日々の神の御言葉: 神の働きを認識する | 抜粋 165
2020年7月30日
神の働きの段階は全て一つの同じ流れに沿っている。よって神の六千年に渡る経営計画の中では、この世の始まりから今日まで、各段階がその後の段階と密接に繋がっている。もし誰も前もって道を整えるものがいなければ、その道をたどる者もいない。道を辿って来た者がいるからこそ、先にその道を整える者がいるのである。このようにして、働きが一歩ずつ引き継がれてきたのである。一つの段階が次の段階へと繋がっており、道を切り開く者がいなければ働きを始めることもできず、神がその働きを前進させることもできなくなってしまう。どの段階の働きも他の段階の働きと矛盾することがなく、全ての段階が順に続いて一つの流れを作っているのである。これも全て同じ霊によるものである。但し、道を切り開く者であれ、他の者の働きを継ぐ者であれ、その者の身分を決めることはできない。そうではないか。ヨハネが道を開き、イエスがその働きを引き継いだが、これはイエスの身分がヨハネの身分より低いということだろうか。イエスの前にヤーウェの働きが在ったが、だからといってヤーウェがイエスより偉大であると言えるだろうか。道を整えた者か仕事を継続した者かは重要ではない。最も重要なのは働きそのものであり、その働きが表す身分である。そうではないか。人々の間で働きをされようとした神は、道を整える働きができる者たちを起こす必要があったのだ。ヨハネが教えを説き始めたばかりのとき、彼はこう言っている。「主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ。悔い改めよ、天国は近づいた」と。ヨハネは最初からこのように語っているが、なぜ彼はこれらのことを語ることができたのか。この言葉が語られた順序を見ると、ヨハネが最初に天国の福音を宣べ、その後でイエスが語っている。人の観念からすると、ヨハネが道を切り開いたのだから当然ヨハネがイエスより偉大であるとなる。だがヨハネは自分がキリストだと言ってはおらず、神も、ヨハネを愛する神の子として証しはせず、ただ彼を用いて道を開き主の道を備えただけである。ヨハネはイエスのために道を整えたが、イエスの代わりに働くことはなかった。人の働きもまた全て、聖霊によって維持されていたのである。
旧約の時代には、ヤーウェが道を導いた。そしてヤーウェの働きは、旧約時代全体、そしてイスラエルでの働き全てを表していた。モーセは、単に地上における働きを維持していただけで、彼の働きは人側から提供された協力として捉えられる。当時は、ヤーウェが話してモーセを召し、イスラエルの民の中でモーセを立て、イスラエルの民を荒野へ連れて行きそしてカナンの地へ導くようにさせたのである。これはモーセ自身から出た働きではなく、ヤーウェにより直接導かれたものであるから、モーセが神と呼ばれることはない。モーセもまた律法を定めたが、この律法はヤーウェが直接発したのであり、モーセを通して語られたのである。イエスも戒めを定め、旧約の律法を廃棄して新しい時代の戒めを定めた。なぜイエスが神自身なのか。それは、ふたつの状況が同じものではないからである。当時、モーセが行った働きは時代を表すものではなく、新しい道を切り開くものでもなかった。モーセは、ヤーウェによって指示されており、神に用いられた一人にすぎなかったのである。イエスが来た時、ヨハネは既に道を整える段階の働きを開始しており、天国の福音を宣べ伝え始めていた(聖霊がそれを開始した)。イエスが現れたとき、イエスは直接自身の働きをしたが、その働きは、モーセの言葉や働きとは大きく違っていた。イザヤも多くの預言を語ったが、なぜイザヤも神自身ではなかったのか。イエスは預言を多くは語らなかったのに、イエスが神自身であったのはなぜか。イエスが当時行った働きを全て聖霊の働きによるものだとか、全て人の意思から出たものだとか、あるいは全て神自身の働きであると敢えて言う人はいない。人には、それを分析する手段がないからだ。イザヤがこのような働きをしたとか、このような預言を語り、全て聖霊から出ていたとは言うことはできる。