日々の神の御言葉: 神を知る | 抜粋 77

2021年10月26日

ラザロの復活が神を讃える

ヨハネによる福音書 11:43-44 こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。

この一節を読んで、あなたがたはどのような感想をもちますか。主イエスが行なったこの奇跡の意義は、先ほど検討した奇跡よりもはるかに重大なものです。なぜなら、死人を墓から蘇らせること以上に驚異的な奇跡はないからです。この時代、主イエスがそのような業を行なったことには極めて大きな意義がありました。神は受肉していたので、人々は神の物理的存在、実際的な側面、取るに足らない要素しか見ることができませんでした。神の性格、あるいは神がもっていると思しき特別な能力を、見て理解している人も中にはいましたが、主イエスがどこから来たか、本質的にどのような者か、他に何をできるかについては誰一人知りませんでした。それはどれも人類に知られていなかったのです。そのため、主イエスにまつわるこれらの疑問に答えるべく証拠を見つけ、真相を知ろうと望む人が数多くいました。神は何らかの業を行なうことで、自身の身分を証明することができましたか。神にとってそれは朝飯前、極めて容易なことでした。神はいつでもどこでも何かを行ない、自身の身分と本質を証明することができましたが、神には物事を行なう方法がありました。計画通りに、段階的に行なうのです。神が無闇に何かを行なうことはなく、最適な時期と機会が到来するのを待って、人間に見させる物事、本当に有意義な物事を行なうのです。そのようにして、神は自身の権威と身分を証明しました。では、ラザロの復活は主イエスの身分を証明できたでしょうか。次の聖句の一節を検討しましょう。「こう言いながら、大声で『ラザロよ、出てきなさい』と呼ばわれた。すると、死人は……出てきた」主イエスがこの業を行なったときに言ったのは、「ラザロよ、出てきなさい」というひと言だけでした。するとラザロは墓から出てきましたが、それは主の発したたったひと言で成し遂げられたものです。このとき、主イエスは祭壇を立てることも、それ以外の業を行なうこともありませんでした。そのひと言を述べただけなのです。これは奇跡と呼ぶべきでしょうか。それとも命令と呼ぶべきでしょうか。あるいは何らかの魔術だったのでしょうか。表面上はこれを奇跡と呼ぶことができ、現在の観点から見ても、当然奇跡だと言えるでしょう。しかし、魂を死から呼び戻す類の魔術とは決して考えられず、絶対にいかなる魔法でもありません。この奇跡は創造主の権威を実証する、最も普通かつ些細な証明である、というのが正しいのです。これが神の権威と力です。神には人を死なせたり、その魂を身体から離れさせて冥府へ還らせたり、その他の然るべき場所に戻らせたりする権威があります。人がいつ死ぬか、死後にどこへ向かうかは、いずれも神によって定められます。神はいつでもどこでもその決断を下すことができ、いかなる人間や出来事、物事、空間、および地理的条件の制約を受けません。神は望むことを何でも行なえます。なぜなら、万物とすべての生物は神の支配下にあり、あらゆる物が神の言葉と権威によって生まれ、生き、消滅するからです。神は死者を復活させることができますが、これもまた、神がいつでもどこでも行なえることです。これが、創造主のみがもつ権威です。

