日々の神の御言葉: 受肉 | 抜粋 101
イエスがその働きをする以前、イエスはただ普通の人間として生きた。誰一人、イエスが神であるとはわからなかったし、誰一人、イエスが受肉した神であることを気付かなかった。人々はただ、どこから見ても普通の人間としてイエスを知っていた。イエスのまったく平凡な普通の人間性は、神が受肉して人間…
多くの人々が、実践について多少は話すことができるし、個人的な感想を述べることもできるが、その大部分は他人の言葉から得た明察である。そこには自分自身の個人的な実践からもたらされたものも、自分の体験から知ったことも一切含まれていない。わたしはこの問題を詳しく吟味したことがある。わたしが何も知らないなどと思わないことだ。あなたはただの張子の虎に過ぎないのに、サタンに打ち勝つこと、勝利の証しをすること、そして神の似姿を生きることを語るのか。まったく馬鹿げた話だ。今日神が語っている言葉がすべて、ただ聞いて感心するためだけのものだと思っているのか。あなたの口は古い自分を捨て去り真理を実践することを語っているが、あなたの手はそれと違うことをしており、あなたの心は他のことを企んでいる。あなたは一体どういう人間なのか。なぜあなたの心と手は一致していないのか。非常に多くの説教がただの空虚な言葉になってしまっているのは、何と心が痛むことか。あなたが神の言葉を実践に移せないなら、それはあなたがまだ聖霊の働き方に入っておらず、まだあなたの中で聖霊が働いておらず、またあなたが聖霊の導きを得ていない証拠である。神の言葉を理解することはできるが、それを実行に移すことはできないと言うなら、あなたは真理を愛さない人間なのだ。神はそのような人間を救うために来るのではない。イエスは途方もない苦痛を受けて十字架にかけられ、罪人を救い、貧しい者を救い、あらゆる卑しい者を救った。イエスの磔刑は罪のいけにえの役割を果たしたのだ。神の言葉を実践できないのなら、できるだけ早く立ち去りなさい。居候として神の家に長居してはならない。多くの人々は明らかに神に背くことだとわかっていることさえ、やめるのに困難を感じている。彼らは死を招いているのではないだろうか。どうして彼らが神の国に入ることを語れようか。ずうずうしくも神の顔を見る度胸があるのか。神が与えてくれる食物を食べながら神に背く曲がったことを行い、神が授けた祝福を享受させてもらっていながら、悪意を持ち、陰険になり、陰謀を企てている。そうした祝福を受けとるとき、自分の手が焼かれるように感じないのか。顔が赤くなるのを感じないのか。神に反することを行い、「自分勝手に物事を行う」という企みを成し遂げた今、あなたは恐れを感じていないのか。何も感じないのなら、どうして未来など語ることができようか。あなたにはもうずっと前から未来などなかったのに、これ以上どんな大きな期待を抱いていられるのか。恥知らずなことを言っても何の咎めも感じず、心に何の認識もないのなら、それはあなたがすでに神に見捨てられていることを意味するのではないか。気ままに何の自制心もなく話し行動することが本性となっているあなたが、どうして神に完全にされることができようか。あなたは世の中をやすやすと歩いて行けるだろうか。誰があなたに説得されるだろうか。あなたの本性を知る者は、あなたと距離を置くだろう。それは神の罰ではないか。いずれにせよ、話ばかりで行動が伴わないのなら、決して成長はない。あなたが話しているときは聖霊があなたの上に働いているかもしれないが、実践しないなら聖霊はその働きをやめるだろう。あなたがこれからもそのままなら、どうして未来のことや、自分の全存在を神の働きに捧げることなど語れようか。あなたは自分の全存在を捧げることを語れるだけで、神に真の愛を捧げていない。神があなたから受け取るものは言葉の献身だけであり、真理を実践しようという意図ではない。これがあなたの実際の霊的背丈なのだろうか。あなたがこれからもそのままなら、いつ神に完全にされるのか。あなたは自分の暗く陰鬱な未来に不安を感じないのか。神があなたへの望みを捨てたのを感じないのか。神がより多くの新たな人々を完全にしようとしていることを知らないのか。古いものがそのまま持ち堪えられるだろうか。あなたは今日、神の言葉に注意を払っていない。それで明日を待っているのか。
『神の出現と働き』「救いを得る人は真理を進んで実践する人である」(『言葉』第1巻)より
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イエスがその働きをする以前、イエスはただ普通の人間として生きた。誰一人、イエスが神であるとはわからなかったし、誰一人、イエスが受肉した神であることを気付かなかった。人々はただ、どこから見ても普通の人間としてイエスを知っていた。イエスのまったく平凡な普通の人間性は、神が受肉して人間…
ペテロが追い求めた唯一のもの、それは神の心であった。彼は神の心を満たすことを追い求め、苦難や災いを受けても、喜んで神の望みを叶えようとした。神を信じる者として、これ以上の追及の形はない。だがパウロが追い求めたものは、彼自身の肉的なもの、観念、思惑そして企みによって汚れていた。パウ…
自分を知るためには、自分自身の堕落の現われ、致命的な弱点、性質、そして自分の本性実質を認識しなければなりません。また、自宅にいようと外にいようと、集会に出席しているときであれ、神の言葉を飲み食いしているときであれ、また直面する一つ一つの問題においても、日常生活において露わにされる…
神と人を同等なものとして語ることはできない。神の本質と神の働きは人にとって最も深遠で理解しがたい。神が人の世でみずから働きを行わず、言葉を話さなかったら、人は決して神の意志を理解することはできないし、全生涯を神に捧げてきた人々でさえ、神の承認を得ることはできない。神の働きがな…