唯一無二の神自身 5

(その4)

5.サタンはいかに社会動向を用いて人間を堕落させるか

社会動向はいつ始まりましたか。それは新しい現象ですか。(いいえ。)では、社会動向はサタンが人間を堕落させ始めたときに生まれたと言えますか。(はい。)社会動向は何を含んでいますか。(服装や化粧のスタイル。)これは人がよく接することです。服装のスタイル、ファッション、流行、それは小さな一側面です。他にも何かありますか。人がよく語る一般的な格言も数に入りますか。人が望む生活様式はどうですか。音楽のスター、有名人、雑誌、人々が好きな小説は数に入りますか。(はい。)皆さんの考えでは、これらの社会動向のどの側面が人間を堕落させることができると思いますか。これらの社会動向で、皆さんにとって最も魅惑的なのはどれですか。「我々はもうある程度の年齢で、四十代、五十代、六十代、七十代、八十代なので、そのような社会動向には合わず、我々はそういうことには関心を寄せない」と言う人がいます。これは正しいですか。「我々は有名人には関心はない。それは十代、二十代の若者のすることだ。我々は流行の服を着ないし、それは外観を意識する人たちのすることだ」と言う人もいます。では、社会動向のうちで人を堕落させられるのは何ですか。(一般的な格言です。)格言は人を堕落させることができますか。一つ挙げます。それが人を堕落させられるか否かがわかります。「地獄の沙汰も金次第」。これは社会動向ですか。これは、皆さんが挙げたファッションや美食の社会動向と比較すると、もっと悪いものではありませんか。(そうです。)「地獄の沙汰も金次第」はサタンの哲学であり、人類全体に、あらゆる人間社会に浸透しています。この格言は人間一人ひとりに伝えられ、今や一人ひとりの心の中に固定しているので、社会動向であると言うことができます。人はこの格言を受け入れない状態から、それに慣れ親しんでいく状態に移行したので、現実生活を知るようになったとき、格言を暗黙のうちに徐々に認め、その存在を認知し、最終的には一人ひとりが格言に承認印を押したのです。この過程は、サタンが人間を堕落させる過程ではありませんか。おそらく人々はこの格言を同じ程度に理解しておらず、人々の周辺で起きたことや個人的な経験にもとづいて、一人ひとりがこの格言について程度のことなる解釈や認識をしています。そうですね。この格言について誰かがどれほどの経験があるかにかかわらず、これが誰かの心に及ぼすことのある否定的な効果は何ですか。(人は金銭を重んじます。)皆さん一人ひとりを含め、この世にいる人々の人間的性質を通して、何かが明らかにされました。これはどのように解釈されますか。それは金銭崇拝です。それを誰かの心から排除するのは困難ですか。極めて困難です。サタンによる人間の堕落は相当に徹底的なようです。サタンがこの社会動向を用いて人を堕落させた後、それは人にどのように表れますか。皆さんは金がなくてはこの世で生き残っていけない、一日でさえも不可能であると感じませんか。(感じます。)人の地位は、体面と同様に、その人がどれだけ金をもっているかにもとづいています。貧しい人々は恥ずかしさのあまり背を丸め、その一方で富裕な人々は高い地位を享受しています。彼らは胸を張って威張り、大きな声で話し、傲慢に暮らします。この格言と社会動向は人に何をもたらしますか。多くの人が金を稼ぐことは、あらゆる犠牲を払う価値があると考えていませんか。人々はもっと金を得るために自分の尊厳や高潔さを犠牲にしていませんか。多くの人が、自らの本分を尽くして神に従う機会を、金のせいで失っていませんか。これは人にとって損失ではありませんか。(損失です。)この方法と格言を用いて人間をここまで堕落させるサタンは邪悪ではありませんか。これは悪意に満ちた策略ではありませんか。この広く流布している格言に反対する状態から最終的にそれを真理として受け入れる状態に移行するにつれて、人の心は完全にサタンの掌中に落ち、そのため気付かないうちにこの格言により生きるようになります。この格言は、どの程度あなたに影響を与えましたか。あなたは真の道を知り、真理を知っているかもしれませんが、それを追求するには無力なのです。神の言葉を明確に知っているかも知れませんが、代償を払う覚悟がなく、代償を払うために苦しむ覚悟もありません。