唯一無二の神自身 8(その1)

神は万物のいのちの源である(2)その1

前回からの交わりの話題を続けましょう。前回話した話題を憶えていますか。(「神は万物のいのちの源である」です。)「神は万物のいのちの源である」というのは、あなたがたには縁のないように感じる話題ですか。あるいは、それについての大まかな認識が、すでに心の中にありますか。この主題に関する前回の交わりの要点について、ここで誰か話してくれませんか。(神様による万物創造を通じて、神様が万物を養い、また人類を養うことがわたしには分かります。過去には、神様が人間にお与えになる時は、神様の選民にだけ神様の言葉をお与えになるのだといつも思っていましたが、神様は万物の法則を通して人類を養っていらっしゃるということには気付きませんでした。真理のこの側面を神様が伝えて下さったことを通してのみ、わたしは神様が万物の源であること、万物のいのちは神様によって与えられていること、神様がこれらの法則を操っておられること、そして神様が万物を養っておられることを感じてきました。神様による万物の創造にわたしは神様の愛を見ます。)前回わたしたちは、おもに神による万物創造について、また、万物のために神がどのようにして法則と原則を確立したのかということについて交わりを持ちました。このような法則と原則の下で、神の支配の下、神の目に見守られながら、万物は人間と共に生き、死に、人間と共存しています。わたしたちはまず始めに、神が万物を創造し、自身の方法を使って、万物が成長する法則、及びその成長過程とパターンを定めたことを話しました。また、神は万物がこの地上で生存する方法を定めて、それらのものが成長と繁殖を続け、相互依存の中で生存できるようにしました。このような方法や法則により、万物がこの地でうまく平和に存在し成長することができます。このような環境をもつことによってのみ、人間は安定した家庭や生活環境をもつことができ、神の導きの下で発展し続け前進し、また発展しては前進することができます。

前回、わたしたちは神が万物に施すという基本的な概念について話し合いました。神は万物に対し、それらが人類の益のために存在し生きるよう、このようにして施しました。言い換えれば、このような環境は神によって定められた法則の故に存在しています。神がこのような法則を維持し管理することによってのみ、人類は今いる生活環境をもつことができるのです。わたしたちが前回話したことは、以前話した神についての認識からの大きな飛躍です。なぜこのような飛躍が存在するのですか。それは、神を知ることについて過去に話した時、わたしたちは、神が人類を救い経営すること、つまり神の選民の救いと経営という範囲内において、神を知ること、神の業、神の性質、神がもつものと神であるもの、神の意図、神がどのようにして人間に真理といのちを与えるのかについて議論していたからです。しかし、わたしたちが前回話した話題は、もはや聖書だけに限られず、また神が自分の選民を救うという範囲に限られていませんでした。むしろ、神が自らについて語るために、この範囲からとび出し、聖書から、神が選民に対して行う働きの三つの段階という制限からとび出しました。ですから、わたしの話のこの部分を聞く時、あなたは神に関する認識を聖書と神の働きの三つの段階だけに限定してはなりません。代わりに、あなたは絶えず広い視野をもっていなければなりません。あなたは神の業、神がもち神であるもの、神がどのようにして支配し、経営しているのかをあらゆるものに見なければなりません。この方法により、これを基礎とすることで、神がすべてのものをどのように与えるのかを見ることができます。これにより、人類は神が万物のいのちの真の源であり、これこそが神自身の真の身分であることを理解することができます。すなわち、神の身分、地位、権威、そして神のすべては、現在神に従っている人々だけに向けられているのではなく、つまりこの集団の人々であるあなたがただけではなく、万物を対象としています。したがって、万物の範囲は非常に広いのです。神がすべてのものを支配する範囲を言い表すために、わたしは「万物」と言う表現を使います。何故なら、神によって支配されているものには、あなたがたの目に見えるものだけではなく、すべての人々に見える物質的世界、及び物質的世界の外にあり人間の目には見えない別の世界も含まれており、さらには人類が現在存在する場所以外の宇宙や惑星も含まれているからです。それが万物への神の支配の範囲です。万物への神の支配の範囲は非常に広いのです。あなたがたについて言うと、あなたがたが理解すべきこと、見るべきこと、何から認識を得るべきか、これらのことはあなたがたの一人ひとりが理解し、見、確信しなければならないことです。この「万物」の範囲は非常に広いものですが、わたしはあなたがたがまったく見ることのできない範囲や、接触できない範囲については話しません。誰もが「神は万物のいのちの源である」という言葉の真の意味を感じ取ることができるように、人間が接触でき、理解でき、認識できることの範囲についてだけ、あなたがたに話します。そうすれば、わたしがあなたがたに伝えることは、何ひとつ空しい言葉にはなりません。

