日々の神の御言葉: いのちへの入り | 抜粋 523

2020年9月27日

ペテロが神により罰せられた時、ペテロは祈って言った。「神よ、わたしの肉は従順ではなく、あなたはわたしを罰し、裁かれます。わたしはあなたの刑罰と裁きを喜び、あなたがわたしを求められなくとも、あなたの裁きの中に、あなたの聖く義なるご性質を見ます。あなたがわたしを裁かれる時、あなたの裁きにおいて他の者があなたの義なるご性質を見ることができるならば、わたしは満足です。その裁きにより、あなたのご性質が示され、あらゆる生き物があなたの義なるご性質を見ることが出来るようになり、あなたに対するわたしの愛が一層けがれなくなり、義なる者の像を得ることができるのであれば、あなたの裁きは良いものです。なぜならそれがあなたの慈悲深い心だからです。自分には未だに反抗的な部分が多く、あなたの御前に来るには不適であることは分かっています。敵対的環境や大いなる苦難により、あなたがわたしを一層裁かれることを望みます。あなたがわたしをどのように裁かれても、わたしにとってそれは貴いものです。あなたの愛は極めて大きく、わたしは一切不平を言わずに自らをあなたの憐れみに委ねることを望みます」。それは、神の業を経験した後におけるペテロの認識であり、神に対するペテロの愛の証しでもある。現在、あなたがたは既に征服されているが、その征服は、あなたがたにどのようにして表されているであろうか。「わたしが征服されたことは、神による至高の恵みであり、賞讃である。人生は空虚であり、何も意味が無いものであることが、今になってやっと分かった。生きることは無意味であるので、死んだ方が良い。人間は人生を多忙にして過ごし、何世代にもわたって子どもを産み育てるが、結局人間には何も残らない。現在、神により征服されて初めて、わたしはこのように生きることが無価値であることを知った。そうした人生は本当に無意味だ。わたしたちは、そのような人生を死んで終わらせた方がよい」と言う者も居る。そうした神により征服された人々は、神のものとされる可能性があるだろうか。そうした者は規範となり得るであろうか。そうした人々は消極性の教訓であり、全く熱意を持たず、向上しようと努力しない。そうした人々は征服された者に含まれるが、完全にされることは不可能である。ペテロは、人生晩期に完全にされた後、「神よ、もしわたしの余命があと数年であるならば、あなたに対する一層清く深い愛を達成することを望みます」と述べた。ペテロは、磔刑にされる直前に、心の中で「神よ、あなたがわたしのために用意された時が、ついに来ました。わたしは、あなたのために十字架に架けられ、この証しに立たねばなりません。わたしの愛があなたの要求を満たし、一層清くなることを望みます。今日、あなたのために死ねること、十字架に架けられることは、わたしにとって安らぎとなり、励みとなります。なぜなら、あなたのために磔刑にされ、あなたの望みを満たし、自らをあなたに捧げ、わたしの命をあなたに捧げることができる以上の喜びは無いからです。神よ、あなたは極めて愛しいお方です。もし、わたしが生きることをあなたが許されるならば、わたしは一層あなたを愛することを望むでしょう。わたしが生きている限り、わたしはあなたを愛すでしょう。わたしは、あなたを一層深く愛することを望みます。あなたはわたしを裁かれ、刑罰を与えられ、わたしを試されました。なぜならわたしが不義であり、罪を犯したからです。そして、あなたの義なるご性質が一層明瞭に理解できるようになります。それはわたしにとって祝福です。なぜなら、わたしはあなたを一層深く愛し、あなたがわたしを愛されなかったとしても、わたしはあなたをこうして愛することを望むからです。わたしはあなたの義なるご性質を見ることを望みます。なぜなら、そうすることにより、わたしは有意義な人生を行動で示すことが出来るようになるからです。わたしの人生は一層有意義であると感じます。なぜなら、わたしがあなたのために十字架に架けられ、あなたのために死ぬことは有意義だからです。しかし、わたしには未だに不満があります。なぜなら、わたしはあなたのことを殆ど知らず、わたしはあなたの望みを完全に満たせず、あなたに殆ど報いなかったからです。わたしは人生においてわたし自身のすべてをあなたに返すことが出来ずに居り、それには遠く及びません。今、振り返ってみると、わたしはあなたに極めて大きな負債があり、自分の過ち全てを正し、わたしの愛であなたに報いるために、わたしにはこの瞬間しかありません」と祈りを捧げた。

『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」(『言葉』第1巻)より

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