その代わり、あなたは自分の将来と運命を犠牲にして、最後の最後まで神に逆らう方がいいのです。神が何を言おうと、神が何をしようと、あなたへの神の愛が深く偉大であることにあなたがどれほど気づいていようと、あなたは頑なにこの格言のためにひたすら代償を払うのです。つまり、この格言は既にあなたの行動や思想を支配しており、それをあきらめるよりも、むしろそれに自分の運命を支配されることを望んでいるのです。人はこのようなことをし、この格言に支配され、操られます。これは人間を堕落させるサタンによる効果ではありませんか。これはあなたの心に根ざしているサタンの哲学と堕落した性質ではありませんか。もしあなたがそうすると、サタンはその目的を達成したことになりませんか。(なります。)サタンがこのように人間を堕落させてきたことが見えますか。(いいえ。)見なかったのです。それを感じることができますか。(いいえ。)感じなかったのです。ここにサタンの邪悪が見えますか。(はい。)サタンはあらゆる時にあらゆる場所で人間を堕落させます。サタンは人間がこの堕落に対して防御することを不可能にし、それに対して人間を無力にさせます。うっかりしていたり、自分に何が起きているかを認識していない状況において、サタンはその思想、観点、サタンから来る邪悪な物事をあなたに受け入れさせます。人はそれらをすっかり受け入れ、それに苦情を言うこともありません。それらを宝のように大切に抱えて、それらが自分を操り、もてあそぶままにします。このようにしてサタンによる人間の堕落はますます深まるのです。

サタンはこれらの方法を用いて人間を堕落させます。人間には知識といくらかの科学的理論があり、伝統文化の影響下に生き、一人ひとりが伝統文化の継承者です。人間はサタンから与えられた伝統文化を継承するように縛られており、またサタンが人類に提供する社会動向に合わせて行動します。人間はサタンから切り離すことができず、サタンのすることすべてに常に協力し、その狡猾さ、傲慢、悪意、邪悪を受け入れます。人間が一度サタンのこれらの性質を身に付けるようになった後、人間はこの人類のあいだで、この世で生きて、幸福ですか。それとも悲しいですか。(悲しいです。)なぜそう言うのですか。(人間はそれらのことに束縛され、人生は苦闘だからです。)ふむ。眼鏡をかけて聡明そうな外観をしている人がいます。その人は決して声を荒げず、常に雄弁で、筋が通っていて、さらに、年輩なので多くの物事を経てきて、とても経験豊かかもしれません。その人は大小様々な事柄について詳細に話すことができ、その人の言うことに確固とした基盤があるかもしれません。また、物事の信憑性や理由を評価するための理論を一式もっているかもしれません。人々はこの人の行動や外観を見て、またその人の振る舞いや、高潔さ、性格を見て、その人に一切欠点を見出さないかもしれません。このような人は現代の社会動向に特に応答し、古臭いとみなされることは決してありません。その人が歳をとっていても、決して時代に遅れることなく、学ぶのに歳をとりすぎていることもありません。表面的には誰もその人の欠点を見つけることができませんが、内面はサタンによってすっかり完全に堕落させられています。表面的には何も問題はなく、その人は柔和で洗練され、知識があり、ある程度の道徳性も備えています。高潔で、その人が知っていることは若者の知っていることと同程度です。けれど、本性と本質に関しては、この人はサタンの完全な生ける模型で、サタンの完全な生き写しです。これはサタンによる人間の堕落の「成果」です。わたしが言ったことは、皆さんにとっては辛いことかも知れませんが、これはすべて本当です。人間が学習する知識、理解する科学、社会動向に合うように選ぶ手段は、例外なくサタンによる堕落の道具なのです。これは絶対に正しいことです。したがって、人間はサタンにより完全に堕落させられた性質の中で生き、神の聖さとは何なのか、あるいは神の本質とは何なのかを知る術は人間にはありません。なぜなら、表面的にはサタンが人間を堕落させる方法に欠点を見つけることはできず、誰かの振る舞いから何かが誤っていることがわからないからです。人は一人ひとり、普通に働き普通の生活を送り、普通に書籍や新聞を読み、普通に学習し話します。