前回は、神はすべてのものをどのように与えるのかということについて、あなたがたが基本的な理解を得られるよう、物語り形式を使って「神は万物のいのちの源である」という話題の簡単な概要を提供しました。あなたがたにこの基本概念を教え込む目的は何でしょうか。それは、聖書と神の三段階の働き以外にも、神は人間が見ることも接触することもできないさらなる働きを行なっていることをあなたがたに知らせることです。このような働きは神自らにより行われています。もし、神の経営の働き以外のこのような働きなしに、神がその選民を前へと導いているだけなら、あなたがた全員を含む、この人類が前進し続けることは非常に困難になり、人類とこの世は発展を続けることができなくなるでしょう。これこそが、今日わたしがあなたがたに伝えている「神は万物のいのちの源である」という言葉の重要性なのです。

神が人類のために創造する基本的な生活環境

わたしたちは、「神は万物のいのちの源である」という言葉に関連する多くの話題や内容を議論してきましたが、神があなたがたに言葉を与え、あなたがたに刑罰と裁きを行うこと以外には、どんなものを人類に授けるのか、あなたがたは心の中で分かっていますか。ある人たちは、「神はわたしに恵みと祝福を授け、鍛錬と慰め、そして思いやりと加護をあらゆる方法で与えてくださいます」と言うかもしれません。他の人たちは、「神はわたしに毎日食べ物や飲み物を与えてくださる」と言うでしょう。一方、「神はわたしにすべてのものを授けてくださいます」とさえ言う人もいるでしょう。人々が日常生活で接することができるこれらのことに関して、あなたがたは皆、自らの物理的な生活体験に関連する答えをいくつか持っているかもしれません。神は一人ひとりに多くのものを与え、わたしたちがここで議論していることは人々の日常の必要の範囲にだけ限定されてはおらず、あなたがたの一人ひとりがより遠くに目を向けることを可能にします。巨視的観点からは、神は万物のいのちの源ですが、神はどのようにして万物のいのちを維持するのでしょうか。万物が存在し続けることができるように、それらのものの存在を維持し、それらのものの存在に関する法則を維持するために、神は万物に何をもたらしますか。これこそ、今日わたしたちが議論していることの要点です。あなたがたはわたしが言ったことを理解していますか。この話題はあなたがたにはあまり馴染みがないかもしれませんが、わたしはあまりに深遠な教義については何も話しません。これを聞いた後にあなたがたが皆理解できるように、わたしは努めています。あなたがたはどんな負担も感じる必要はありません。注意して聴くだけで良いのです。しかしながら、もう少し強調しなければなりません。わたしが話している話題は何ですか。言ってください。(「神は万物のいのちの源である」です。)それでは、どのようにして神はすべてのものを供給しますか。「神は万物のいのちの源である」と言えるためには、神は万物に何を与えるのですか。あなたがたには、何かこれに関する考えや思いがありますか。わたしが話しているこの話題は、おおむねあなたがたの心と頭をまったく空白にしてしまうようです。しかし、わたしが今から話す話題と物事を、あなたがたが知識、または人間の文化や研究に結び付けるのではなく、神の業に結び付けることを望みます。わたしはただ神について、神自身について話しています。それがあなたがたへのわたしの提案です。あなたがたは理解していますね。

神は人類に多くのものを授けました。わたしは、人々が見ることができるもの、つまり、感じられるものについて話すことから始めます。これらは、人々が心で理解し、受け入れることができることです。それではまず、神が人類に何を与えてきたかについて話すために、物質界から始めましょう。

