日々の神の御言葉: 神の働きを認識する | 抜粋 218
数千年に渡ってわたしが実行している働きは、終わりの日に完全に人に明らかにされるだけである。今だけ、わたしは、わたしの全計画の神秘の全てを開示した。人はわたしの働きの目的を知っていて、その上、わたしの神秘の全てを理解している。そして、わたしは人に彼らが懸念する目的地についての全てを…
多くの人は、自分がいずれ辿りつく終着点のため、あるいは一時的に楽しみにあずかるために神を信じている。神による取り扱いを経験したことのない者にとって、神を信じることは、天国に行くためであり、また見返りを得るためなのであって、完全にされるためでも、被造物としての本分を尽くすためでもない。つまり、ほとんどの人は、その責任を果たしたり義務を完了したりするために神を信じているのではないのである。実際、意味ある人生を送るために神を信じている人はほんのわずかで、「人は生きている以上、神を愛すべきである。なぜなら、そうすることがごく当然で正しいことであり、またそれが人の天職である」と信じる人もめったにない。このように、人はそれぞれ追い求める目標が違うが、その追求の目的と裏に在る動機はどれも似通っており、しかも、それらの人々は崇拝の対象が大体同じなのである。過去数千年に渡り、多くの信徒が死に、そして多くの信徒が死んで甦った。神を追い求めているのは一人二人というものではなく、いや数千人の単位でさえ足りないが、そのような人々のほとんどは、個人の繁栄や未来の輝かしい希望のために神を求めているのであり、キリストに身を捧げている者はごく少数である。実際、熱心な信徒でさえ、そのほとんどが自らの罠に陥って死に至っており、成功を収めた者の数はさらにほんのわずかである。そして、今日に至るまで、人が失敗してきた原因、あるいは成功できた秘訣は知られていない。キリストを熱心に追い求める人たちでさえ、未だに突然の洞察力を得たわけでもなく、これらの奥義の真相を突き止めたわけでもない。彼らはただ本当に知らないのである。彼らは、涙ぐましい努力をして求めるが、その歩む道は、成功へのそれではなく、既に先駆者が失敗した道なのである。そう考えると、どのように求めたにせよ、それは闇へ向かう道を歩いているということではないだろうか。結局彼らが得るのは苦い果実だけではないのか。過去に成功した者をまねる人が結果的に幸運を得るのかそれとも不運に見舞われるのかということすら予想困難であるのに、過去に失敗してきた人の跡をたどる人の勝算がどれほどあるだろう。失敗する可能性は更に大きいのではないか。彼らの歩む道に何の価値があるというのか。時間の無駄ではないのか。人がその追求に成功しても失敗しても、要するにいずれの結果でもその原因があるのだ。そして成功するか失敗するか、それは思うままに自由に追い求めることでは決まらないのである。
『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」(『言葉』第1巻)より
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数千年に渡ってわたしが実行している働きは、終わりの日に完全に人に明らかにされるだけである。今だけ、わたしは、わたしの全計画の神秘の全てを開示した。人はわたしの働きの目的を知っていて、その上、わたしの神秘の全てを理解している。そして、わたしは人に彼らが懸念する目的地についての全てを…
神はその働きを人間の創造の時からずっと行ってきている。最初、その業はとてもシンプルだった。だがシンプルであったにしても、神の本質や性質はその業に内包されている。今になって、神の仕事が高まり、神は自分に付き従う者に対して膨大な量の具体的な働きを行い、大量の言葉を語った。しかし始めの…
多くの人は、ほんとうにわたしを愛したいと願うが、彼らの心が自分のものではないために、自身を制御できない。多くの人は、わたしの与える試練の中で、ほんとうにわたしを愛している。しかし、わたしが本当に存在することを把握できず、わたしの実在ではなく、単に空虚の中でわたしを愛しているに過ぎ…
イエスの働きは、その時代における人の必要性に応じて行われた。その務めは人間を贖い、その罪を赦すことであるがゆえに、そのすべての性質は謙遜、忍耐、愛、敬虔、寛容、憐れみ、慈しみのどれかであった。イエスは人間を豊かに祝福し、あふれんばかりの恵みと、平和、喜び、イエスの寛容と愛、その憐…