日々の神の御言葉: 神の働きを認識する | 抜粋 155
経営の働きは、ひとえに人類のゆえに生じたのであり、そのことは、ひとえに人間の存在のゆえに経営の働きが生じたことを意味している。人類が存在する以前、あるいは天地と万物が創られた始まりの時には、経営はなかった。仮に神の働きのすべてにおいて、人間にとって有益な実践がなかったならば、つま…
多くの人は、ほんとうにわたしを愛したいと願うが、彼らの心が自分のものではないために、自身を制御できない。多くの人は、わたしの与える試練の中で、ほんとうにわたしを愛している。しかし、わたしが本当に存在することを把握できず、わたしの実在ではなく、単に空虚の中でわたしを愛しているに過ぎない。多くの人は、わたしの前に心を差し出した後、もはや顧みない。そして、彼らの心は機会があり次第、サタンに掠め取られる。その後、彼らはわたしを離れる。多くの人は、わたしが言葉を与えるとき、ほんとうにわたしを愛する。しかし、霊でわたしの言葉を愛するのではなく、公共物ででもあるかのように気安く用いて、気が向けばいつでも元の場所に投げ戻すのだ。人間は苦痛の中でわたしを求め、試練の中にあって、わたしを探す。平和の時にはわたしを楽しみ、危険になると、わたしを否定する。忙しい時にはわたしを忘れ、暇な時には、わたしに対しておざなりな態度をとる。しかし、けっして誰も生涯を通じてわたしを愛しはしない。人間がわたしの前で熱心であればいいと思う。わたしに何かよこせとは言わない。ただ、すべての人がわたしを真剣に受け止め、わたしを欺くのではなく、誠意を人間の内に取り戻せるようにしたいのだ。わたしの啓きや照らし、努力はすべての人を貫く。しかし、人間のあらゆる行動の真相が人々を貫き、わたしに対する欺きが貫く。人間には母の胎にいるときから欺きの種が備わっていたものででもあるかのようだ。生まれながら欺きの特別の技術をもっているかのようなのだ。そのうえ、人間はけっしてそのことを漏らさない。誰一人、そうした欺きの技術の源を見通した者はいない。その結果、人間はそれと気付かずに欺きの中で生き、自身を許しているかのようで、それが、自分で意図的にわたしを騙そうとしているのではなく、神の計らいででもあるかのように振る舞う。これこそが、人間がわたしを欺く原因なのではないか。これは人間の狡猾なしわざではないのか。わたしはけっして人間の巧みな言葉に惑わされたことはない。わたしはずっと以前に人間の本質を見抜いていたのだから。人間の血にどれほどの不純物が含まれているか、どれほどサタンの毒がその髄に潜んでいるか、誰が知っているのか。人間は日々にそれに慣れ、サタンのしわざに無感覚になり、「健康的な生き方」を見つけることには何の関心もない。
『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十一章」(『言葉』第1巻)より
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神によって完全にされることは、神の言葉を食べたり飲んだりすることによって完全に達することに、限定されない。このような経験のあり方は、あまりにも一面的で、幅広く多くのものを包含していない。すなわち、人を非常に狭い範囲に閉じ込めるだけである。このような場合、大いに必要とされる心の成長…
神の経営の六千年の働きは、律法の時代、恵みの時代、神の国の時代と3段階に分かれている。これら3段階の働きはすべて人の救いのためである。すなわち、それらはサタンによってひどく堕落していた人類の救いのためである。しかし、それと同時に、神がサタンと戦うためでもある。そのため、救いの働き…
現在、神に用いられることを追求する者も居るが、そうした者は、征服された後に直接用いられることは無い。現在において語られている言葉については、神が人間を用いる時、あなたがそうした言葉を達成することが出来なければ、あなたは完全にされていない。つまり、人間が神に排除されるか、用いられる…