1.空気

まず最初に、神は人間が呼吸できるように空気を創りました。この「空気」は、人間が絶え間なく接触している日常生活の空気ではありませんか。これは人間があらゆる瞬間に、また眠っている時でさえも、依存しているものではありませんか。神が創造した空気は人類にとって途方もなく重要です。それは人類の吐く息一つひとつと、命そのものの不可欠な要素です。感じることはできるが目には見えないこの物質は、万物への神からの最初の贈り物です。空気を創り出した後、神はただちに店じまいしたでしょうか。空気を創ったあと、神は空気の密度について考慮しましたか。神は空気の中身について考慮しましたか。(はい。)空気を創った時、神は何を考えていたのでしょうか。なぜ神は空気を創り、またその理由は何でしたか。人間には空気が必要であり、呼吸することが必要です。まず、空気の密度は人間の肺に適していなければなりません。誰か空気の密度を知っていますか。これは人々が知らなければならないことではありません。知っている必要はありません。空気の密度に関する正確な数値は必要ありません。ただ一般的な考えがあればそれでいいのです。神は人間の肺が呼吸するのに最も適した密度で空気を創られました。つまり、人間は心地よく感じ、呼吸しても体に害を与えることはありません。これが空気の密度の背後にある考えです。次に、空気の中身について話します。第一に、空気の中身は人間にとって有毒ではなく、肺や身体を害することはありません。神はこれらのことすべてを考慮しなければなりませんでした。神は人間が呼吸する空気が穏やかに入ったり出たりするように、そして空気が吸い込まれた後、血液や肺と体内のいらない空気が適切に代謝されるように空気の内容と量を整え、また、空気には何も有害な成分が含まれないように考慮しなければなりませんでした。これらの二つの基準に関しては、沢山の知識をあなたがたに詰め込むようなことはしたくありません。ただ、神があらゆるもの、まさに最良のものを創造した時、特定の思考過程が念頭にあったことだけを伝えておきます。さらに、空気中の粉じんの量、地球上の塵、砂、泥の量、及び空から地上に舞い落ちる粉じんの量に関して言えば、神にはこれらのことを管理する方法があり、それはこれらのものをきれいに取り除くか、分解させるというものでした。塵がいく分ある時は、神は、塵が人間の身体と呼吸に害を及ぼさないように、塵が身体に有害にならないような大きさにしました。神による空気の創造は神秘的ではありませんか。それは神の口からただ一息の空気を吐き出すくらいに単純なことでしたか。(いいえ。)極めて単純なものを神が創造する時でさえ、神の奥義と心と思いと知恵のすべてが明らかです。神は現実的ではないでしょうか。つまり、単純なものを創ることにおいても、神は人類のことを考えていました。まず、人間が呼吸する空気はきれいであり、その内容物は人間の呼吸に適しており、毒性がなく、人間に害を及ぼさず、密度は人間が呼吸できるように調整されています。人間が吸って吐き出すこの空気は、人間の身体に、肉体にとって不可欠です。だから人間は制限も心配もなく、自由に呼吸することができます。人間は正常に呼吸することができます。空気は、神が最初に創造した、人間の呼吸に不可欠なものです。

