日々の神の御言葉「唯一無二の神自身 10」抜粋199

日々の神の御言葉「唯一無二の神自身 10」抜粋199

0 |2020年8月1日

神に対する人類の様々な態度

人が神に対してどのような態度をとるかによって、その人の運命が決まるとともに、その人に対する神の態度と取り扱いも決まります。ここで、人が神に対してどのような態度をとるか、その例をいくつか挙げます。神の前における各々の振る舞いが正しいかどうか、じっくり耳を傾けて確かめてください。まずは次に挙げる七種類の人間の行動について考えましょう。

1)神に対する態度がことさら不条理な種類の人々がいます。こうした人たちは、神は菩薩、あるいは民話に登場する聖なる存在のようなものであり、人間が神と会うときは三回礼をして、食後に香を焚かなければならないと考えています。結果としてこうした人たちは、神の恵みを心の底からありがたいと思い、神に感謝するたび、このような衝動を感じるのです。この人たちは、いまの自分が信じている神が、心の中で慕っている聖なる存在のように、自分たちのやり方、すなわち神と会うとき三回礼をし、食後に香を焚くというやり方を受け入れられることを強く願っています。

2)神のことを生き仏と見なし、あらゆる生物を苦しみから引き上げ、救うことができると考えている人がいます。彼らは神のことを、苦しみの海から自分たちを救い出せる生き仏として見ているのです。こうした人々の神に対する信仰には、神を仏陀として崇めることが伴っています。彼らは香を焚くことも、叩頭することもなく、捧げ物もしませんが、神はまさに仏陀のような存在であって、自分たちが親切であり、寛大であり、殺生を行わず、他人の悪口を言わず、正直に見える人生を送り、悪事を行なわないよう求めているだけだと思っています。神は自分たちにこれしか求めていないと信じているのです。これが、こうした人々が心に抱く神なのです。

3)神を偉人や有名人のごとく崇拝する人がいます。たとえば、その偉人が好む話し方、その偉人の口調、言い回し、語彙、語調、身振り、意見、行動、そして態度がどのようなものであろうと、こうした人たちは神を信仰する中で、そのすべてを完全に模倣するのです。

4)神を君主と見なす人がいます。こうした人たちは、神は誰よりも高位にあり、あえて神に逆らおうとするものはおらず、逆らった場合、その人は刑を科されると感じています。彼らがこのような君主を崇めるのは、自分の心のある部分がその君主に占められているからです。君主の考え、振る舞い、権威、本性、さらには関心事や個人生活までもが、すべて自分たちが理解すべきこと、考慮すべき問題となっているのです。結果として、こうした人たちは神を君主として崇拝しています。このような形の信仰は馬鹿げています。

5)神の存在についてある特定の信仰をもち、その信仰が深遠かつ揺るぎないものである人がいます。しかし、こうした人たちの神に関する認識は極めて表面的なものであり、神の言葉に関する経験が少ないため、神を偶像として崇拝するのです。この偶像が彼らの心中における神であり、畏れ、服従し、付き従い、模倣しなければならないものだと思っています。彼らは神を偶像と見なし、生涯にわたって付き従わなければならないものだと考えています。こうした人たちは神の口調を模倣し、神が好む人々の外見を真似します。純粋無垢で正直に見えることを頻繁に行い、決して離れられない仲間、あるいは道連れであるかのように、偶像に付き従うことさえします。これがこの種の人たちによる信仰の形です。

6)神の言葉を数多く読み、説教を大量に聞いたにもかかわらず、心の奥底で、絶えず神にこびへつらうこと、あるいは非現実的な形で神を讃美することが、神に対する自分の振る舞いにおける唯一の原則だと思っている類の人がいます。こうした人たちは、自分がこのように振る舞うよう神は求めていると信じています。さらに、自分がそれを怠ると、いつ何時神の怒りを招いたり、神に対して罪を犯したりするかもしれず、その罪のせいで神に懲罰されると信じています。これが、こうした人たちが心の中で抱いている神なのです。

