日々の神の御言葉: 終わりの日における裁き | 抜粋 85
わたしの言葉は厳しいかもしれないが、それはすべて人を救うために語られる。わたしは言葉を語っているだけで、人の肉を罰しているのではない。この言葉により、人は光の中で生きるようになり、光が存在すること、その光は貴重であること、またこの言葉が人にとっていかに有益であるか、そして神は救い…
人々は人生を経験するにつれ、「自分は神のために家族も仕事も諦めた。神はわたしに何を与えてくれただろうか。神に与えられたものを全て計算して確かめてみなければ。最近何か祝福を与えられただろうか。わたしはずっと多くを捧げ、ずっと走り回り、多くの犠牲を払ってきた。神はその報いとして何か約束を下さっただろうか。神はわたしの良い行いを覚えているだろうか。わたしの最後はどうなるだろう。神から祝福を受けるだろうか」。誰もが常に、頻繁にそのようなことを心の中で計算し、彼らの動機付けであり、大志であり、取り引きがかかっている神に要求する。つまり、人間は心の中で常に神を試し、常に神の計画を考え出し、常に神に対して自分を弁護し、神からの言葉を絞り出し、自分の欲しいものを神が与えるかどうかを見ている。神を求める一方で、人は神を神として扱っていない。人間は常に神と取り引きし、絶えず神に要求し、一与えられればその次は十与えられるように神に強要する。神と取り引きすると同時に神に異議を唱え、試練が来ると自分達の身の危険を感じ、気弱になり、すべきことに対して受け身になって怠けるようになり、神に対して不満だらけになる。神を信じ始めた時から、人間は神を豊穣の角やスイス・アーミーナイフのように豊かで万能であり、自分は神にとって最も価値ある者と見なすのである。あたかも神に祝福させて言葉を与えされることが当然の権利であり義務であり、神には自分を守り、労り、施す責任があるかのように。信仰を持つ大半の人々にとって「神を信じる」とは基本的にそのような理解でしかなく、それが神を信じることに対する最も深い考えなのである。人間の本質からその主観的な追求に至るまで、神に対する畏れなど全くない。人が神を信じる目的は神を礼拝することとは何ら関係ないのである。つまり、人は、神への信仰には神に対する畏れと神を礼拝することが必要だとは考えもしないし理解もしないのである。このような状況を考えれば、人間の実体がどのようなものかは明らかである。その本質とは何か。人間の心は邪悪で、不実でずる賢く、公正と義を愛するものでも善を愛するものでもなく、卑劣で貪欲なものである。人間は神に対して完全に心を閉ざしている。神に心を捧げてなどいない。神が人の心を本当に見たことなどなく、人間に礼拝されたことなどない。どれ程大きな犠牲を払っても、どれ程人間に対して働いても、どれ程人間に与えても、人間の目が開かれることはなく、全く無関心である。人間が神に心を明け渡したことなどなく、自分の心を考え、自分で決断するばかりである。これは、人間が神を畏れ悪を避ける道に従うことを望まず、神の主権と采配に従うことを望まず、神を神として礼拝することも望まないということの現れである。それが今日の人間の状態である。
『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 2」(『言葉』第2巻)より
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