2.気温

二番目のものは、気温です。誰でも気温が何かは知っています。気温は、人間の生存に適した環境に備わっていることが必要とされるものです。たとえば摂氏40度を超えるなど、もし気温が高すぎるなら、それは人間を大いに消耗させるのではないでしょうか。人間がそのような状況で生きるのは極めて疲れることではないでしょうか。もし摂氏零下40度になるほど気温が低すぎる場合はどうですか。それもまた人間には耐え難いでしょう。したがって、神はこの気温の範囲設定において極めて几帳面でした。人体が適応可能な気温の範囲は、基本的に摂氏零下30度から摂氏40度までです。これは南から北までの基本的な気温の範囲です。寒冷地域では気温はおそらく摂氏零下50度から60度まで落ちることもあります。そうした地域は、神が人間の居住を許可する場所ではありません。なぜそのような寒冷地域が存在するのですか。そこに、神の知恵と意図があります。神は、人間がそのような地域付近に行くことを許しません。神は暑すぎる地域や寒すぎる地域を保護しているのです。すなわち神はそこに人間が居住する準備をしていないのです。それは人類のためではないのです。なぜ神は地上にそのような場所を存在させているのでしょうか。もし神がそこに人間が居住したり存在したりするのを許していないのであれば、なぜ神はそれを創るのでしょう。そこには、神の知恵があります。つまり、人間の生存のための環境の基本的な気温もまた、神により適宜調整されてきたのです。ここにもまた法則があります。神はこうした気温の維持に役立ち、気温を制御するものを創りました。この気温を維持するために何が用いられていますか。まず、太陽は人間に温もりをもたらしますが、暑すぎると人間は耐えることができますか。太陽にあえて近づこうとする人はいますか。地球上には太陽に近づけることのできる計器はありますか。(ありません。)なぜですか。熱すぎるからです。太陽に近づき過ぎるものはすべて溶けます。したがって、神は具体的な働きを行ない、入念な計算と基準に従って太陽の高度、および人類との距離を定めました。また、地球には南北二つの極があります。それらの地域は凍っており、一面の氷河です。人類は氷河地帯に住めますか。そのような場所は人間の生存に適していますか。(適していません。)それらは人間の生存に適していないので、人々はそれらの場所に行きません。人が南極や北極に行かないので、そこにある氷河は保たれ、気温を管理するという自身の目的を果たすことができます。わかりますね。南極も北極もなければ、太陽が絶えず発する熱のせいで地球の人間は消滅するでしょう。しかし、神はこれら二つの極だけを遣って、人間の生存に適した気温の範囲を保っているのでしょうか。違います。それ以外にも、野原の草、様々な種類の木々、そして森のあらゆる種類の植物など、太陽の熱を吸収するありとあらゆる生き物が存在します。これらは太陽の熱を吸収する中で、太陽の熱エネルギーを中和し、それによって人間が生活する環境の気温を調整します。また、河川や湖沼などの水源も存在します。河川や湖沼の表面積は、誰かが決めることのできるものではありません。誰も地球上の水の量や、水の流れる先、方向、水量、流れる速度を制御できません。それは神だけが知っています。地下水や、人間が見ることのできる地表の河川や湖沼などの様々な水源もまた、人間が生活する気温を調整することができます。それに加えて、山や平野、峡谷や湿地など、様々な地形が存在します。こうした様々な地形とそれぞれの表面積や規模はみな、気温制御の役割を果たしています。たとえば、ある山の円周が100キロメートルである場合、その100キロメートルには100キロメートル分の有用性があります。神が地上に創ったそれらの山地や峡谷の数についても、神は十分に考慮しました。つまり、神が創造したひとつひとつのものの背後には、それぞれに物語があり、それぞれに神の知恵と計画が含まれているのです。たとえば、森とあらゆる種類の植生について考えましょう。それらが生育する地域の範囲と規模はいかなる人間にも制御できず、それらについて最終的に決定できる人間はいません。森と植生がどの程度の水を、どの程度の太陽の熱エネルギーを吸収するかについても、人間には制御できません。これらの物事は、すべて神の万物創造時に、神により計画された物事の範囲にあるのです。

また、そうした適切な気温の環境において人間が生活できるのは、そのすべての側面においての神の周到な計画、検討、采配のおかげです。したがって、太陽など人間が自らの目で見る個々のもの、南極や北極など人間が頻繁に話を聞くもの、地上や地中、水中の様々な生き物、森その他の植生の面積、水源、様々な形態の水域、淡水や海水の量、さらに様々な地理的環境など、神はこれらを用いて人間の生存のための常温を維持しているのです。これは絶対です。そうした適切な気温の環境において人間が生活できるのは、神のそのような考慮のおかげです。それは寒すぎることも暑すぎることもありません。人体が順応できる気温を超えるほど暑い場所は、神があなたのために用意した場所ではないことは間違いありません。気温が低すぎて寒すぎる場所、すなわち人間が到着するとただちに数分で凍えてしまい、話すことができず、脳が凍り、思考不可能となり、すぐに息が詰まるような場所も、神が人間のために用意した場所ではありません。人間がどのような研究を行うことを望み、革新したい、あるいはこうした制約を打破したいと考えたとしても、人間が何を考えるかに関わらず、人体が順応可能な限界を超えることは決してできません。人間は神が人間のために設けたこのような限界を解消することは決してできないのです。これは神は人間を創ったので、人体が順応可能な温度について一番良く理解しているのです。しかし、人間自身は知りません。なぜ人間は知らないと言うのですか。人間はどのような愚行を行ってきましたか。北極や南極に常に挑みたい人が多数いませんでしたか。彼らは北極や南極へ向かい、その地を占有して定住して開発することを常に望んでいます。これは自滅的行為ではないですか。あなたが南極と北極を完全に調査したと仮定します。しかし、あなたがそこの気温に順応して暮らすことができ、南極と北極の現在の生存環境を「改善」したとしても、それが何らかの形で人類に恩恵をもたらすでしょうか。人間には生存できる環境があっても、静かに、かつ従順にそこに留まることはなく、あくまで生存不可能な場所へと冒険しようとします。それはなぜですか。人間はこの適切な気温の中で生活することに飽きているのです。人間はあまりに多くの祝福を享受してきました。また、この通常の生活環境は、人類によってかなり破壊されて来たので、南極や北極へ行って更なる破壊を行ったり、ある種の「先駆者」となれるように、何らかの「活動」を行おうということのようです。これは愚かではありませんか。つまり、祖先であるサタンの指導の下に、この人類は次から次へと愚かなことをし続け、神が人類のために創った美しい住処を、見境なくみだりに破壊してゆくのです。これはサタンがしたことです。さらに、地球上における人類の生存が多少危うくなったのを見て、月へ行ってそこに住む方法を見つけたい、月に住めるか否かを見極めて出口を見つけたい人が大勢います。しかし結局、月には酸素がありません。酸素なしで人間は生存できますか。月には酸素がないので、人間が居留できる場所ではありませんが、人間は相変わらず月へ行きたがります。これは何ですか。これは自滅行為ですね。それは空気のない場所で、気温も人間の生存に不適ですから、神が人間のために用意した場所ではないのです。