7)そして次に、神の中に精神的な施しを見出す人がいますが、そのような人は大半を占めています。それは、この世で生活しており、平和も幸福もなく、慰めを見出すこともできないからです。こうした人たちはいったん神を見つけ、神の言葉を聞いて理解すると、心の中で密かな幸福と高揚感を抱き始めます。それは自分の魂が幸福になる場所と、精神的な支えをもたらす神を、ようやく見つけ出したと信じているからです。神を受け入れ、神に付き従い始めると、彼らは幸福になり、生活が満たされます。もはや未信者のように振る舞うことはなく、あたかも動物のようにあてどなくさまようこともなくなり、人生に期待できるものがあると感じます。ゆえにそうした人たちは、この神が自分の精神的な必要性を大いに満たし、精神と魂の両面において自分に大きな幸福をもたらせると考えているのです。彼らは無意識のうちに、こうした精神的な支えを与え、自分の精神と家族全員に幸福をもたらす神から離れられなくなります。神への信仰は精神的な支えさえもたらせばよいと信じているのです。

以上、神に対する様々な態度に触れてきましたが、あなたがたの中にそうした態度の人がいますか。(います。)神への信仰において、心の中にこうした態度のいずれかがある場合、その人は真に神の前に来ることができますか。心の中にこうした態度がある人は、神を信じていますか。そのような人は唯一無二の神自身を信じていますか。(信じていません。)唯一無二の神自身を信じていないのであれば、あなたは何を信じているのですか。信じているのが唯一無二の神自身でないとすれば、あなたは偶像、偉人、あるいは菩薩を信仰しており、心の中にいる仏陀を崇拝している可能性があるのです。さらに、あなたは普通の人を信じている可能性もあります。要するに、様々な信仰形態と神に対する態度が原因となって、人は自分が認識している神を心に据え、神に自分の想像を押しつけるとともに、神に対する自分の態度と想像を唯一無二の神自身と同列に位置づけ、それを高く掲げて神聖なものにしているのです。神に対してこうした不適切な態度をとることは、何を意味しますか。それは真の神自身を捨て、偽の神を信仰していることを意味すると同時に、神を信じながら神を捨て、神に反抗していること、そして真の神の存在を否定していることを示しています。こうした形の信仰にしがみつくとしたら、その人にはどのような結果が待ち受けていますか。このような形の信仰によって、神の要求を少しでも満たすことができますか。(できません。)それとは逆に、自分の観念や想像のせいで、神の道からさらに遠ざかるだけです。なぜなら、そうした人たちが求める方向性は、神が彼らに求める方向性と正反対のものだからです。あなたがたは「南轅北轍」の故事を聞いたことがありますか。これはまさに、志と行動が相反する「南轅北轍」であると言えます。こうした滑稽な形で神を信じるなら、必死に試みれば試みるほど、神から遠ざかってゆくことになります。そこで、あなたがたに次のように忠告します。何よりも先に、自分が本当に正しい方向へと進んでいるかどうかを識別しなければなりません。集中して努力し、必ずこのように自問しなさい。「自分が信じている神は、万物の支配者だろうか。自分が信じている神は、精神的な支えを与えるだけの存在に過ぎないだろうか。それは単に自分の偶像ではないのか。自分が信じている神は、私に何を求められているのか。私が行うすべてのことを、神は認めていらっしゃるだろうか。自分の行動と追求はどれも、神を知るよう求めることに則しているだろうか。それらは、神が私に求められることに則しているだろうか。私が歩んでいる道を、神は認め、称賛してくださるだろうか。神は私の信仰に満足していらっしゃるだろうか」。あなたは何度も繰り返し、これらを自問しなければなりません。神に関する認識を求めたいのであれば、神に満足してもらう前にまず、はっきりとした意識と目標をもたなければなりません。

『言葉は肉において現れる』より引用

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