ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識(パート2)

完全にされた人間が到達すべき状況は、そのようなものである。その段階に達することが出来なかったならば、有意義な人生を送ることは出来ない。人間は肉の中に生きるが、それは人間の地獄の中で生きるということであり、神の裁きと刑罰無くして、人間はサタン同様に不浄である。どうして人間が聖いことがあろうか。ペテロは、神の刑罰と裁きは人間の最高の守りであり、最も素晴らしい恵みであると考えていた。人間が目ざめて肉とサタンを憎むことが出来るのは、神の刑罰と裁きによるほか無い。人間は、神の厳しい鍛錬により、サタンの影響から解放され、狭い人間の世界から解放され、神のいる光の中で生きることが出来る。刑罰や裁きよりも優れた救いは無い。ペテロはこう祈った。「神よ、あなたが私を罰し、裁かれる限り、私はあなたが私を見捨てていないことを知るでしょう。あなたが私に喜びや平和を与えられず、私を苦難の中で生活させ、無数の罰を科せられたとしても、あなたが私を見捨てない限り、私の心は安らぐでしょう。現在、あなたの刑罰と裁きは私にとって最高の守りであり、かつ最も素晴らしい祝福となっています。あなたが私に与えられる恵みが、私を守っています。現在あなたが私に与えられる恵みは、あなたの義なるご性質を表すものであり、刑罰と裁きです。さらに、それは試練であり、またそれ以上に、それは苦難の生活です。」ペテロは肉の喜びを捨て去り、一層深い愛と一層強い守りを求めることが出来た。なぜなら、ペテロは神の刑罰と裁きから極めて大きな恵みを得たからである。人の人生において、自身が清められ、性質の変化を実現することを望み、有意義な人生を行動で示し、被造物としての自分の本分を尽くすことを望むのであれば、その人は神の刑罰と裁きを受け容れる必要があり、神の鍛錬と打ちのめしが自分から無くなるのを防ぎ、サタンによる操りと影響から逃れて神の光の中で生きるようにする必要がある。神の刑罰と裁きは光で有り、人間の救いの光であり、人間にとって、それ以上の恵みと守りは無いということを知る必要がある。人間はサタンの影響下で生活し、肉の中に存在する。人間が清められず、神の守りを受けないのであれば、人間は一層堕落するであろう。人間が神を愛する事を望むのであれば、人間は清められ、救われる必要がある。ペテロは祈って言った。「神よ、あなたが私を親切に扱われる時、私は喜び、安らぎを感じます。あなたが私に刑罰を与えられる時、私はそれにも増して喜びと安らぎを感じます。私は弱く、無数の苦難を受け、多くの涙と悲しみがありますが、この悲しみは、私の不従順さと弱さが原因であることを、あなたは知っておられます。私が泣くのは、自分があなたの望みを満たせないからであり、私が悲しみと後悔を感じるのは、自分があなたの条件に満たないからですが、私は進んでその領域に到達しようとし、あなたにご満足いただくために出来ること全て喜んで行います。あなたの刑罰により、私に守りがもたらされ、私に最高の救いが授けられました。あなたの裁きにより、あなたの寛容さが覆い隠されます。あなたの刑罰と裁きが無ければ、私はあなたの憐れみと慈愛を授かることは出来ないでしょう。現在、私はあなたの愛が天やあらゆる物事を超越することを、格段に明瞭に理解しています。あなたの愛は憐れみと慈愛だけではなく、それ以上に、刑罰と裁きです。あなたの刑罰と裁きにより、私は多くの物事を与えられました。あなたの刑罰と裁き無くして、清められる者も、創造主の愛を経験出来る者もひとりとして居ないでしょう。私は数百回の試練と苦難を受け、死に瀕した事さえありましたが、そうした苦難[a]により、私はあなたを真に知り、最高の救いを得ることが出来ました。あなたの刑罰と裁き、そして鍛錬が私から無くなるとしたら、私は闇のサタンの領域で暮らすことになるでしょう。人間の肉には、どのような利益があるでしょうか。あなたの刑罰と裁きが私から無くなるとしたら、それはあなたの御霊が私を見捨て、あなたが私と共に居ないようなものでしょう。そうであるとしたら、どうすれば私は生き続けることが出来ましょうか。あなたが私に病を与えられ、私の自由を奪われても、私は行き続けることが出来ますが、あなたの刑罰や裁きが無くなったならば、私は決して行き続けることが出来ないでしょう。私にあなたの刑罰と裁きが無かったとしたら、私には言葉に出来ないほど深いあなたの愛を、私は失うでしょう。あなたの愛無くして、私はサタンの領域下で生活し、あなたの栄光の御顔を見ることは出来ないでしょう。あなたは、私がどうして生き続けられると言うのでしょうか。そのような闇や生活は、私には耐えられないでしょう。私があなたと共にあることは、あなたに会うことのようですので、どうして私があなたから去ることが出来ましょうか。私はあなたに対し、たとえそれが短い宥めの御言葉であったとしても、私の最大の安らぎを奪わないよう懇願し、希います。私は従前あなたの愛を授かり、今はあなたから離れることが出来ません。あなたは、どうして私があなたを愛せないというのでしょうか。私は、あなたの愛のために、何度も悲しい涙を流しましたが、そうした生活は一層有意義であり、一層私を豊かにし、一層私を変化させ、被造物が持つべき真理を私が一層得られるようにすることが出来ると、常に感じて来ました。

