日々の神の御言葉: 神を知る | 抜粋 20

2020年5月18日

事実、神の性質というのは隠されたものではなく、いつでもわたしたちに開かれているものだ。というのは、神は決して意識的に何人を避けるのではなく、自分が人に知られないように、あるいは理解されないように敢えて自分を隠すようなことはしないからである。神の性質はいつでも開かれており、いつでも一人ひとり率直に対面しているのである。神が経営する期間、神は全ての人に相対して働くのである。そして、神の働きは一人ひとりに対して行われている。神がその業を行うにあたって、神は絶えず自身の性質を現し、自身の本質と、神であるもの、神の持っているものを用いて一人ひとりを導き、そして一人ひとりに与える。どのような時代や段階にあっても、状況の善し悪しにかかわらず、神の性質はいつでも一人ひとりに対して開かれており、神の持っているもの、神であるものは一人ひとりに対して開かれている。それは神のいのちが絶えることなく人間に与え続け、また人間を支え続けているのと同じである。にも関わらず、ある人たちにとっては神の性質は隠されたもののように思えるのである。なぜだろうか。それは、彼らが神の働きの中で生き、神に従っていたとしても、神をもっと深く知りたいと願ったり、ましてや神と親しくなりたいと思ったりしたことがないからである。そのような人たちにとって、神の性質を理解するということは、彼らの終わりの時が近づいているということであり、神の性質によって裁かれ、罪に定められるということである。彼らは神自身やその性質を知りたいと願ったことがなく、神の意志についてのより深い理解や知識も切望しない。彼らは意識的に協力することで神の意志を理解しようとは思わないのである。彼らは自分がしたいと思うことを行い楽しむことに飽くことがない。彼らが信じているのは自分にとって都合のいい神、自分の想像や観念の中にのみ存在する神であり、日々の生活から離れないでいてくれる神なのである。しかし真の神自身となると、彼らは完全に拒絶する。神を理解しようという気もなく、神に目を向けることもなく、神とより親しくなろうなどとは思わない。彼らは神が語った言葉を、自分自身の上辺を飾って綺麗に包装するための表現に用いているのである。そして、そのことで自分が「成功している信者」であり、自分は本心から神への信仰を持っていると思っているのである。しかし実際には、彼らが導かれているのは自分自身の想像や観念、さらにいえば、自分のイメージにあった神なのである。一方で、真の神自身は彼らとは全く関係がない。というのも、もし彼らが真の神とその性質を理解し、神の持っているものと神であるものを理解するなら、このことは彼らの行動や信仰、そして求めていることは罪に定められることを意味するからである。それゆえに彼らは神の本質を理解しようとはせず、神自身について、そして神の意志と性質についてよりよく知るために自ら求めたり祈ったりしようとはしないのである。むしろ彼らは、神が、人間が作り上げた中身のないぼんやりとした存在であることを望んでいるのである。彼らが望んでいるのは、自分の想像通りの神で、自分たちの思うとおりになり、限りなく与え、自分がいて欲しい時にはいつでもいてくれる神なのである。彼らが神の恵みを享受したいと思うときには、神自身ではなく、その恵みだけを求める。彼らが神の祝福を必要とするときには、神自身ではなく、その祝福だけを求める。彼らが逆境にあるときには、自分たちを励まし、安全網となってくれることを求める。このような人々の神への認識は恵みと祝福の範囲を出ることがない。また、彼らの神の働き、神の性質、そして神自身への理解は自分の想像の中だけのものであり、文字と教義上だけのものである。しかし神の性質を本当に追い求める人たちもいる。それは心から神自身を知りたいと思い、神の性質と神の持っているもの、神であるものを本当に理解したいと願っている人たちである。そのような人たちは、真理の現実、そして神の救いを求め、神が自分を征服し、救い、完全にしてくださることを望んでいる。そのような人たちは心を神の言葉に向け、心から自分の周りの人や物事、そして状況、神が準備した事を認識し、心から祈り、求めるのである。