日々の神の御言葉: いのちへの入り | 抜粋 380
2021年12月8日
真理を実行に移せる人は、物事を行なうときに神の吟味を受け入れることができます。神の吟味を受け入れるとき、あなたの心は正されます。他人に見てもらうためだけに物事を行ない、神の吟味を受け入れないなら、それでもあなたの心に神はいますか。そのような人には神を畏れる心がありません。いつも自分のために物事を行なったり、絶えず自身の利益を考えたりしてはいけません。自分の地位、体面、評判を考えないこと。また、人の利益を考慮してはいけません。まずは神の家の利益を考慮し、それを最優先にしなければなりません。神の旨を想い、自分が本分を尽くす中で不純だったかどうか、全力で忠誠を尽くし、全力で自分の責任を果たし、自分のすべてを捧げたかどうか、そして自分の本分と神の家の働きを心から考えてきたかどうかを熟慮することから始めなさい。あなたはこれらのことを考えなければなりません。これらのことを頻繁に考えなさい。そうすれば、立派に本分を尽くすのがより簡単になります。素質が劣っていたり、経験が浅かったり、自分の職業に熟練していなかったりした場合、働きの中に誤りや欠陥があったり、結果が思わしくなかったりするかもしれませんが、それでもあなたは全力を尽くしているでしょう。行動において自分の私欲や利益のことを考えず、その代わり神の家の働きを絶えず考慮し、その利益を心に留め、立派に本分を尽くしているとき、あなたは神の前で善行を積み重ねていることになります。そうした善行を行なう人は真理現実を自分のものにしている人たちであり、ゆえに証しをしたのです。いつも肉によって生き、自分の私欲を常に満足させているなら、そのような人は真理現実を自分のものにしていません。それは神の名誉を汚している印です。「わたしは何もしていないのに、どうして神に恥をかかせたのか」とあなたは言います。けれど行動の背後にある思いや考え、意図、目標や動機において、またあなたの行為の結果において、つまりあらゆる点であなたはサタンを満足させ、その笑いものとなり、サタンがあなたの弱みを掴むのを許しているのです。あなたはクリスチャンとして有するべき証しをこれっぽっちも自分のものにしていません。万事において神の名を汚し、真の証しを自分のものにしていません。あなたがしたことを神は覚えているでしょうか。最終的に、神はあなたの行ないや、あなたが尽くした本分からどのような結論を引き出すでしょうか。そこから何かの結果が、何らかの発言が生じるはずではないのですか。聖書の中で主イエスはこう言っています。「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」。主イエスはなぜこう言ったのでしょう。主の名によって病人を癒やし、悪霊を追い出し、教えを説くために旅した人たちが、悪を行なう者となったのはなぜですか。その悪を行なう者とは誰ですか。神を信じない人ですか。彼らはみな神を信じ神に従っています。また神のために物事をあきらめ、自分自身を費やし、本分を尽くしています。しかし、彼らは本分を尽くしながらも忠誠心と証しを欠いていたので、悪を行なうことになってしまったのです。主イエスが「不法を働く者どもよ、行ってしまえ」と言ったのはそのためです。
人の行ないが善か悪かを判断する基準は何ですか。それは、考えや表現や行動において真理を実行に移し、真理の現実を生きる証しを有しているかどうかによります。その現実がなかったり、それを生きていなかったりすれば、あなたは間違いなく悪を行なう者です。神は悪事を行なう人をどのように見ていますか。あなたの考えや外面的行動は神の証しをするものでも、サタンを辱めたり打ち負かしたりするものでもありません。むしろ神を辱めるものであり、神に恥をかかせる印に満ちています。あなたは神への証しをしておらず、神のために自分を費やしておらず、神に対する責任と義務を果たしていません。むしろ自分のために行動しているのです。「自分のために」とは何を示唆していますか。サタンのために、ということです。ゆえに、神は結局「不法を働く者どもよ、行ってしまえ」と言うでしょう。神の目から見ると、あなたは何の善行もしておらず、むしろあなたの振る舞いは邪悪なものに変わってしまったのです。あなたが報われることはなく、神はあなたのことを思い出しません。それはまったく虚しいことではないですか。本分を尽くしている一人ひとりにとって、真理の理解の深さがどれほどであろうと、真理の現実に入ることを望むなら、自分が行なうすべてのことにおいて神の家の益を考え、自分の利己的な欲求、個人的な意図、動機、面子、地位を捨てるのが最も簡単な実践の方法です。神の家の益を第一にしなさい。これが行なうべき最低限のことです。本分を尽くしている人がこの程度のことさえできないのであれば、どうして本分を尽くしていると言えますか。それは本分を尽くしているのではありません。まずは神の家の益を考え、神自身の益を考え、神の働きを考え、それらを第一に、最優先に考えなければなりません。その後で初めて、自分の地位の安定や、他人が自分をどう見るかを考えることができます。このような数段階に分け、妥協をすれば少し簡単になると感じませんか。しばらくそのようにしていたら、神を満足させるのが難しいことではないと感じるようになります。加えて、自分の責任と義務を果たし、本分を尽くし、自分の利己的な欲求や意図や動機を捨て去り、神の旨を考慮し、神と神の家の益を第一にすることができるなら、それをしばらく経験した後、それがよい生き方だと感じるようになります。それは卑劣で役立たずな人間になることなく、正直かつ誠実に生きること、心が狭かったり卑しかったりするよりむしろ、公正かつ高潔に生きることです。人はそのように生きて振る舞うべきだと感じるようになります。自分の益を満足させようとする心の欲求も徐々に小さくなります。
『終わりの日のキリスト講話集』「自由と解放は、堕落した性質を捨てなければ得られない」(『言葉』第3巻)より
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