表面的には道徳性を装うことを覚え、挨拶をし、礼儀正しく、丁寧であり、他人に対してものわかりがよく、親しみやすく、他人の役に立ち、寛大で、他人に対して気難しくなったり、他人を利用したりすることを避ける人もいます。けれど、その人のサタン的な堕落した性質は内面深くに根ざしています。その本質は外部的な努力に頼って変えることができません。この本質ゆえに、人間は神の聖さを知ることができず、また神の聖なる本質が人間にむけて公けにされているにもかかわらず、人間はそれを真剣にとらえません。これは、様々な手段を通してサタンが既に人間の思いや考え、視点、思想を完全に占有しているからです。この占有と堕落は一時的なものでも偶発的なものでもありません。それはいたるところに常にあります。したがって、神を三、四年、または五、六年でさえも、信仰してきた多くの人々が依然としてサタンが彼らに教え込んだ思想や観点に、まるで宝にしがみつくように固執します。人間はサタンの邪悪で傲慢で悪意に満ちたものをサタンの本性から受け入れたため、必然的に人間関係においてしばしば対立、論争、不和があり、それらはサタンの傲慢な本性の結果として作り出されるのです。もしサタンが人類に肯定的なものを与えていたなら、つまり、例えばもし人間が受け入れた伝統文化の儒教や道教が良いものとみなされたなら、それらを受け入れた後、同じ種類の人間同士は互いに仲良くやっていけるはずです。そうですね。ではなぜ同じ物事を受け入れた人々のあいだにそれほどの大きな分裂があるのですか。なぜですか。それは、それらの物事がサタンから来て、サタンが人々のあいだに分裂を生み出すからです。サタンが提供する物事は、それらがいかに表面的には立派で偉大に見えたとしても、人間にもたらし、人間の生活において生み出すのは傲慢とサタンの邪悪な本性による惑わしでしかありません。そうではありませんか。自分の外観を偽ることができる人、豊かな知識をもつ人、あるいは育ちの良い人は、自分の堕落したサタン的な性質を隠すのに苦労するでしょう。つまり、どれほど多くの方法でこのような人が自分をおおい隠しても、あるいはあなたがその人を聖人だと思ったり、完璧である、天使であると思っても、その人がどれほど純粋だと思ったとしても、その人の生活は陰ではどのようなものでしょうか。その人の性質が明らかにされると、どのような本質が見えるでしょうか。疑いなく、サタンの邪悪な本性を見るでしょう。そう言うことができますか。(はい。)例えば、誰か親しい人を知っていて、あなたはこの人のことを善人だと思っていたか、ことによると偶像化していたとします。現在のあなたの霊的背丈では、その人のことをどう思いますか。まず、あなたはそのような人に人間性があるか否か、誠実か、人々に対して真の愛があるか、その人の言動は他の人のためになり助けになるかを観察します。(その人にそういうことはありません。)ここで明らかにされているいわゆる親切、愛、あるいは善は、本当は何ですか。それはすべて偽物で、見せかけです。この陰の見かけには、隠された邪悪な目的があります。それは、その人が愛され、偶像化されることです。皆さんにはこのことがはっきり見えますか。(はい。)

サタンが人を堕落させるために用いる方法は人類に何をもたらしますか。それに何か肯定的なものはありますか。まず、人間は善と悪を区別できますか。あなたも知っているとおり、この世界においては、それが偉人であれ何かの雑誌であれ、それがこれこれは良い、これこれは悪い、と言いますが、それは正確ですか。このような出来事や人々に関する評価は公正ですか。そこに真理がありますか。この世あるいは人類は、真理の基準にもとづいて肯定的なものと否定的なものを評価しますか。(いいえ。)なぜ人にはその能力がないのですか。人は大量の知識を習得し、科学について多くを知っていますが、人の能力は十分に偉大ではないのですか。なぜ人は肯定的なものと否定的なものを区別できないのですか。これはなぜですか。(人には真理がないからです。科学や知識は真理ではありません。)サタンが人類にもたらすものはすべて邪悪で、堕落であり、それには真理、いのち、道が欠如しています。サタンが人間にもたらす邪悪と堕落をもってすると、サタンには愛があると言うことができますか。人間には愛があると言うことができますか。「あなたは間違っている。貧しい人やホームレスの人を助ける人が世界中に大勢いる。彼らは良い人ではないのか。