日々の神の御言葉: 神の性質、および神が所有するものと神そのもの | 抜粋 263
初めて社会科学の考えを持つようになってから、人の精神は科学と知識に占領されてしまった。それからすぐ、科学と知識は人類を支配する道具となり、もはや人が神を礼拝する充分な余地はなくなり、神を礼拝する好ましい条件もなくなった。人の心の中で占める神の位置はどこまでも低められていった。…
あなたは受肉の神を認め、言葉の肉における出現を認めると言うが、神の背後でなんらかの事柄、神の要求に反することを行い、心の中では神を恐れていない。これが神を認めるということか。あなたは神が言うことは認めるが、自分ができることを実行せず、神の道にも従わない。これが神を認めるということか。あなたは神を認めはするが、あなたの考え方は神に対して慎重であるだけでしかなく、畏敬では決してない。あなたが神の働きを見て認め、それが神であることを知っていても、あなたが生ぬるいままで、まったく変化しないのなら、あなたはまだ征服されていない人である。すでに征服された人は、自分ができることをすべてしなければいけない。また、たとえさらに高い真理に入ることができず、そのような真理が自分の手には届かないものであっても、心の中でそこに到達したいと願うのである。人が受け入れられるものに限度があるから、実践できることに束縛や制限があるのである。しかし、少なくともできることはすべてしなければならず、これが達成できるなら、それは征服の働きゆえに成し遂げられた成果である。仮にあなたが、「あの人は人間には語れないほどの多くの言葉を発することができることからして、あの人が神でないのなら、いったい誰が神なのか」と言ったなら、このような考えはあなたが神を認めていることにはならない。もし神を認めるなら、実際の行いでそれを示さなければいけない。たとえば教会の指導者であっても、義を実践せず、金や資産をむやみにほしがり、いつも密かに教会の資金を着服しているなら、これは神が存在することを認めていることになるだろうか。神は全能であり、畏敬の対象であるべき存在である。神が存在することをほんとうに認めているのなら、どうして恐れずにいられようか。そのような卑劣な行為ができるなら、あなたはほんとうに神を認めているのか。あなたが信じているのは神か。あなたが信じているのは漠然とした神である。だから、あなたは恐れないのである。ほんとうに神を認め、知っている人はみな神を恐れ、神に逆らうことや自分の良心に反する行為は何であれ恐れて行うことはできない。彼らは特に神の心意に反すると自分で知っていることを行うことを恐れる。これだけが神の存在を認めていることであるとみなされる。あなたの両親が、あなたが神を信じるのをやめさせようとしたら、あなたはどうすべきか。信仰をもたない夫があなたによくしてくれるとき、あなたはどのように神を愛すべきか。また、兄弟姉妹があなたを嫌悪するとき、どのように神を愛すべきか。もし神を認めるのなら、そのような場合にもあなたは適切に行動し、現実を生きる。もし具体的に行動することができず、神の存在を認めると言うだけなら、口先だけの人間である。神を信じていると言い、神を認めはするが、いったいどのように神を認めるのか。どのように神を信じているのか。神を恐れているのか。神を敬い畏れているのか。心の奥底で神を愛しているのか。苦悩し、頼る者が誰もいないとき、あなたは神を愛すべきだと感じるが、事が過ぎればすっかり忘れてしまう。それは神を愛していることでも、信じていることでもない。究極的に、神は人間が何を成し遂げることを望んでいるのか。自分自身の重要さに感心したり、自分は新しい物事を素早く覚え理解できると感じたり、他人を支配したり、他人を見下したり、人を外見で判断したり、正直な人をいじめたり、教会の金をむやみに欲しがったりするといった状態をわたしは述べてきたが、これらの堕落した性質のすべてがあなたから一部でも取り除かれて初めて、あなたが征服されたことが明らかにされる。
『神の出現と働き』「征服の働きの内幕(4)」(『言葉』第1巻)より
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ペテロは、完全にされた人だった。彼は、神の刑罰と裁きを経験し、神への純粋なる愛を持て初めて、完全にされたのである。彼の歩んだ道は、完全にされるための道だったのである。要するに、最初から、ペテロの歩んだ道は正しく、彼が神を信じる動機もまた正しいものであったから、彼は完全にされるよう…
この段階で受肉した神が困難を経験していようが、職分を果たしていようが、神は受肉の意味を完了するためにそうしているのである。これが神の最後の受肉だからである。神は二回だけ受肉することができる。三度目はありえない。最初の受肉は男性で、二度目は女性であり、そこで神の受肉した姿は人間…
もしあなたが神の新しい光を受け入れることができず、今日神が行うすべてのことを理解できず、それを求めず、さもなければそれを疑ったり、批判したり、あるいはそれを研究したり分析したりするなら、あなたには神に従うこころはない。今ここに神の光が現れる時、もしあなたがまだ昨日の光の方が大切だ…