうすれば、そうした物事を掘り起こせるでしょうか。一つや二つの出来事では、掘り起こすことも分析することもできません。何かをやり終えても、いまだ認識に至っていない場合が多くあります。ほんのわずかな認識や理解を得るのでさえ、三ないし五年かかる場合があるのです。多くの状況において、あなたは自分を反省し、自己認識できるようにならなければなりません。そして深く掘り下げて初めて、結果が見られるのです。真理に関する理解が深まるにつれ、あなたは自己反省と自己認識を通じて自分の本性実質を徐々に知るようになります。自分の本性を認識するには、いくつかのことを成し遂げなければなりません。第一に、自分が何を好むかを明確に理解しなければなりません。これは食べ物や着る物の好みのことではありません。そうではなく、どのような物事を楽しみ、うらやましく思い、崇拝し、求め、心の中で注意を向けているか、どのような人と触れ合うのを楽しむか、どのようなことをするのが好きか、どのような人を心の中で偶像化するか、ということです。例えば、大抵の人は立派な地位の人、話し方や立ち居振る舞いが優雅な人、説得力のある口上手な人、あるいは芝居がかった振る舞いをする人を好みます。ここで述べたのは、どのような人と交流するのが好きかについてです。どのようなものを楽しむかについては、簡単にできる特定のことをするのをいとわないとか、他者に良いと思われること、それをすれば褒められたり称賛されたりするようなことをするのを好むとかが含まれます。人の本性には、その人の好む物事に共通する特徴があります。つまり、人は他者がその見た目ゆえにうらやむような人や出来事や物事を好み、美しく豪華に見える人や出来事や物事を好み、その外見ゆえに他者が崇拝してしまう人や出来事や物事を好むのです。人が好むこれらの物事は、偉大で目がくらむような、華麗で壮大なものです。人はみなこのようなものを崇拝します。人には真理が一切なく、また真正な人間と似ても似つかないことがわかります。このような物事を崇拝することには、ほんの少しの意義もありませんが、人はそれでもこのような物事が好きなのです。……あなたが何を好み、何に注目し、何を崇拝し、何をうらやみ、毎日心の中で何について考えているのかは、みなあなたの本性を表している。あなたの本性は不義を好み、深刻な場合はあなたの本性は邪悪で救い難いと証明するにはこれで十分だ。あなたはそのように自分の本性を分析すべきである。つまり、自分が生活において何を好み、何を捨てるのかを検証しなさい。あなたは一時的には誰かに好意的かもしれませんが、それはあなたがその人を好きだという証拠にはなりません。あなたがほんとうに好きな物事は、まさにあなたの本性の中にあるものである。たとえ骨折しようが、なお楽しみ、決して手放すことのできないものである。これを変えるのは容易ではない。伴侶を見つけることを例にとりましょう。ある女性が誰かと恋に落ちたなら、誰もそれを止められないでしょう。たとえ両脚を骨折しても、彼女はその相手と一緒にいたいと思い、死んでも結婚したいはずです。どうしてそんなことがあり得るのでしょう。それは、誰も人間の奥底にあるものを変えられないからです。たとえ死んでも、その人の魂は変わらないままでしょう。それは人間の本性に関するものであり、人の本質を表わしているのです。人が好む物事にはある程度の不義が含まれています。そうした物事への好みをはっきり示す人もいれば、そうでない人もいます。またそれらを強く好む人もいればそうでない人もおり、自制できる人もいれば自分を抑えられない人もいます。中には暗い物事に耽溺しがちな人もいますが、それはその人にいのちがひとかけらもないことを示しています。そうした物事に囚われたり縛られたりしないでいられるなら、それは、その人の性質が少し変わり、多少の霊的背丈があることを示しています。中には多少の真理を理解し、自分にはいのちがある、自分は神を愛していると感じる人がいます。実際には、それはやはり早計で、性質の変化を経るのは単純なことではないのです。人の本性を理解するのは容易なことですか。たとえそれを多少理解しても、変化するのは容易なことではないでしょう。これは人にとって困難な領域なのです。自分の周囲の人や出来事や物事がどう変わろうと、あるいは世界がどのようにひっくり返ろうと、真理があなたを中から導き、あなたの中に根を下ろしているなら、そして神の言葉があなたの生活、好み、経験、および存在を導いているなら、あなたはその時点で真に変わっていることになります。現在のいわゆる変化とは、単に人が多少協力し、わずかな熱意と信仰があるということに過ぎません。それを変化と見なすことはできませんし、人にいのちがあることを証明してもいません。それは人の好みに過ぎず、それ以上のものではないのです。

人々が自分の本性の中で好んでいるものを掘り起こすことに加え、自分の本性に関するその他の側面もまた掘り起こす必要があります。たとえば、物事への視点、人の生き様と人生の目標、人生に対する価値観と人生観、そして真理に関するあらゆることへの観点です。それらはみな、人の魂の奥深くに存在する事柄であり、性質の変化と直接関係しています。では、堕落した人類の人生観はどのようなものですか。それは「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」と言えます。人はみな自分のために生きますが、もっとはっきり言えば、肉のために生きています。自分の口に食べ物を入れるためだけに生きているのです。そうした生存が動物の生存とどう違うでしょうか。このように生きることに価値は一切なく、まして意味などありません。人の人生観は、自分が何に頼ってこの世で暮らしていくか、何のために生きるのか、どのように生きるかに関するものです。それらはどれも人の本性の本質に関係する事柄です。その本性を分析することで、人がみな神に抵抗していることがわかります。みな悪魔であって、本当の善人が一人もいないのです。人の本性を分析することでのみ、人の本質と堕落を真に知り、人が本当は何に属しているか、本当に欠けているものは何か、何を備えるべきか、どのように人間らしく生きるべきかを理解できます。人の本性を真に分析するのは簡単なことでなく、神の言葉を経験するか、真の経験を有していなければ不可能です。

『終わりの日のキリスト講話集』「性質の変化について知るべきこと」(『言葉』第3巻)より

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