たった今話をした気温は、人間が日常生活で接することのできるものです。気温はすべての人間が体感できるものですが、この気温がどのようにして現れたか、あるいは人間の生活に適した気温を誰が制御しているのか、誰も考えません。これが本日わたしたちが知りつつあることです。これには、神の知恵がありますか。これに神の業がありますか。(はい。)人間の生活に適した気温の環境を神が創ったことを考えると、これは神が万物を与えるひとつの方法ですか。(はい。)そうです。

3.音

三番目は何ですか。それは人間の通常の生活環境が備えているべきものでもあります。それは、神が万物を創った時に取り扱わなければならなかったものです。神にとって、そして皆にとっても、極めて重要なものです。もし神がこれを扱わなかったとしたら、人間の生存に対する大きな障壁となっていたことでしょう。つまり、人間の身体と生活に著しい影響を及ぼし、人類がそのような環境で生存することは不可能となっていたでしょう。また、あらゆる生き物がそうした環境では生存できないと言うことができます。これは何ですか。それは音です。神は万物を創り、万物は神の手の中で生きます。神の目から見ると、万物は動き、生きています。言い換えるならば、神が創造した万物のひとつひとつの存在には、価値と意義があります。つまり、万物には、すべてその存在の背後に必要性があるのです。神の目には、それぞれに命があります。万物はみな生きているので、音を発します。たとえば、地球も太陽も、そして月も常に自転しています。万物の繁殖と発達、動きからは、常に音が発生します。地上にある物は常に繁殖し、成長し、動いています。たとえば、山の基盤は動いており、移動しており、海中の生き物はすべて移動し、泳いでいます。これらの生き物や万物は、神の目から見ると、すべて恒常的に、正常に、規則的に運動しています。それでは、こうした密かな繁殖や、発達、運動は何をもたらしますか。力強い音です。地球以外のあらゆる惑星もまた継続的に運動し、それらの惑星上の生き物や有機体もまた継続的に繁殖し、成長し、運動しています。つまり、すべて生命のあるもの、ないものは、神の目から見るとすべて継続的に前向きに動いており、それらは同時に音を発生させています。神はこうした音も取り扱ったのです。あなたがたはなぜこれらの音が取り扱われるのかを知っているはずです。飛行機に近付くと、飛行機の轟音のために人はどうなりますか。あまりに長くその近くにいると、人間の耳は聞こえなくなります。人間の心臓はその音に耐えきれますか。心臓の弱い人の中には耐えきれない人がいます。もちろん、心臓の強い人間であっても、その音が長く続き過ぎると耐えられません。つまり、音の人体に対する影響は、それが耳に対してであれ心臓に対してであれ、各人にとって極めて甚大であり、音量が大きすぎる音は人間に危害を与えるのです。したがって、神が万物を創造し、万物が正常に機能し始めた後、こうした音すなわち運動する物の音にも神は適切な処置を施しました。これもまた、人類のための環境を創る時に、神にとって必要な配慮のひとつでした。