主イエスがラザロを死から復活させるといった業を行なったのは、人に関する一切のこと、および人の生死は神によって定められること、またたとえ肉になったとしても、神は依然として目に見える物理的世界を支配するとともに、人には見えない霊的世界をも支配し続けていることについて、人間とサタンに証拠を与えて知らしめるのが目的でした。これは、人に関する一切の事柄がサタンの支配下にないことを、人間とサタンに知らしめるためです。これはまた神の権威の現われ、顕現であり、人類の生死が神の手中にあることを万物に伝える手段でもあるのです。主イエスによるラザロの復活は、創造主が人類を教え導く手段の一つでした。これは、神が自身の力と権威を使って人類を指導し、彼らに糧を施す具体的な行動だったのです。また、創造主が万物を支配しているという真理を、言葉を用いることなく、人類が理解できるようにするための手段でもありました。さらに、神による以外に救いは存在しないことを、実際の業を通じて人類に伝える手段でもありました。神が人類を教え導くこの無言の手段は永続的なものであり、消えることがなく、決して色あせない衝撃と啓示を人間の心にもたらします。ラザロの復活は神を讃えるものであり、神に付き従うすべての人に大きな衝撃を与えます。それにより、この出来事を深く理解するすべての人に、神だけが人類の生死を支配できるという認識、そしてビジョンが固く定着します。神にはこの種の権威があり、ラザロの復活を通じて人類の生死に対する自身の権威を伝えましたが、これは神の主要な働きではありませんでした。神は決して無意味なことをしません。神が行なうすべてのことには大きな価値があり、どれも宝物庫に眠る比類なき宝石なのです。「人を墓から出させる」ことを、自身の働きの最優先事項、あるいは唯一の目的ないし項目にすることは決してないのです。神は無意味なことを一切行ないません。ラザロの復活は、それだけで神の権威を示し、主イエスの身分を証明するのに十分です。そのため、主イエスはこの種の奇跡を繰り返しませんでした。神は自身の原則にしたがって業を行ないます。人間の言語で言うならば、神は重要な物事にしか関心がないと言えるでしょう。つまり、神は業を行なうとき、自身の働きの目的から外れることがないのです。神はこの段階でどのような働きを行ないたいのか、何を成し遂げたいのかを知っており、自身の計画に厳密にしたがって働きを行ないます。堕落した人間にこうした能力があっても、その人は単に、自分がどれほど優れているかを他人に知らしめ、頭を下げさせ、その人たちを支配して呑み込もうと、自分の能力を誇示する手段を考えるだけでしょう。それはサタンに由来する邪悪であり、堕落と呼ばれます。神にそうした性質はなく、またそうした本質もありません。神が業を行なうのは自己顕示のためではなく、人類により多くの啓示と導きを施すためであって、そのため聖書には、この種の出来事がごくわずかしか見られないのです。そのことは、主イエスの力が限られていたという意味でも、そうしたことを行なえなかったという意味でもありません。それは単に、神が行なおうと思わなかっただけなのです。と言うのも、主イエスがラザロを復活させたことには極めて現実的な意義があり、また受肉した神による主要な働きは、奇跡を行なうことでも、人間を死から復活させることでもなく、人類を贖う働きだったからです。そうしたわけで、主イエスが成し遂げた働きの大半は、人々に教え、糧を施し、助けるものであり、ラザロを復活させるといった出来事は、主イエスが果たした職分のほんの一部に過ぎませんでした。さらに、「自己顕示」は神の本質に含まれていない、とも言えるでしょう。そのため主イエスは、それ以上の奇跡を示さないことで自ら抑制を働かせていたのではなく、環境に制約されていたのでもありません。そしてもちろん、力が足りなかったからでは決してありません。

主イエスがラザロを死から復活させる際に使った言葉は、「ラザロよ、出てきなさい」というひと言だけでした。それ以外には何も言わなかったのですが、そのひと言は何を示していますか。神は語ることで、死者の復活を含むあらゆることを成し遂げられることを示しています。神は万物と世界を創造したとき、言葉でそれを行ないました。言葉で命じ、その言葉には権威がありました。万物はそのようにして創られ、かくして創造が成し遂げられたのです。主イエスが述べたこのひと言は、天地と万物を創造した際に神が述べた言葉と同じであり、神の権威と創造主の力がありました。万物は神の口から発せられた言葉によって形づくられ、しっかり立つことができましたが、それと同じように、ラザロは主イエスの口から発せられた言葉によって墓から歩き出たのです。これは受肉した肉体において示され、実現された神の権威です。この種の権威と能力は創造主に属するものであり、また創造主が形あるものとなった人の子に属するものです。神はラザロを死から蘇らせることで、それを人類に教えて理解させたのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 3」(『言葉』第2巻)より

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