日々の神の御言葉: 神を知る | 抜粋 97
創造主の権威は不変であり、犯すことができない 1. 言葉を用いて万物を創造する神 創世記 1:3-5 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。…
ペテロは、完全にされた人だった。彼は、神の刑罰と裁きを経験し、神への純粋なる愛を持て初めて、完全にされたのである。彼の歩んだ道は、完全にされるための道だったのである。要するに、最初から、ペテロの歩んだ道は正しく、彼が神を信じる動機もまた正しいものであったから、彼は完全にされるような人となったのである。彼は人が歩んだことのない新しい道を歩んだが、パウロが最初から歩んだ道はキリストに逆らうものであり、ただ聖霊がパウロを用い、彼の賜物、彼のあらゆる長所を利用して仕事をしようというだけで、彼はキリストのために何十年も働いたのである。パウロは聖霊に用いられただけで、キリストがパウロを好意的に見たから用いたのではなく、ただその賜物ゆえだったのである。パウロがキリストのために働くことが出来たのも、喜んでそうしたかったからではなく、聖霊に打たれてそうしたのである。彼がそのような働きができたのも、聖霊による導きと啓きによるもので、彼の働きが彼の追求や人間性を表しているのでは決してない。パウロの働きは、しもべのそれ、つまり一人の使徒の働きを表しているのである。しかしペテロはそうではなかった。彼も何かしらの働きをなしたが、パウロの働き程のものではなかった。ペテロは、自分の霊的な成長を追い求める中で働き、そして彼の働きはパウロのそれとは異なるものだった。ペテロの働きは、被造物の本分を尽くしたものである。彼は使徒としての立場で働いたのではなく、神への愛を追い求める過程の中で働いたのである。パウロもまた、働きの過程で個人的な追求が含まれていたが、彼の追求は、彼の将来への希望と良き終着点への願い以外にはなかったのである。パウロは、働きを行う間、精錬を受け入れなかったし、神による刈り込みや取り扱いも認めなかった。彼は自分の働きが神の望みを満たしてさえいれば、そして神に喜ばれることだけをしてさえいれば、最終的に見返りが与えられると信じていた。パウロの働きには個人的な経験は一切なく、働きそのもののためにあり、変化を追い求める中で働いたのではなかった。その働きの全ては取り引きであって、被造物としての本分や神への服従は含まれていなかった。その働きの過程において、パウロの古い性質には何ら変化はなかった。彼の働きは単に他者への奉仕であり、自らの性質を変えることはできなかったのである。パウロは完全にされることも神による取り扱いを受けることもなく、自分の働きを直接行い、見返りを動機として働いたのである。その点ペテロは違った。彼は、神による刈り込みを受け、取り扱われ、精錬された。ペテロの働きの目的と動機は、パウロのそれとは根本的に違っていた。ペテロはそれほどたくさんの働きをなしたわけではないが、彼の性質は多くの変化を経験し、彼が追い求めたものは真理であり、真の変化であった。彼の働きは単に働きそのもののために行われたのではなかった。一方でパウロは多くの働きをなしたが、それらは全て聖霊の働きであって、パウロは協力していたものの、それは彼の経験によるものではなかったのである。ペテロの働きが少ないのは、聖霊が彼の身にそれほど働きを行わなかったということである。その働きの量では、彼らが完全にされたかどうかは決まらない。彼ら二人の内、一人は見返りを得るために追い求めたのに対し、もう一人は、神の究極の愛へ到達し、被造物としての本分を尽くすことを追い求め、神に満足してもらうために愛に満ちた姿を実現することを求めた。彼らは、外見も違えば中身も違うのだから、二人の内のいずれが完全とされたのかを、それぞれの働きの量だけで決めることはできない。ペテロは、神を愛する人の姿を実現してみせること、神に従い、神による刈り込みや取り扱いを受け入れ、そして被造物としてのその本分を尽くす者になることを追求した。彼は自らを神に捧げ、全てを神の手に委ね、そして死ぬまで神に従った。ペテロはこのように決意し、実際その通り成し遂げた。これが、ペテロの最後がパウロのそれと異なる根本的な理由だ。聖霊がペテロに対して行った働きは、彼を完全にするものであり、一方で聖霊がパウロに対して行った働きは彼を利用するためであった。それは、この二人の本性、そして追求に対する考え方が同じではなかったからである。両者とも聖霊の働きを受けたが、ペテロはそれを自分自身に実際に用い、そして他者にも与えた一方で、パウロは、聖霊の働きの全てを他者に与え、自らは一切何かを得ることはなかった。このように、聖霊の働きを長年経験した後、パウロ自身の変化はほとんど無きに等しかった。彼は、自身の自然体を維持し、以前のパウロのままであった。それは単に長年の働きによる試練を乗り越えた後に、働く方法と忍耐力を学んだだけであり、彼の本来の性分、つまり非常に負けず嫌いで、貪欲な本性は、相変わらずそのままであった。そうして長年働いた後、パウロは、自分の堕落した性質も自覚していなければ、以前の古い性質も捨てていなかったため、それらの古い性質が彼の働きにおいても明らかに見て取れた。彼の働きの経験量そのものは多かったが、それでもその経験量では僅かすぎて、彼自身そして彼の追求の存在価値や意義に対する考え方を変えることはできなかったのである。彼は長年キリストのために働き、二度とキリストを迫害することはなかったが、彼の心の中では神に対する認識が変わることはなかった。それはつまり、彼は神に奉仕するために働いていたというより、彼の将来の終着点のためにやむなく働いていたのである。パウロは最初キリストを迫害し、キリストに従わなかった。つまり、本来彼は意図的にキリストに逆らった人間で、聖霊の働きについての知識を何も持っていなかった。パウロはその働きの終りにあっても、まだ聖霊の働きを知らなかったし、聖霊の意思に僅かな注意も払うことなく、元来の自分の性格に沿って単独で行動していただけである。従って、彼の本性は、キリストに敵対するものであり、真理には従わないものである。このように聖霊の働きに見捨てられた者、聖霊の働きを知らなかった者、そしてキリストに敵対した者、そんな人間がどうして救われるというのか。人が救われるか否かというのは、働きの量や献身の度合いによるのではなく、聖霊の働きを認識しているかどうか、真理を実践できるかどうか、そしてその追求に対する考え方が真理と一致しているかどうかで決まるのである。
『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」(『言葉』第1巻)より
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