まず、地表からの大気の高さは音に影響します。さらに、土壌にある隙間の大きさもまた、音を操作し、音に影響します。そして、様々な地理環境が重なり、それも音に影響を与えます。つまり、人間の耳や心臓が耐えることのできる環境で人間が生存できるように、神はなんらかの方法を用いて音の一部を消すのです。さもなければ、人間の生存にとって音は大きな障害をもたらし、人間の生活上の大問題となります。これは人間にとって大問題です。つまり、神は大地と大気、そして様々な地理的環境の創造において、極めて几帳面だったのです。こうしたことのすべてに神の知恵が含まれています。このことに関する人類の理解は、それほど詳細である必要はありません。知っていなくてはならないのは、その中に神の業が含まれているということのみです。さて、言ってください。神が行ったこの働きはまさに、音を精密に調整して人間の生活環境と通常の生活を維持するものでしたが、それは必要でしたか。(はい。)この働きが必要であったなら、その観点から見て、神はそうした方法を用いて、すべてを与えたと言うことができますか。神は、人間の身体が何らの妨害もない環境で極めて正常に生活できるように、また人類が普通に存在して生活できるように、人類のためにそうした環境を創り、そして与えたのです。これは神が人類に施す方法のひとつですか。神が行ったこのことは極めて重要でしたか。(はい。)それは是非必要でした。それでは、あなたがたはその価値をどのように認識していますか。たとえあなたがたが、これが神の業であったと感じることができず、当時それを神がどのように行ったかを知らなかったとしても、神がこれを行うことの必要性を感じることができますか。これに神が注ぎ込んだ知恵や気遣い、思いを感じることができますか。(はい。)それを感じることができるだけでよろしい。それで十分です。人間が感じたり見たりすることのできない物事で、神が行ったことは多数あります。今わたしがこう述べる目的は、ただ神の業に関する情報をあなたがたに与えることで、それはあなたがたが神を知るようになることができるようにです。こうした手がかりにより、あなたがたは神をさらによく理解することができます。

4.光

四番目は、人間の目に関係しています。それは光です。光もまた極めて重要です。眩しい光を見て、その光の明るさがある程度に達すると、人は失明します。つまるところ、人間の目は、肉の目なのです。損傷に耐えられません。誰か太陽の光を敢えて直視しますか。中には試した人がいます。サングラスをかければ大丈夫ですが、道具を使う必要があります。道具なしには、人間は裸眼で太陽を直視する能力がありません。けれど、神は人類に光を与えるために太陽を創ったのであり、この光も操作しました。神は単に太陽を創り終え、それをどこかに置き、あとは放っておいたのではありません。神はそのように物事を行いません。神は自身の業において極めて慎重であり、それを徹底的に考え抜きます。神は人類のために目を創って彼らが見えるようにし、また人間がものを見るための光についても、その特性を前もって定めました。光があまりに薄暗ければ、何の役にも立たないでしょう。目の前にある自分の指も見えないほど暗い場合、人間の目は機能せず、役に立ちません。明る過ぎる場所は人間の目には耐えられず、何も見えなくなります。したがって、人類の生活環境において、神は人間の目に適した量の光を与えました。この光は、人間の目に損傷を与えません。さらに、この光は人間の目の機能を失わせることもありません。神が太陽と地球の周囲に雲を加えたのは、このためであり、また空気の濃度も人間の目や肌を傷つける光を普通に除去することができます。これは相互に関連しています。さらに、神が創った地上の色彩もまた太陽光やあらゆる種類の光を反射させ、人間の目を不快にする光の明るさの一部を除去します。こうしたわけで、人間は屋外を歩きまわり生活を営めるようにと、色の濃いサングラスを常時着用する必要がないのです。通常の条件下では、人間の目は視界内の物を見ることが可能であり、光により妨害されることはありません。つまり、光は眩しすぎても暗すぎてもいけないのです。あまりに薄暗ければ人の目は損傷を受け、少し使えば駄目になるでしょう。光があまりに明るければ、人の目はそれに耐えられないはずです。人間が目にしているまさにこの光は、人間が見るのに適したものであり、神は様々な方法を通して、光が人間の目に与える損傷を最小限にしてきたのです。そしてこの光が人間の目に恩恵をもたらそうと、あるいは不都合をもたらそうと、人間が自分の目の機能を維持しつつ、寿命を迎えるようにするのに十分です。神はそれを徹底的に考慮したのではありませんか。しかし、悪魔サタンはそうした考慮を一切せずに行動します。サタンにとって、光は常に眩しすぎるか、暗すぎるかのどちらかです。これがサタンの物事の行ない方です。

神は視力、聴力、味覚、呼吸、感覚など、人体の全側面にこのようなことを行ない、人類の生存のための順応力を最大限にし、人間が普通に生き、そうし続けることができるようにしています。つまり、神が創った、こうした現存する生活環境は、人類の生存に最適かつ最も有益な生活環境なのです。これは大したことではなく、すべて至って普通であると考える人もいるでしょう。音、光、そして空気は、人間が生来もっているもの、生まれた瞬間から享受できるものと感じるものです。しかし、人間がこれらのものを享受する陰で神が行った業は、人間が知り理解するべきことです。これを理解し知る必要があると感じるかどうかに関わらず、簡潔に言うと、神がこれらのものを創った時、神は配慮し、計画をもち、ある考えをもっていたのです。神は単純に、何気なく、あるいは何も考えることなしに、そうした環境の中に人間を置いたわけではないのです。わたしがこうした些細な物事の一つひとつをあまりに大げさに話したと、あなたがたは考えるかも知れませんが、わたしの考えでは、神が人類に施した一つひとつの物事は人類の生存に必要なものです。ここに神の業があります。

