日々の神の御言葉: 人類の堕落を暴く | 抜粋 367
人間は自己を知らない生き物である。しかし、自身を知ることができなくとも、それでも他の人々をみな、自分の掌のように知っている。他人がみな自分の「検査」を通り、何かしたり言ったりする前に承認を受けているかのようで、したがって他の人全員をその心理的状態まですべて知り尽くしているよう…
神が人々に要求するのは、現実について語る能力だけではない。それはあまりに簡単なことだ。そうではないか。ならば、神はなぜいのちへの入りについて語るのか。なぜ変化について話すのか。現実について中身のない話しかできないのであれば、その人たちは性質の変化を成し遂げることができるのか。神の国の精兵は、現実について話したり、自慢したりすることしかできない集団となるよう訓練されているのではない。むしろ、いかなる時も神の言葉を生き、いかなる挫折に直面しても屈せず、絶えず神の言葉にしたがって生き、この世に立ち返らないように訓練されているのである。これが、神が語るところの現実であり、神が人間に要求するものである。したがって、神が語る現実を簡単に考え過ぎてはならない。単なる聖霊からの啓きは、現実を自分のものにすることと等しくはない。そうしたものは人間の霊的背丈ではなく、神の恵みであり、それに対して人間は何一つ寄与しない。一人ひとりがペテロの苦難に耐えなければならず、またそれ以上に、ペテロの栄光を自分のものにしなければならない。神の働きを得た後、彼らはそれを生きるのである。これ以外に現実と呼べるものはない。現実について語ることができるからといって、自分に現実があると考えてはならない。それは間違った考えである。そうした考えは神の旨と一致しておらず、実際の意義が一切ない。今後そんなことを語ってはならない。そのような発言は消し去りなさい。神の言葉を誤って理解している者はみな未信者である。彼らは真の認識を少しも持ち合わせておらず、まして真の霊的背丈など備えてはいない。彼らは現実をもたない無知な人々である。言い換えると、神の言葉の本質から外れて生きる者はみな未信者である。人々から未信者とみなされた者たちは、神の目から見ると獣であり、神から未信者とみなされた者たちは、神の言葉を自分のいのちとしていない者である。したがって、神の言葉の現実を自分のものにしておらず、神の言葉を生きていない者は未信者である。神の旨は、誰もが神の言葉の現実を生きるようにすることであり、単に誰もが現実について語るようにすることではなく、それ以上に、誰もが神の言葉の現実を生きられるようにすることである。人間が認識している現実は極めて表面的であり、何の価値もなく、神の旨を満たすことはできない。それはあまりに卑しく、言及する価値すらない。欠けているところがあまりに多く、神の要求の基準にまったく達していない。あなたがた一人ひとりが徹底した検査を受け、あなたがたのうち、自身の認識についてどう話すべきかを知っているだけで、道を示すことができない者は誰かが確かめられるとともに、役に立たないくずは誰かが突き止められる。今からは次のことを憶えておきなさい。中身のない認識について語ってはならない。実践の道と現実についてだけ語りなさい。本当の認識から本当の行動への移行、そして実践から本当に生きることへの移行について語るのだ。他人に説教したり、真の認識について語ったりしてはならない。もしもあなたの理解が道であるなら、自由に言葉を発しなさい。そうでなければ、口を閉じて黙ってほしい。あなたが話すことは役に立たない。あなたが認識について語るのは、神を欺き、他人を羨ましがらせるためである。それがあなたの野望ではないのか。あなたは故意に他人を弄んでいるのではないか。そうすることに何か価値があるのか。自分が経験した後で認識について話すなら、あなたは自慢しているとはみなされない。そうでなければ、あなたは傲慢な言葉を吐き出す者である。あなたの実体験には克服できないことが数多くあり、あなたは自分の肉に反抗することができない。あなたはいつも自分の好きなことを何でも行なっており、決して神の旨を満たさない。それなのに、理論的な認識について話す図々しさがいまだにある。あなたは恥知らずだ。あなたはいまだ大胆にも、神の言葉に関する自分の認識について語っている。あなたは何と厚顔無恥なのか。演説することや自慢げに話すことがあなたの本性となり、あなたはそうすることに慣れてしまった。自分が語ろうと思うたび、あなたは気軽にそうするが、いざ実践となると、飾り立てることに没頭する。これは他人を騙す方法ではないのか。あなたは人間を欺けるかもしれないが、神は決して騙されない。人間はそれに気づかず識別することもできないが、神はこうした事柄に真剣であり、決してあなたを容赦しない。兄弟姉妹はあなたを支持し、あなたの認識を称賛し、あなたに感心するかもしれないが、あなたが現実を自分のものにしていなければ、聖霊はあなたを容赦しない。おそらく、実践の神はあなたの過ちを見つけようとはしないだろうが、神の霊はきっとあなたを無視するし、それはあなたにとって十分耐えがたいことだ。あなたにそれが信じられるか。実践の現実についてもっと話しなさい。もうそれを忘れたのか。実際の道についてもっと話しなさい。もうそれを忘れたのか。「高尚な理論や無益な誇張した話を減らし、今すぐ実践を始めるのが一番である」という言葉を、あなたはもう忘れてしまったのか。あなたはまったく理解していないのか。あなたには神の旨に関する理解が一切ないのか。
『神の出現と働き』「真理を実践することだけが現実を自分のものにすることである」(『言葉』第1巻)より
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