日々の神の御言葉: 受肉 | 抜粋 135

2020年8月24日

今日、実際神に関する人々の認識は相変わらず偏り過ぎており、受肉の意義への理解はまだあまりにも取るに足らないものである。神の受肉のこととなると、人々は神の働きと言葉を通して、神の霊にはとても多くが含まれており、非常に豊かであることを知る。しかし、それにもかかわらず、神の証しは最終的には神の霊からもたらされる。つまり、神は肉を通して何を為すか、どのような原則によって神は働くのか、人間性において何をするのか、また神性において何を為すのかについての証しである。今日、あなたはこの人を礼拝することができるが、実際には神の霊を礼拝しているのである。人々が受肉した神についての認識を得るには、少なくとも次のことを達成しなければならない。つまり、肉を通して霊の本質を知ること、肉における霊の神性による働きと人間性による働きの双方を知ること、肉における霊の言葉と発言をすべて受け入れ、神の霊がどのように肉を支配し、肉において神の力を示すのかを理解することである。すなわち、人は肉を通して天にいる霊を知るようになる。実践的神自身が人々の中に出現することによって、人々の観念における曖昧な神のイメ-ジは一掃された。実践的神自身を礼拝することによって、神に対する従順さは増加する。肉における神の霊の神性の働きと人間性の働きを通じて、人は啓示を受け、牧養され、いのちの性質に変化がもたらされる。これのみが、肉に霊が来ることの実際の意義であり、それは主に、人々が神と関わり、神に頼り、神に関する認識を得るためである。

概して、実践的な神に対してどのような態度を取るべきだろうか。受肉について、言葉が肉において現れることについて、肉における神の出現について、実践的神の業について、あなたはどのように理解しているだろうか。そして今日、私たちは主に何について話しているのだろう。受肉、肉によることばの到来、肉における神の出現――これらをすべて理解しなければならない。あなた方の背丈と時代に基づいて、あなた方は徐々にこれらの問題を理解していかなければならない。いのち経験を積む中で、これらの問題を徐々に理解し、明確な知識を持つようにならなくてはならない。人々が神の言葉を経験する過程は人々が肉における神の言葉の現れを知る過程と同じである。神の言葉を経験すればするほど、人々はますます神の霊を知るようになる。神の言葉を経験することによって、人々は霊の働きの原則を把握し、実践的神自身を知るようになる。実際、神が人々を完全にし、人々を自分のものにする時、神は人々に実践的な神の業を知らせているのである。神は実践的神の働きを通して人々に受肉の実際の意義を示し、神の霊が実際に人の前に現れたことを示す。人々が神のものにされ、神によって完全にされる時、実践的神の表現は人々を征服し、実践的神の言葉は人々を変え、神のいのちを人の内に与え、人を神自身であるもの(人間性のものにせよ、神性なものにせよ)で満たし、神の言葉の本質で満たし、人々が神の言葉を実行して生きるようにさせる。神が人々を獲得する時、神はおもに実践的神の言葉と発言を通して、人々の欠点を取り扱い、反抗的な性質を裁き、明らかにし、人々に必要なものを得させ、神が人々の間に到来したことを示すためである。最も重要なことだが、実践的神の行う働きは、すべての人をサタンの影響から救い、彼らを汚れた地から切り離し、彼らの堕落した性質を一掃することである。実践的な神に獲得されることの最も深遠な意義は、実践的神を模範として、モデルとすることができ、正常な人間として生き抜き、実践の神の言葉と要求を実践できるようになり、少しのズレや逸脱もなく神の言われる通りを実践し、神が求められることを達成できるようになることである。このようにして、あなたは神のものとされる。神のものとされる時、あなたは聖霊の働きを所有するだけではなく、何よりも実践的神の要求の通りに生きることができる。単に霊の働きを持っているだけでは、いのちを持っていることを意味するわけではない。ここで鍵となるのは、あなたが、実践的神の要求に応じて行動できるかどうかであり、それはあなたが神のものとされるかどうかに関連している。これらの事は肉における実践的神の働きの最も偉大な意義である。すなわち、神は実際的に肉において現れ、いきいきと命に溢れて人々に見られ、肉において実際に霊の働きを行うことによって、また肉において人々の模範とすることによって、ひとつの群れを神のものとして獲得する。神が肉として到来するのは、おもに神の実際の業を人々が見ることができ、形のない霊を肉において実体化し、人々が神を見たり触れたりできるようにするためである。このようにして、神によって完全にされる人々は神を現すように生き、神のものとされ、神の心に適うものとなる。神が天において話すだけで、実際に地上に来なかったのなら、人々はまだ神を知ることができず、空虚な理論を使って神の業を説くことができるだけで、現実として神の言葉を持つことができない。神が地上に来たのは何よりも、神に獲得されるべき人々の手本、モデルとして行動するためである。このようにしてのみ、人々は実際に神を知り、神に触れ、神を見ることができ、そうして初めて神のものとして獲得されるのである。

『神の出現と働き』「実際の神は神自身であることを知るべきである」(『言葉』第1巻)より

神は肉による働きでのみ人を獲得できる

 

実践的な神の言葉を通して、人の欠点と反抗心が裁き明かされる。人は必要とするものを受けて、神が人の世界に来たことを見る。実践的神の行う働きは、すべての人をサタンの影響から救い、彼らを穢れた地から切り離し、彼らの堕落した性質を一掃することである。実践的な神に獲得されることは、彼を模範として、モデルとすることができ、正常な人間として生き、彼の言葉・要求・語ることを十分守り、彼の求めることをやり遂げれば、その時あなたは神のものとされる。

人が神の業を見られるように、神は肉として地上に降りてきた。人が神に触れることができるよう、神の霊が肉の姿となった。人が神を見つめ知るようになる。このようにして、神によって完全にされる人々は神を現すように生き、神のものとされ、神の心に適うものとなる。実践的な神に獲得されることは、彼を模範として、モデルとすることができ、正常な人間として生き、彼の言葉・要求・語ることを十分守り、彼の求めることをやり遂げれば、その時あなたは神のものとされる。

神が天において話すだけで、実際に地上に来なかったのなら、人々はまだ神を知ることができず、空虚な理論を使って神の業を説くことができるだけで、現実として神の言葉を持つことができない。神は人の模範として地上に降りてくるので、人は神を見て、「触れること」「神のものとなること」ができる。実践的な神に獲得されることは、彼を模範として、モデルとすることができ、正常な人間として生き、彼の言葉・要求・語ることを十分守り、彼の求めることをやり遂げれば、その時あなたは神のものとされる。

『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

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