5.気流

五番目は何でしょうか。これは一人ひとりの日常生活と密接に関係するものです。それと人間生活との関係はあまりに密接で、それなしでは、この物質世界で人間の身体が生きてゆくことはできないほどです。それは気流です。「気流」は、おそらくすべての人が理解する言葉です。では、気流とは何ですか。空気の流れは「気流」と呼ばれる、と言えるでしょう。気流とは、人間の目に見えない風です。またそれは、気体の運動形態のひとつでもあります。しかし、わたしたちがここでおもに話し合っている気流とは、何ですか。わたしが言えば、あなたがたはすぐに分かります。地球は回りつつ、山や海や万物を抱えており、地球が回るとき、速度があります。あなたが回転を感じなくても、地球は確かに回転しています。この回転は何を生じさせますか。あなたが走るとき、風が起きて耳の後ろへ吹き去りませんか。人間が走ると風が発生するのが可能なら、地球が回転した時に風が発生しないということがどうして有り得るでしょうか。地球が回転する時、万物は運動しています。運動し、一定の速度で回転していますが、それと同時に地上の万物はまた継続的に繁殖し、発展しています。したがって、一定速度で移動すると、当然気流が発生します。これが気流です。この気流は人体に何らかの影響を及ぼすでしょうか。台風を考えてみましょう。通常の台風はそれほど強力ではありませんが、台風に見舞われると、人間はしっかり立つことすらできず、風の中を歩くのは困難です。一歩進むのさえ難しいのです。あまりに強くて人が風で何かに押し付けられ動くことができなくなることがあります。これは、気流が人類に影響を与える形態のひとつです。もし地球全体が平野であったならば、ある程度の速度で地球の回転と万物の動きで発生する気流に人体が耐えるのは極めて困難となるでしょう。それに対処するのは、極めて困難です。そうであれば、この気流は人類に危害を及ぼすだけでなく、破壊してしまいます。このような環境では、誰も生存できないでしょう。そうしたわけで、神は様々な地理的環境を創ることで、こうした気流を解消しました。こうして様々な環境において気流はますます弱くなり、その方向や速度、威力が変わるのです。山、山脈、平野、丘陵、盆地、峡谷、高原、川などの様々な地理的環境が見られるのは、そのためです。神はこうした様々な地理的環境を適用して気流の速度、方向、威力を変化させ、このような方法を用いて気流を適切な風速、風向、風力へと縮小あるいは操作するので、人間は通常の生活環境を得ることができます。そうすることは必要ですか。(はい。)こうしたことを行うのは、人間にとって困難に思われますが、神にとっては容易です。なぜなら神は万物を監督しているからです。神にとって、人類に適した気流のある環境を創ることは極めて単純かつ容易です。したがって、神が創ったこのような環境において、万物のそれぞれひとつひとつが不可欠なのです。それらのすべてその存在に価値と必要性があります。しかし、サタンと堕落した人類は、こうした思想を理解しません。彼らは破壊と開発を続け、むやみに山々を平野へと換え、峡谷を埋め立て、平野に高層ビルを建て、コンクリートジャングルを造り出します。神が人間のために用意した人間に最適な環境において、人間が幸福に暮らし、幸福に成長し、幸福な毎日を送れることが神の望みです。人類の生活環境を扱うことに関して、神が不注意であったことが決してないのはこのためです。人類の生活環境と身体が自然条件に起因する障害の影響を一切受けず、人類が正常に生活し、繁殖し、万物と調和して共に正常に生活できるように、神は気温から空気、音、光にいたるまで、精緻な計画を立て、精緻な采配を行なってきました。これらはすべて神により万物と人類に与えられています。