だがそれらは全てイザヤから直接出たものではなく、ヤーウェによる啓示だったのだ。イエスは多くの働きはせず、多くは語らず、いくつも預言を語ったわけではない。イエスの教えは人には特に高尚なものとは思えなかったが、やはりイエスは神自身であり、このことは到底人には説明がつかないものである。誰もいまだかつてヨハネやイザヤやダビデを信仰し、彼らを神と呼んだり、ダビデ神やヨハネ神と彼らを神と呼んだりする人はいなかった。そのように呼ぶ人はなく、イエスだけがキリストと呼ばれたのである。これは、神の証し、イエスの担った働き、そしてイエスが果たした職分によって区別された。聖書の中の偉大な人たち、つまりアブラハム、ダビデ、ヨシュア、ダニエル、イザヤ、ヨハネそしてイエスをその働きを通して見るとき、誰が神自身であり、どのような人たちが預言者で、使徒は誰かを見分けることができる。誰が神に用いられた者で、誰が神自身であるかは、その人の働きの種類と中身で区別され判断されるべきである。もしあなたが違いが分からないのであれば、それはあなたが神を信じるとはどういうことかを知らないという証明である。イエスが神であるのは、イエスが多くの言葉を語り、多くの働きをし、特に多くの奇跡を見せてきたからだ。同じ様にヨハネも多くの事を語り多くの働きをし、モーセも同様であった。なぜ彼らは神とは呼ばれなかったのだろうか。アダムは直接に神によって作られたが、なぜ神と呼ばれず、被造物とだけ呼ばれたのか。もし誰かがあなたに、「今日神は多くの仕事をされ、多くを語られた。このお方は神ご自身である。だとすれば、モーセも同じように多くの事を語ったのだから、モーセも神ご自身にちがいない」と言うならば、あなたは、次のように尋ねるべきだ。「当時、神はなぜ、ヨハネではなく、イエスを神ご自身であると証しされたのか。ヨハネはイエスよりも前に現れたではないか。ヨハネとイエスと、どちらの働きの方がより大きかったのか。人の目にはイエスよりもヨハネの方が偉大に映るが、なぜ聖霊はイエスに対して証しし、ヨハネにはそうしなかったのか」と。これと同じことが現在でも起きている。はじめにモーセがイスラエルの民を導き出した時、ヤーウェは雲の間からモーセに語りかけた。モーセは直接話していたわけではなく、ヤーウェによって直接指示を受けていた。これが旧約聖書の中のイスラエルでの働きである。モーセの内には、聖霊も神の存在もなかった。モーセはその働きをすることはできなかったので、それがモーセによってなされたのか、イエスによってなされたのかには大きな違いがある。それは、モーセの働きとイエスの働きが違っていたからである。ある人が、神に用いられる者か、預言者か、使徒かあるいは神自身かは、その働きの性質によって区別できるもので、それが分かればあなたの疑問は解消されるはずだ。聖書には、小羊だけが七つの封印を解くことができると書いてある。世々代々、聖句を解説する者がそれらの偉大な人物たちの間に多くいたが、その人たちがみな小羊だと言えるのか。その人たちの解説がすべて神から出たものだと言えるのか。彼らは単なる解説者であり、小羊の身分を持っているわけではない。どうして彼らに七つの封印を解く価値があると言えようか。「小羊だけが封印を解くことができる」のは確かであるが、彼は封印を解くためだけに来るのではない。つまり封印を解く仕事は不可欠ではなく、偶発的に起こるのである。神の働きに関しては、神自身がよく知っている。多くの時間を費やして聖書の解釈をする必要があるだろうか。六千年の働きの中に、「聖書を解釈する子羊の時代」が加えられなければならないのか。神は新しい働きを行うために来るが、これまでの六千年の働きの真実を解ってもらうために過去の働きに関する啓示もする。それほど多くの聖句を解説する必要はない。今日の働きの方がカギであり重要である。神は特に七つの封印を解くために来るのではなく、救いの働きをするために来ることをあなたは知っておくべきである。
『神の出現と働き』「呼び名と身分について」(『言葉』第1巻)より
信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。
その他動画シリーズ