日々の神の御言葉: 神を知る | 抜粋 56

2020年6月4日

神は人から隠されてはいるが、全てのものにおける神の業により人は神を知ることができる

ヨブは神の顔を見たこともなければ神の声を聞いたこともなく、ましてや神の業を直接経験したこともなかった。それでもヨブの神に対して抱く畏れと、試練の中でも証しとなったことは人々が認めており、神に愛され、喜ばれ、称えられた。人々はヨブをうらやみ、高く評価し、さらに讃美を捧げた。ヨブの人生自体が偉大であったわけでも非凡であったわけでもない。他の人達と変わらない、普通の生活であった。日が昇れば仕事に出かけ、日が落ちると帰宅して休息した。他の人たちと違っていたのは、その数十年間に、ヨブが神の道を見分けることができるようになり、神の偉大な力と主権を知るようになり、それが他の人が誰も成し得ないほどであったということである。他の人たちよりヨブが賢かった訳でもなく、ヨブの生き方が執着心の強いものであったわけでもない。ましてや彼に何か隠れた能力があったなどということはない。だがヨブには正直で、心優しく、正しく、公正と義を愛し、善きものを愛するという性格があった。これらはいずれも普通の人間にはないものである。ヨブは愛と憎しみを区別し、義を見分けることができた。自分の信じるものを譲ることも変わることもなかった。自らの考えに喜びを感じていたため、地上での普通の生活を送る中で神の驚くべき業を見ることができ、神の偉大さ、聖さ、義を見ることができ、人間に対する神の労り、恵み深さ、守りを知り、至高の神が褒めたたえられるべきであり、主権を握っていることを知ることができた。他の誰も獲得できなかったこれらのことをヨブが獲得することができた第一の理由は、ヨブが純粋な心の持ち主であり、ヨブの心は神に属しており、創造主により導かれていたからである。第二の理由はヨブが追求したものである。ヨブは全き者となること、天の心と一致することを求め、神に愛されて悪を避けることを追い求めた。神を見ることも神の言葉を聞くこともできなかったヨブがこれらのものを獲得し、追い求めたのである。神を見たことはなかったが、神がどのように全てを支配するかをヨブは理解し、また、神が全てを支配するその知恵を理解するようになったのである。ヨブは神の語る言葉を聞いたことはなかったが、人に報いることも取り上げることも神によるものであると知っていた。ヨブの人生は普通の人のそれと何ら変わらなかったが、それだからと言って全てのものにおける神の主権に関する認識を妥協せず、神を畏れ悪を避ける道への服従を妥協することはなかった。ヨブの目には、全てのものにおける法則は神の業で満ちており、神の主権は人生のいたるところで確認できるものであった。ヨブは神を見たことがなかったが、神の業をいたるところで認識することができ、彼の地上の生活のあらゆるところで、神の驚くべき不思議な業を見ることができ、神の不思議な計画を知ることができた。神が隠していたことと無言であったことはヨブが神の業を認識する上で障害とはならず、全てのものにおける神の主権を知る障害にもならなかった。ヨブの人生は、あらゆるものの中にあって隠されている神の主権と采配を認識する日々であった。それだけでなく、ヨブは日々の生活の中で、あらゆるものの中で無言である神が、全てのものに対する法則を支配する中で現した心の声と言葉を聞き、理解した。人々がヨブと同じ人間性と追求する姿勢を持っていたならば、彼らもヨブと同じ認識と知識を得ることができ、全てのものにおける神の主権に対する理解と知識をヨブ同様に獲得することができるであろうことがこれで理解できる。神はヨブに現れても語ってもいないが、ヨブは全き者となることができ、正しいものとなることができ、神を畏れ悪を避けることができた。つまり、神が現れることも直接語ることもなくても、全てのものにおける神の業と全てのものに対する神の主権により、人間は神の存在、力、そして権威を認識することができ、神の力と権威は人間に神を畏れさせ悪を避けさせるのに十分だということである。ヨブのような普通の人間が、神を畏れ悪を避けることができるのであれば、神に従う普通の人であればだれでも同じことが可能なはずである。これは論理的推論に聞こえるかもしれないが、物事の法則と矛盾しない。それでも事実は予想と一致していない。神を畏れ悪を避けることは、ヨブだけが到達できる領域のように感じられる。「神を畏れ悪を避ける」と聞けば、人々はヨブだけに可能なことであり、あたかも神を畏れ悪を避けることはヨブの名でブランド化されており、他の人には無関係であるかのようである。その理由ははっきりしている。正直で心優しく、正しく、公平と義、善なるものを愛する人格を持っていたのはヨブひとりだけであり、それ故ヨブだけが神を畏れ悪を避ける道を進むことができたのである。この意味をあなたがたは全員理解できたはずだ。つまり、誰も正直で心優しく、正しく、公平、義なるもの、善なるものを愛する人間性を持っておらず、誰も神を畏れ悪を避けることはできず、ゆえに誰も神の喜びとなることはできず、試練の中にあって堅く立っていることができないのである。これはまた、ヨブ以外の全ての人間がサタンに束縛されサタンの罠に陥ったままであり、サタンに非難され、攻撃され、中傷されているということである。サタンはヨブ以外の全ての人間を呑み込もうと試みており自由がなく、サタンの虜となってしまっているということである。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 2」(『言葉』第2巻)より

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