日々の神の御言葉「神の働き、神の性質、そして神自身 2」抜粋36

日々の神の御言葉「神の働き、神の性質、そして神自身 2」抜粋36

197 |2020年5月21日

神はソドムを滅ぼさなければならなかった

(創世記 18:26)ヤーウェは言われた、「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」。

(創世記 18:29)アブラハムはまた重ねて神に言った、「もしそこに四十人いたら」。神は言われた、「それをしないであろう」。

(創世記 18:30)アブラハムは言った、「もしそこに三十人いたら」。神は言われた、「それをしないであろう」。

(創世記 18:31)アブラハムは言った、「もしそこに二十人いたら」。神は言われた、「滅ぼさないであろう」。

(創世記 18:32)アブラハムは言った、「もしそこに十人いたら」。神は言われた、「滅ぼさないであろう」。

神は自身の言葉に従い、命令に従う者のみを慈しむ

上の箇所はいくつかのキーとなる数字を含んでいる。始めヤーウェは、もしその町に五十人の正しい人を見つけたならば、その町全部を赦し、滅ぼさないと言った。結果はどうであったか。五十人の正しい人がいたか。いなかった。アブラハムは速やかに神に何と言ったか。「もし四十人いたら」と言った。すると神は、「滅ぼすまい」。するとアブラハムは言った。「もし三十人いたら」。神は言った。「滅ぼすまい」。「もし二十人いたら」。「滅ぼすまい」。「もし十人いたら」。「滅ぼすまい」。実際に十人の正しい人がその町にいたか。十人はいなかった――いたのはひとりだけだった。それは誰か。ロトだ。この時ソドムには正しい人がひとりしかいなかったが、神はそのことを厳しく、細かく追求しただろうか。しなかった。人間に「もし四十人いたら」、「もし三十人いたら」、そして最後に「もし十人いたら」と聞かれても、「たとえ十人だとしても、その町を滅ぼすまい、その十人のために。滅ぼさず、その十人以外の全員を赦そう」と言った。十人しかいないことでも十分哀れだが、実際にはソドムに十人の正しい人はいなかった。そうであれば、この町の人々が神の目には滅ぼすしかないほど罪と悪に満ちていたことがわかるだろう。五十人の正しい人がいたなら、町を滅ぼさないと神が言ったその意味は何だろうか。これら数字は神にとって重要ではなかった。重要なのは、神が望むような正しい人がその町にいたかどうか、であった。ひとりでも正しい人がその町にいたならば、町を滅ぼしてその正しい人に危害が及ぶことを神は許さなかった。つまり、この町を神が滅ぼすか否か、そこにいた正しい人が何人なのかに関係なく、この罪深い町を神は呪い、嫌っており、滅ぼされて神の目の前から消えるべきだったのである。そして正しい人は生かされるべきだったのである。時代や人間の進歩がどのような段階であれ、神の態度は変わらない。悪を憎み、神の目に正しい人を慈しむ。この明確な神の態度は、神の本質の真の現れでもある。ソドムの町に正しい人がひとりしか見つからなかった時、神は滅ぼすことを拒まなかったからだ。結果ソドムは滅ぼされた。このことから何が見て取れるだろうか。その時代、たとえその町の正しい人が五十人でも十人でも、神は町を滅ぼすことはしなかった。つまり、神を敬い、崇拝する僅かな人間のために、神は全員を赦し忍耐したか、あるいは導きの働きをしたであろう。神は人の正しさを重要視する。自身を崇拝し、自身の前に良い行いのできる者を重要視する。

人類の最初期から今日に至るまで、神が真理を語り、神の道を誰かに語る記録が聖書に書かれているのを読んだ人はいるだろうか。ひとりもいない。わたしたちが読む神の言葉は、人々がすべきことを示しているだけだ。その通りに行った人もいれば、行わなかった人もいる。信じた人もいれば信じなかった人もいる。それだけのことである。したがって、この時代の義人たち、つまり神の目にあって義と認められた人たちは、神の言葉を聞いて神の命令に従うことができるというだけだったのだ。彼らは人々の間で神の言葉を実行するしもべだった。そのような人々が、神を知っていたと言えるだろうか。神によって全き者とされた人たちと言えるだろうか。いや、言えない。それならば神にとって、正しい人の数に関係なく、彼らを神の親友と呼ぶに相応しかったのだろうか。彼らを神の証人と呼ぶことができるだろうか。決して呼ぶことはできない。神の親友とか証人などと呼ばれる価値など勿論ない。では神はそのような人々を何と呼んだのか。聖書の中の今日読んだ聖句の中で、神は何度も彼らを「わたしのしもべ」と呼んでいる。つまり、当時このような義人たちは神のしもべであり、地上で自身に使える人々であった。神はしもべと呼ぶことをどう思っていたのだろうか。なぜしもべと呼んだのだろうか。人々の呼び方に対して神の心に基準があるのだろうか。もちろんある。義人、全き人、公正な人、しもべ――どう呼ぶにせよ、神には基準がある。神はある人を「神のしもべ」と呼ぶ時、神はその人が使いを受け入れることができ、自身の命令に従い、使いによって命ぜられたことを実行できるという確信がある。このしもべと呼ばれた人は何をするのか。神が人に命じ、地上で行うようにと言われたことをするのである。この時、神が人間に地上でせよと言われたことは神の道と言えるだろうか。いや、言えない。当時神はほんの僅かの事しかせよと言っていないからである。神は人に少しの単純なことを、これをせよ、あれをせよというように命じただけだった。神は自身の計画に従って働いた。それは当時、条件がまだ揃っておらず、機も熟しておらず、人間が神の道を背負うのは難しかったため、神の心から神の道が発せられていなかったからである。ここに、三十人であれ二十人であれ、神が義人を語る時には、神の目に彼らはみなしもべであったことを見ることができる。神の使いが彼らに臨んだ時、彼らは使いを受け入れることができ、命令に従い、使いの言葉通りに行動することができた。神の目には、これが正にしもべが行い、成し遂げるべきことだった。神は人々の呼び名に関して思慮深い。神が彼らをしもべと呼んだのは、彼らが今のあなたがたのような者だったからではない。つまり、彼らが説教を沢山聴き、神がなにをしたいかを知り、神の心の多くを理解し、神の経営(救いの)計画について深く知っていたからではない。ただ彼らの正直で、神の言葉に従うことができる人間性によるものである。神が彼らに命令すると、彼らは自分のしていることをやめて、神が命令したことを遂行することができたのである。それゆえ、神にとっては、しもべという彼らの呼び方に込められたもうひとつの意味は、神の地上での業に協力する者ということだった。彼らは神の使いではないが、地上で神の言葉を遂行し実現する者たちだったのである。このようなことから、これらのしもべ、あるいは義なる者たちは神にとって非常に重要な存在だったことが理解できる。神が地上で行おうとしていた業は神に協力する人間なしでは行うことができず、神のしもべによって引き受けられた役割は神の使いには果たせないものだったのである。神がこれらのしもべに命令したことのひとつひとつは神にとって非常に重要なことであったため、神は彼らを失うわけにはいかなかった。これらのしもべの神への協力がなければ、神が人の間で行った業は行き詰まり、その結果、神の経営(救いの)計画も神の希望も無になってしまうだろう。

『言葉は肉において現れる』より引用

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