日々の神の御言葉: 受肉 | 抜粋 128
神は人々の間で自らの働きをするため、人に自らを顕すため、そして人が神を見上げることができるようになるため、地上に来た。これはささいなことだろうか。これは実に素晴らしいことだ。神が来たのは人が想像するのとは違い、人が神を見上げ、神は漠然としてあいまいな存在ではなく本物で、高尚だ…
初めて神を信じたあと、人が得てきたものは何か。あなたは神について何を知るようになったのか。神への信仰により、あなたはどれほど変わったのか。今日、あなたがたはみな、人による神への信仰は単に魂の救いと肉の幸福のためではなく、神の愛を通して自分の人生を豊かにさせるためなどでもないことを知っている。そのように、もしあなたが肉の幸福や一時的な快楽のために神を愛するなら、たとえ最後に神に対するあなたの愛が頂点に達し、あなたがそれ以上何も求めないとしても、あなたが求めるこの愛は依然として不純な愛であり、神には喜ばれない。自分のつまらない存在を豊かにし、心の空虚さを埋めるために神を愛する人は、楽な生き方に貪欲な人であって、神を真に愛することを求める人ではない。このような愛は強いられたものであり、精神的満足を追求するものであって、神はそれを必要としない。では、あなたの愛はどのようなものか。あなたは何のために神を愛するのか。まさにいま、あなたの中には神に対する真の愛がどれほどあるのか。あなたがたの圧倒的多数が抱いている愛は先に述べた通りのものである。このような愛は現状を維持することしかできず、不変性を得ることも、人に根づくこともできない。この種の愛は、花が咲いても実をつけず、そのまましおれてしまう花のようでしかない。言い換えると、そのような形で神を愛しても、誰かがその道を導いてくれなければ、あなたは崩れ落ちてしまう。神を愛する時代に神を愛せるだけで、その後もいのちの性質が変わらないままなら、あなたは引き続き暗闇の力に覆われ、そこから逃れることができず、サタンの束縛とたくらみから自由になることもできないままである。そのような人が完全に神のものとなることはできない。最終的に、その人の霊、魂、体は依然としてサタンに属している。このことに疑いの余地はない。完全に神のものとされることができない人は、残らず自分の本来の場所に戻る。つまり、サタンの所に戻り、神による次の段階の懲罰を受けるため、火と硫黄の池に落ちるのである。神のものとされる人は、サタンを捨て去ってその支配下から逃れる人のことである。そのような人は正式に神の国の民として数えられる。神の国の民はこのようになるのである。あなたはこの種の人になりたいのか。進んで神のものになりたいのか。進んでサタンの支配下から逃れ、神の元に戻りたいのか。あなたはいまサタンに属しているのか、それとも神の国の民として数えられているのか。これらのことはすでに明白であるべきで、これ以上説明する必要はない。
『神の出現と働き』「信者はどのような観点をもつべきか」(『言葉』第1巻)より
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神は人々の間で自らの働きをするため、人に自らを顕すため、そして人が神を見上げることができるようになるため、地上に来た。これはささいなことだろうか。これは実に素晴らしいことだ。神が来たのは人が想像するのとは違い、人が神を見上げ、神は漠然としてあいまいな存在ではなく本物で、高尚だ…
現在、神の本質に関するあなたがたの知覚的理解には、学び、確認し、実感し、経験するための長い時間が必要です。やがて心から神の聖さが、神の完璧な本質であり、神の無私な愛であり、神が人間に与える物事のすべてが無私であることを知り、神の聖さは汚れ無く、非難の余地が無いことを知るでしょう。…
神が律法の時代の働きを行なった後に旧約聖書は作られたのだが、人々が聖書を読み始めたのはそのときだった。イエスは到来後に恵みの時代の働きを行ない、彼の使徒たちが新約聖書を記した。このようにして旧約聖書と新約聖書は作られ、今日に至るまで、神を信じるすべての人が聖書を読んできた。…
多くの人は、自分がいずれ辿りつく終着点のため、あるいは一時的に楽しみにあずかるために神を信じている。神による取り扱いを経験したことのない者にとって、神を信じることは、天国に行くためであり、また見返りを得るためなのであって、完全にされるためでも、被造物としての本分を尽くすためでもな…