彼らが欲しているのは何よりも神の意志を知ることであり、神の性質と本質を理解することだ。そうすれば彼らが二度と神に反することなく、経験を通して神の素晴らしさや神の真実の一面を知っていくことができるからである。そして、最早想像や概念や不明瞭さの狭間に生きることはないであろう。まさに正真正銘の神が彼らの心の中に宿り、神が心に居場所も又確保するであろう。彼らが神の性質と本質を切実に理解することを願い追求するのは、人間の経験においても、神の性質と本質は常に必要なものであり、人生を通していのちを与えるものだからである。一旦神の性質を理解したら、神をより畏れ、神の計画に協力し、神の意志をより配慮し、持てる力の全てで自分の本分を果たすことができるようになる。神の性質に対する人間の態度には2種類ある。一つ目は、神の性質を理解したくないという態度である。彼らは口では神の性質を理解し、神自身を知り、神の持っているものと神であるものを知りたいと言い、心から神の意志に認めたいと言うのだが、心の奥底では神が存在しなければよいと思っている。というのは、彼らは一貫して神に不従順で、神に抵抗しているからである。自分の心の中の支配権を神と争い、しばしば神の存在を疑ったり拒否すらしたりする。彼らは神の性質あるいは真の神が自分たちの心を支配することを望まない。彼らの望みは、自分の欲望が、想像力が野心が満たされることだけである。つまり彼らは神を信じ、従い、家庭や仕事を神に捧げてはいるかもしれないが、悪の道を進み続けるのである。ひどい場合には献金を盗んだり浪費したり、私生活で神を呪う言葉を言ったりする者もあれば、自分の地位を利用して繰り返し自分に有利な証言をして自分の立場を強化し、人や地位に関して神と争おうとするのである。彼らはあらゆる手段を用いて人々に自分を崇拝させ、常に人々の心を虜にし、支配しようとする。さらにひどい場合には意図的に彼ら自身が神であるかのように扱われると考えさせるように誤って導くのである。彼らは自分が堕落しているとは決して言わない。自分も堕落した高慢な存在であり、崇拝の対象にはなりえないことを人々に決して伝えない。また彼らがどれだけ立派にやっているとしても、それは神の行ったことのゆえであり、単にすべきことをしているに過ぎないとは言わない。なぜ彼らはこの事実を伝えないのか。それは人々が自分に見向きもしなくなるのを恐れているからである。このような者は神を理解しようとしたことがないので、決して神をあがめず、神の証人とはならないのである。神を理解することなく神を知ることはできるだろうか。不可能だ。ゆえにこの「神の働き、神の性質、そして神自身」というテーマはシンプルなようだが、人によってその意味するところは異ってくるのである。このテーマは、真理の現実を求め、神の意志を知るために神の前にしばしば立つものにはまさに魚に水だが、神に従わず、神に抵抗し、神に敵対する者にとっては罪の責めをもたらすものだ。あなたがたの中には神の性質と神の働きについての話を聞くと頭が痛くなり、心がさらに頑なになり、非常に不愉快に感じる人もいるだろう。又あなたがたの中には別に「このテーマは自分自身に非常に有益となるのでまさに私が必要としていたものである」と。「私の人生経験において欠かせないものであり、何にもまして最重要課題であり、信仰の基礎であり、人間が切り離すことのできないものである」と言う者もいるだろう。みなさんにとってはこのテーマは近くでもあり、遠くでもある、そして知らないようで知っている、そんなテーマである。ただいずれにしても、このテーマはここにいる全ての人が聞き、知り、そして理解しなければならないものである。ここで聞くことをあなたがどのように扱うにしても、また、どのような視点で捉えるにしても、どのように受け止めるにしても、このテーマの重要性は無視できないものだ。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 1」(『言葉』第2巻)より

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