また、良い取り組みを行なう慈善団体もあり、それらの団体がしていることは善行ではないのか」と言う人もいることでしょう。では、これについては何と言いますか。サタンは様々な方法や理論を用いて人間を堕落させます。この人間の堕落は曖昧な概念ですか。いいえ、曖昧ではありません。サタンは実際的なことも行い、この世界と社会において、何らかの観点や理論を提唱します。各王朝、各時代において、サタンは理論を提唱し、人間に思想を教え込みます。それらの思想や理論は、徐々に人間の心に根ざし、人はその理論や思想に基づいて生きるようになります。人は知らず知らずのうちにサタンになるのではありませんか。人はサタンと一体ではありませんか。人がサタンと一体になったとき、最後には人間の神への態度はどのようなものですか。それはサタンの神への態度と同じではありませんか。誰もこれをあえて認めようとしませんね。これはとても恐ろしいことです。なぜわたしはサタンの本性は邪悪だと言うのですか。それはサタンのしたこととサタンが明らかにした物事に基づいて判断され、分析されています。サタンが邪悪であると言うことには価値がないわけではありません。もしわたしがただサタンは邪悪だと言ったなら、皆さんはどう思いますか。皆さんは、「サタンは明らかに邪悪だ」と思うでしょう。そこで、わたしは質問します。「サタンのどの側面が邪悪ですか」。もし「サタンが神に抵抗することが邪悪だ」と返答しても、まだ明確に話していることにはなりません。今、わたしたちはこのように詳細に触れました。皆さんはサタンの邪悪の本質の具体的な内容について理解しましたか。(はい。)サタンの邪悪な本性についてこの理解を得たのですから、皆さん自身についてはどれくらい理解していますか。これらの事柄はつながっていますか。それは皆さんにとって助けとなりますか。(はい。)わたしが神の聖なる本質について交流するとき、わたしがサタンの邪悪な本質について話すことは必要ですか。皆さんの意見はどうですか。(はい、必要です。)なぜですか。(サタンの邪悪は、神様の聖さをはっきりと浮き彫りにするからです。)そうですか。サタンの邪悪なしには、人は神の聖さを知ることはないという意味において、それは部分的に正しいです。正しいですが、もし神の聖さはサタンの邪悪との対比においてのみ存在すると言うと、それは正しいですか。この主張は誤りです。神の聖さは神に内在する本質です。神はそれを神の業を通して明らかにしますが、それはやはり神の本質の自然な表現であり、神に内在する本質です。それは常に存在し、神固有のものですが、人間は見ることができません。それは人間はサタンの堕落した性質の只中とサタンの影響下に生き、聖さについては知らず、神の聖さの具体的な内容についてはなおさら知らないからです。それでは、わたしたちがまず最初にサタンの邪悪な本質について交流するのは必要ですか。(はい。)「神は神自身について交流しているのに、なぜいつもサタンがいかに人間を堕落させ、サタンの本性がいかに邪悪であるかについて話すのか」と、疑念を表明する人がいるかもしれません。このような疑念は払拭しましたか。人が邪悪の識別があり、その正確な定義をもっているとき、邪悪の具体的な内容と表明、邪悪の源と本質を明確に理解しているとき、つまり今のように神の聖さが論じられているとき、人ははっきりと気づき、それを神の聖さとしてはっきりと認識します。もしわたしがサタンの邪悪について話さないなら、人々がこの社会や人々のあいだで行なうこと、或いはこの世の何かを、聖さと関係するものと誤解する人がいるでしょう。そのような見方は間違いではありませんか。(間違いです。)

このように、わたしはサタンの本質について話してきました。皆さんは、ここ数年の自分の経験を通して、神の言葉を見ることから、神の働きを経験することから、神の聖さについてどのような理解を得ましたか。それついて話してごらんなさい。聞こえの良い言葉を使う必要はないので、ただ自分自身の経験から話してください。神の聖さはただ神の愛ですか。わたしたちが聖さと形容するのは単に神の愛ですか。それではあまりに一面的です。そうですね。それは一面的ではないでしょうか。(はい。)神の愛の他に、皆さんが見た神の本質の他の側面がありますか。(あります。)何を見ましたか。(神様は祭礼や祭日、慣習、迷信を嫌悪されます。これは神様の聖さです。)