人間の生存のためのこれら五つの基本的条件を神が取り扱った方法から、神が人類に与えるものが分かりますか。(はい。)つまり、神は人間生存のための最も基本的条件を作ったのです。同時に、神はこれらを管理し、制御し、人間が存在するようになって数千年を経た今も、依然として継続的に人間の生活環境を変化させ、人類にとって最善かつ最適な生活環境を与え、人間の生活が普通に維持されることができるようにしています。これはいつまで維持されるでしょうか。言い換えるなら、どれくらいのあいだ神はそうした環境を与えるでしょうか。神がその経営(救い)の働きを完了するまでです。その後は、神は人類の生活環境を変化させます。それは同様の方法によるかもしれませんし、あるいは異なる方法によるかもしれませんが、今人間が真に知る必要のある事は、神は人類に必要なものを与え続け、人類の生活環境を管理し、保存し、保護し、維持しているということです。神の選民がこのように普通に生活し、神の救いと刑罰、そして裁きを受けることができるのは、こうした環境のゆえです。神の支配のおかげで万物は存続し、また神がこうして与えているおかげで全人類は進歩を続けています。

たった今わたしが話をした部分は、あなたがたに何か新たな考えをもたらしましたか。あなたがたは、今では神と人類の最大の違いを感じますか。それでは、万物の支配者は誰ですか。それは人間ですか。(いいえ。)それでは、万物の取り扱い方における神と人間の相違は何ですか。(神様は万物を支配して取り決められ、人間はそのすべてを享受します。)あなたがたはこの意見に賛成ですか。神と人類の最大の相違点は、神は万物を支配し、すべてを与えるということです。神は万物の源であり、人間は神が与える万物を享受します。つまり、神が万物に与えるいのちを人間が受け入れる時、人間は万物を享受するということです。人類は神の万物創造の成果を享受するのに対し、神は主です。それでは、万物の立場から見ると、神と人類の相違点は何ですか。神は万物の成長法則を明瞭に見ることができ、万物の成長法則を制御し、支配します。すなわち、万物は神の目の中にあり、神の監視範囲内にあります。人間には万物が見えますか。人間に見えるものには制限があります。つまり、自分の目の前にあるものに限られるのです。もし人間が山に登ると、人間に見えるのは、その山です。その山の反対側にあるものは見えません。人間が海岸へ行くと、人間に見えるのは目の前にある海ですが、その対岸の海がどのようであるかは知りません。人間が森に辿り着くと、人間には自分の周囲と目の前にある植物が見えますが、その先に何があるかは見えません。人間は高い場所、遠い場所、深い場所を見ることができません。人間に見えるのは目の前にあるものと、視野の中にあるものだけです。人間が一年間の四季の法則や万物の成長法則を知っていたとしても、万物を管理したり支配したりすることはできません。その一方、神の万物の見方は、あたかも神が自ら製作した機械を見るようなものです。神はそれぞれの部品について熟知しているのです。その原則が何か、その法則は何か、その目的は何かについて、神はこれらのことすべてを明白に知っています。それゆえに、神は神であり、人間は人間なのです。たとえ人間が科学や万物の法則の研究を続けたとしても、それは依然として限界のある範囲内であり、その一方で神は万物を支配しています。それは人間にとって無限です。もし人間が神が行った極めて小さな何かを研究したならば、生涯を研究に捧げても、何ら実質的な成果を達成しないことがありえます。もしあなたが知識や学習した事柄を用いて神を研究しても、神を知ることも理解することも決してできないのは、このためです。しかし、もし真理を求め、神を求める道を用い、神を知ろうとするという観点から神を見つめるのならば、やがて神の業と知恵が随所にあることを認め、また神が万物の主、そして万物のいのちの源であると言われるのはなぜかを知るでしょう。そうした認識をさらに得れば得るほど、神がなぜ万物の主と呼ばれるのかを一層理解するでしょう。あなた自身を含めた万物、すべてのものは、神から安定した施しを間断なく受け取っています。また、あなたはこの世界で、人類の只中に、万物の存在を支配し、管理し、維持するこのような力と本質をもつことのできるのは、神を除いて存在しないことを明らかに感じることができます。あなたがこうした理解を得る時、あなたは神があなたの神であることを真に認めるでしょう。あなたがこの点に達する時、あなたは神を真に受け入れ、神をあなたの神であり主であるとしたのです。あなたがそうした認識を得、あなたのいのちがそのような点に達した時、神はもはやあなたを試したり、裁いたりせず、またあなたに対して要求しなくなります。なぜなら、あなたは神を理解し、神の心を知り、神をあなたの心の中で真に受け入れたからです。このことは、神の万物支配と管理に関するこれらのことを伝える重要な理由です。このことは、人々により一層の認識と理解を与えるためであり、単にあなたに神の業を認めさせるだけでなく、それについてのさらなる実践的な認識と理解を与えるためです。

『言葉は肉において現れる』より引用

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