日々の神の御言葉: 神を知る | 抜粋 100

2020年7月16日

神の権威とは、神の力であると説明できる。まず、権威と力は、両方とも肯定・善であると断言できる。権威と力は、否定・悪と無関係であり、創造物やそれ以外の物と関連性が無い。神の力は、生命や活力のある、あらゆる形の物を造ることが可能であり、それは神の命により決定される。神は生命であり、したがって全ての生物の源である。さらに、神の権威は、あらゆる生物を神のすべての言葉に従わせることができる。すなわち、神が述べた言葉に従って現れ、神の命令により生き、繁殖し、それ以後、神があらゆる生物を支配しあらゆる生物に命令し、このことから逸脱する物は永遠に存在しない。人間や物には、こうした力が無い。こうした力は神のみにあり、したがってその力を権威という。これは、創造主の独自性である。したがって、それが「権威」という言葉自体であれ、権威の本質であれ、それは神としか関連づけられない。なぜなら、権威は、創造主の固有の身分と本質の象徴であり、また創造主の身分と地位を示すものである。創造主以外に、「権威」という言葉と関連づけられる人間や物は存在しない。これが創造主に固有の権威の解釈である。

サタンは、その欲のある眼でヨブを見ていたが、神の許可が無ければ、ヨブの体毛の1本ですら触れることができない。サタンは生来邪悪かつ残酷であるが、ひとたび神がサタンに命令すると、サタンはその命令に従うほか無い。そうしたわけで、サタンがヨブのところに来たとき、サタンは羊の中の狼のように凶暴であったにもかかわらず、サタンは神が定めた限界を無視することも、神の命令に背く事も無く、サタンは、全ての行動において、神の言葉の原則と限度から逸脱することは無かった。これは事実ではなかろうか。この観点から見ると、サタンはヤーウェ神の言葉に背くことが無かったことが分かる。サタンにとって、神が述べた言葉は、すべて命令であり、天の律法であり、神の権威を示すものであった。なぜなら、神の言葉の背後には、神の命令に背いた者や天の律法を破った者に対する神の罰が暗示されているからである。サタンは、自分が神の命令に背いた場合、神の権威から逸脱し、天の律法を破った報いを受けなければならないことを、はっきりと認識している。それでは、その報いとは、どのようなものであろうか。それは言うまでも無く、神による罰である。サタンのヨブに対する行為は人間を腐敗させるサタンの行動の縮図に過ぎず、サタンがそれらの行為を行っていた時、神が定めた限界と、神がサタンに対して命令した事柄は、サタンのあらゆる行動の背後にある原則の縮図に過ぎない。さらに、この一件におけるサタンの役割と立場は、神の経営の働きにおけるサタンの役割と立場の縮図に過ぎず、サタンがヨブを試した時の、サタンの神に対する完全な服従は、神の経営の働きに対して、サタンが少しも反抗しようとしなかったことの縮図に過ぎない。これらの縮図はあなた方に何を警告するだろうか。サタンを含めた万物のなかには、創造主が定めた天の律法や命令に背くことができるものは一切無く、また、こうした天の律法や命令に違反しようとするものは一切ない。なぜなら、服従を拒んだ者に対して創造主により科される罰に変更を加えたり逃れたりできる人間や物は存在しないからである。天の律法や命令を定めることができるのは創造主のみであり、それらを施行できるのも創造主のみであり、人間や物が背くことができないのは、創造主の力のみである。これが、創造主固有の権威であり、この権威は万物において至高のものであるので、「神は最も偉大であり、サタンはその次に偉大である」と言うことはできない。固有の権威を持つ創造主を除いて、神は存在しないのである。

あなた方は、神の権威に関して、新たな認識を得ることができたであろうか。まず、今述べた神の権威と、人間の力との間に、相違点はあるであろうか。その相違点とは何であろうか。一部の人々は、それらは比較できないと言う。それは正しい。神の権威と人間の力は比較できないと言われているものの、人間の思考や思想のなかでは、人間の力が神の権威と混同されることが往々にしてあり、人々はこの両者を並べて比較する場合がある。これは、どのような状況であろうか。この両者のうち一方を他方に代えるというのは、人々は不注意に過ちを犯しているのではなかろうか。両者に関連性は無く、両者は比較できないが、人々は比較せずにはいられないのである。こうした状況は、どうすれば解決できるであろうか。真剣に解決策を見出したいと願うのであれば、神固有の権威を知ることである。創造主の権威を理解し知ることにより、あなたは人間の力と神の権威を同じ範疇で議論しなくなるであろう。

人間の力とは、何であろうか。簡潔に言うと、人間の力とは、人間の腐敗した性質や欲望、野望を拡大し、最大限に達成するための技能である。そうした技能は権威とみなされるであろうか。ある者の野望と願望がどれほど強く、成功であったとしても、その者に権威があるとは言えない。そうした自惚れや成功は、せいぜいサタンが人間の世界で行う茶番に過ぎず、サタンが神となる野望を果たすために、自らの祖先を演じる喜劇に過ぎない。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 1」(『言葉』第2巻)より

神の権威は創造主の身分と本質の象徴

神は生きとし生けるものの命の源。神の権威は万物を神の言葉に従わせる。神の言葉でそれらは誕生する。命じるとそれらは生き増え広がる。神は全ての生き物を支配し、逸脱するものは永遠にない。神の力は生命と活力を持つ、どんな形の生き物でも創れる。これは神の命により定められる。

そんな力は誰にもどんな物にもない。それを持っているのは唯一創造主だけだ。これは神の独特な本性、本質、地位の象徴で権威と呼ばれる。神は全ての生き物を支配し、逸脱するものは永遠にない。神の力は生命と活力を持つ、どんな形の生き物でも創れる。これは神の命により定められる。

心に留めなさい、神の他には誰もまた何ものも『権威』という言葉とその本質に関わりがない。神は全ての生き物を支配し、逸脱するものは永遠にない。神の力は生命と活力を持つ、どんな形の生き物でも創れる。これは神の命により定められる。

『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

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