あなたは神は特定の物事を嫌悪すると言っただけです。神は聖なるものなので、それらの物事を嫌悪する、というのが意味することですか。(はい。)その根底において神の聖さとは何ですか。神の聖さには実質的内容はなく、ただ神が物事を嫌悪するということですか。皆さんは頭の中で「神はこれらの邪悪な物事を嫌悪するので、したがって神は聖なるものと言うことができる」と考えているのですか。これは推測ではありませんか。それは推論と判断の一形態ではありませんか。神の本質を理解するにおいて、最大の禁忌は何ですか。(現実から離れることです。)現実を離れたり、教義を語ること、これが最大の禁忌行為です。他には。(憶測と想像です。)憶測と想像、これらもとても重要な禁忌です。なせ憶測と想像は有用でないのですか。憶測したり想像したりする物事は、本当に見えるものですか。(いいえ。)それらは神の真の本質ですか。(いいえ。)他の禁忌は何ですか。神の本質を形容するのに、ただ響きの良い言葉をまとめて列挙するのは禁忌ですか。(はい。)それは自慢げで無意味ではありませんか。判断と憶測も、響きの良い言葉を並べることと同様に無意味です。空虚な称賛も無意味です。そうですね。(はい。)このような無意味なことを人が話すのを聞くのを神は愉快としますか。(いいえ。)何かを「愉快としない」の同義語は何ですか。(不愉快である、です。)神はそれを聞くと不愉快に感じます。神はある集団の人々を導き、救いますが、この集団の人々が神の言葉を聞いた後、彼らは神の意味することを理解していません。誰かが「神は善良か」と尋ね、別の誰かが「善良だ」と答え、「どれくらい善良か」、「とても、とっても善良だ」、「神は人間を愛しているか」、「愛している」、「どれくらい」、「とても、とっても」、「神の愛を形容できるか」、「海よりも深く、空よりも高い」とやりとりしたら、これは戯言ではありませんか。この戯言は、皆さんがたった今言ったこと、「神はサタンの堕落した性質を嫌悪するので、よって神は聖なるものだ」に似ていませんか。(似ています。)皆さんが言ったことは、戯言ではないでしょうか。語られる無意味な戯言の大部分はどこから来ますか。(サタンです。)サタンから来ます。語られる無意味な戯言はおもに人の無責任さと神への不敬から来ます。そう言うことができますか。(はい。)あなたは何も理解していなかったのに、それでも戯言を述べましたが、それは無責任であることになりませんか。それは神への不敬ではないのですか。少々の知識を習得し、少々の論法と少々の論理を理解し、それらをここで用い、さらに、それを神を知ることにおいて行ないました。神がそれを聞いて不愉快に感じると思いますか。どうしてそのような方法で神を知ろうとすることができるのですか。ぎこちなく聞こえませんか。したがって、神の認識については、とても注意深くなければなりません。神について知っているところ、それだけを話しなさい。正直に実際的に話し、決まりきった褒め言葉で話を飾り立てたり、媚びへつらうような言葉を使ったりしてはいけません。神にはそれは必要ではなく、そのようなことはサタンから来るのです。サタンの性質は傲慢で、サタンは誉めそやされたり、心地よい言葉を聞いたりするのが好きなのです。もし人が学習した響きの良い言葉を全部並べて、それらをサタンのために使うなら、サタンは喜び満足します。けれど、神にはそれは必要ではありません。神はへつらいやお世辞を必要とせず、人が戯言を言い、盲目的に神を讃美することを要求しません。神は、現実離れした讃美やお世辞を嫌悪し、聞くことさえしません。それで、誰かが神を盲目的に讃美し、その言葉が彼らの心と一致しないとき、盲目的に神に誓いを立て、いい加減に神に祈るとき、神は全然聞きません。あなたは自分の言うことに責任をもたなければなりません。もし何かを知らないのなら、ただそう言いなさい。もし何かを知っているのなら、それを実際的な方法で表現しなさい。さて、神の聖さの実際の内容について、皆さんは具体的に理解しましたか。(わたしが反抗的な面を見せたとき、過ちを犯したとき、神様の裁きと刑罰を受けましたが、そこにわたしは神様の聖さを見ました。そして、わたしの期待通りではない環境に遭遇したとき、わたしはそれらについて祈り、神様の意図を求めました。神様が御言葉とともにわたしを啓き、導いてくださるにつれて、わたしは神様の聖さを見ました。)