日々の神の御言葉「精錬を経験することでのみ、人は真の愛をもつことができる」抜粋509

神の精錬が大きいほど、人の心は神をさらに愛することができる。心の苦しみはその人のいのちに有益であり、神の前でより安らぎ、神との関係がより近くなり、神の至高の愛と救いをよりよく理解できる。ペテロは何百回も精錬を経験し、ヨブは数度の試練を受けた。あなたがたが神によって完全にされることを望むのであれば、同じく何百回もの精錬を経験しなければならない。この過程を経てこの段階に頼らなければ、神の旨を満たして神によって完全にされることはできない。精錬は、神が人を完全にする最良の手段である。精錬と厳しい試練だけが人々の心に神に対する真の愛をもたらすのである。苦難がなければ、人々は神に対する真の愛をもたない。試練によって内側から試されず、真に精錬を受けなければ、人々の心は常に外側を漂い続けるだろう。ある程度まで精錬された後、あなたは自分の弱さと困難を理解し、自分に欠けているものがどれほどあって、遭遇する数多くの問題を乗り越えることができないのか、そして自分の不従順がいかに大きなものかを知るようになる。人が自分の実際の状態を真に認識できるのは試練のあいだだけであり、試練こそが人をよりよく完全にできるのである。

 その生涯を通じ、ペテロは数百の精錬を経験し、苦しみに満ちた試練を数多く受けた。この精錬は神に対するペテロの至高の愛の基礎となり、ペテロの一生で最も重要な経験となった。ペテロが神に対する至高の愛をもてたのは、ある意味では、神を愛する決意のためだった。しかし、より重要なのは、それがペテロの経験した精錬と苦しみのためだったことである。この苦しみは神を愛する行路の指針となり、ペテロにとって最も記憶に残るものとなった。神を愛する際に精錬の苦しみを受けなければ、人の愛は不純なものと自分の好みに満ちている。そのような愛はサタンの考えに満ちており、神の旨を満たすことが根本的にできない。神を愛する決意を抱くことは、真に神を愛することと同じではない。人が心の中で考えていることは、どれも神を愛して満足させるためのものであり、人の思考はひたすら神に捧げられ、人間の発想など一切ないように思えるが、その人の思考が神の前に出されたとき、神はそのような思考を賞賛も祝福もしない。人がすべての真理を十分理解し、そのすべてを知るようになったとしても、それは神を愛するしるしだとは言えず、そうした人たちが実際に神を愛しているとも言えない。精錬を経ずして多くの真理を理解したとしても、人はそうした真理を実践することができない。精錬のさなかにおいてのみ、人はこれらの真理の本当の意味を理解し、そうして初めてそれらの内なる意味を真に認識できる。そのとき再び試みれば、真理を適切に、神の旨にかなう形で実践することができる。その際、人々の人間的な考えは少なくなり、人間としての堕落も減り、人間的な感情も減少する。そのとき初めて人々の実践は神に対する愛の真の表明となる。神に対する愛という真理の効果は、認識を話すことや、精神的な意思によって挙がるものではなく、単にその真理を理解することだけで挙がるものでもない。人々は代価を支払い、精錬のさなかに多くの苦痛を受ける必要があり、そうして初めて彼らの愛は純粋になり、神自身の心を求めるようになる。

『言葉は肉において現れる』より引用

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