それはあなた自身の経験からですね。(わたしは神様が仰ったことから、人間はこのようにサタンに堕落させられ、傷つけられているということを理解しました。けれど、神様はわたしたちを救うためにすべてを与えて下さり、そこにわたしは神様の聖さを見ます。)それは実際的な話し方で、真の認識です。これについて、違う見方はありますか。(わたしは自分の理解が正しいのか違うのかはわかりません。サタンが罪を犯すようにエバをそそのかすために言った言葉や主イエスの誘惑にサタンの邪悪が見えます。神様がアダムとエバに食べてよいものと、食べてはならないものを説明された御言葉では、神様の御言葉は直截で清く信頼できるものでした。ここにわたしは神様の聖さを見ます。)この人たちの言ったことを聞いた中で、誰の言葉に皆さんは一番アーメンと言いますか。誰の話、誰の説明が、きょうのわたしたちの交流の題目に一番近かったですか。誰の話が一番現実的でしたか。最後に話した姉妹の話はどうですか。(良かったです。)この姉妹の話にアーメンと言うなら、彼女の話したことで的を射ていたのは何でしたか。直截に話しなさい。言うべきことを言い、間違うことを心配してはいけません。(最後に話した姉妹の語った言葉に、神様の言葉は直截で明瞭で、サタンの回りくどい話とは全然違うということを聞きました。わたしはそのことに神の聖さを見ます。)それは一部です。皆さん全員、たった今述べられた意見を聞きましたか。(はい。)それは正しいですか。(はい。)この姉妹に拍手をしましょう。とてもよろしい。この最近二回の交流で、皆さんが何かを得たのがわたしにはわかりますが、皆さんは頑張り続けなければなりません。頑張り続けなければならない理由は、神の本質を理解することは、とても深い学びであり、一夜にして理解できるものでも、ほんの数語で明確に語れるものでもないからです。

人の堕落したサタン的な性質の一つひとつの側面、知識、哲学、人間の思想と視点、個人的側面が、人が神の本質を知るのを大いに妨げます。ですから、これらの題目を聞くときは、幾つかの題目は皆さんの手が届かないもので、幾つかの題目は理解できず、幾つかの題目は現実と一致させることが根本的にできないかもしれません。それにもかかわらず、神の聖さについての皆さんの理解について聞き、神の聖さについてわたしが言い、交流したことを皆さんが心の中で認識し始めていることを、わたしは知っています。皆さんの心の中で、神の聖なる本質を理解したいという願望が芽生えつつあることを、わたしは知っています。けれど、わたしをさらに幸せにすることは何でしょうか。それは、皆さんのうちの何人かが既に、神の聖さについての認識を最も簡潔な言葉を用いて描写できることです。これは言うのは単純なことで、以前にも言ったことですが、皆さんの大半の人の心の中では、これはまだ認められても、印象を残してもいません。それでもなお、何人かの人たちはこれらの言葉を心に深く刻み、それはとても良いことで、とても良い始まりです。皆さんが深いと思う題目、皆さんの手に届かない題目については、熟考を続け、さらに話し合うことを望みます。手が届かない問題については、誰かが皆さんにさらに指導を施すでしょう。現在皆さんの手に届く分野に関して、さらに交流に取り組めば、聖霊がその働きを行い、皆さんはさらなる理解に到達することでしょう。神の本質を理解すること、神の本質を知ることは、人の霊的成長に計り知れない支援を提供します。皆さんがこのことを無視したり、それを遊びとみなさないことを望みます。なぜなら、神を知ることは、人間の神への信仰と人間の真理と救いの追求にとっての必要不可欠な基礎であり基盤であり、なくてはならないものだからです。もし人間が神を信仰していながら、いまだに神を知らず、文字や教義の只中で生きるなら、たとえ真理の表面的な意味に従って生きても、決して救いを得ることはありません。つまり、もし神への信仰が神を知っていることに基づいていないのなら、その信仰は何の意味もありません。わかりますか。(はい、わかります。)わたしたちの交流はきょうはここで終わります。(神様に感謝。)

2014年1月4日

『言葉は肉において現れる』より引用

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