人間はサタンの領域下において全生涯を過ごし、自分でサタンの影響から逃れられる者は、一人も居ない。人間は、全て汚れた世界で、腐敗と空虚の中で、意味や価値が全く無いままに生きる。人間は、肉や欲のため、そしてサタンのために、そうした気楽な生活を送る。そうした人間には、何の存在価値も無い。人間は、自分をサタンの影響から解放する真理を見出すことができない。人間は神を信じ、聖書を読むにもかかわらず、自分をサタンの影響による支配から解放する方法を理解しない。何時の時代も、この秘密を解き明かして触れた者は寡少である。それ故に、人間はサタンや肉を忌み嫌っているが、サタンの罠のような影響から逃れる方法を知らない。現在、あなたがたは依然としてサタンの領域下に居るのではなかろうか。あなたがたは自分の不従順な行為を後悔せず、まして自分が汚れており、反抗的であると感じることは無い。神に反抗した後、あなたがたは安心したり大いに落ち着いたりすることさえある。あなたの落ち着きは、自分が腐敗していることが原因ではなかろうか。こうした安心は、あなたの反抗に由来するのではなかろうか。人間は、人間の地獄の中で生き、サタンの闇の影響下で生きる。地の全域において、幽霊が人間と共に住み、人間の肉を侵している。あなたは、地において美しいパラダイスに住んではいない。あなたが住む場所は悪魔の領域であり、人間の地獄であり、暗黒の陰府である。ある者が清められなければ、その者は不浄である。その者が神により守られ、神の慈しみを受けていないのであれば、その者は依然としてサタンの虜である。その者が裁きや刑罰を受けていないのであれば、その者はサタンによる闇の影響による弾圧を逃れる術は無いであろう。あなたが依然としてサタンの領域下で生活しているということを証明するには、あなたが示す腐敗した性質と、あなたが行動で示した不従順な態度だけで十分である。あなたは、自分の精神や思想が清められておらず、自分の性質が裁きと刑罰を受けていないのであれば、あなたの存在の全てがサタンの領域に支配されており、あなたの精神はサタンに支配され、考えはサタンに操られ、存在全てがサタンの手により支配されている。あなたは、自分がペテロの基準から一体どれほどかけ離れているか知っているであろうか。あなたには器量があるだろうか。あなたは、現在の刑罰と裁きについて、どの程度理解しているだろうか。あなたは、ペテロが知った事柄について、どの程度把握しているだろうか。現在において、あなたが知ることが出来ないのであれば、将来、その認識に達することが出来るであろうか。あなたのように怠惰で臆病な者が神の刑罰と裁きを知ることは、明らかに出来ない。あなたが肉の平和と享楽を追求するのであれば、あなたには清められる術が全く無く、あなたは結局サタンへと戻るであろう。なぜなら、あなたが行動で示しているのは、サタンと肉だからである。物事の現状として、多数の者がいのちを追求していないが、それは、そうした者が清められることにも、一層深いいのちの経験において成長することにも注意していないことを意味する。それでは、そうした者は、どうして完全にされ得るであろうか。いのちを追求しない者には、完全にされる機会が全く無く、神に関する認識や自分の性質の変化を追求しない者は、サタンの闇の影響から逃れられない。宗教のみを信じるものや、礼拝において儀式に従うだけの者と同様に、そうした者は、神に関する自分の認識や、自分の性質の変化への成長に関して真剣に考えていない。これは、時間の無駄ではないだろうか。ある者が、神に対する自分の信仰の中で、いのちに関する問題を真剣に考えず、真理に入ることを求めず、自分の性質の変化を追求せず、ましてや神の業に関する認識など追求しない、というのであれば、その者は完全にされ得ない。あなたは、自分が完全とされることを望むのであれば、神の業の意味を理解する必要がある。特に、神の刑罰と裁きの意味と、それが人間に対して行われる理由を理解する必要がある。あなたは、受け容れることが出来るであろうか。この種の刑罰において、あなたはペテロと同等の経験と認識に達することが出来るだろうか。あなたが、神の認識と聖霊の業に関する認識を追求し、自分の性質の変化を追求するのであれば、あなたには、完全にされる機会がある。完全にされるべき者については、征服される業のこの段階は不可欠である。人間は、征服されて初めて、完全にされる業を経験できる。征服される役割を遂行することに大きな価値は無く、それによって、あなたが神に使われるに相応しいとみなされることは無いであろう。あなたは、福音の伝播において役割を担う手段も無いであろう。なぜなら、あなたは、いのちや、自分の変化や新たにされることを追求しておらず、いのちの実経験が無いからである。この段階的な業において、あなたは奉仕者や引き立て役を担ったことがあるが、最終的にペテロのようになることを追求せず、あなたの追求が、ペテロが完全にされた道に従わないのであれば、必然的に、あなたは自分の性質の変化を経験しないであろう。あなたは、自分が完全にされることを追求する者であるならば、あなたは証しに立ってこう言うであろう。「この神による段階的御業において、私は神の刑罰と裁きの御業を受け容れ、私は大いなる苦難を受けてきたものの、神がどのようにして人間を完全にされるかを知り、神が行われた御業を得て、神の義に関する認識を得て、神の刑罰により救われた。神の義なるご性質が私に臨み、祝福と恵みを与えられ、神の裁きと刑罰が私を守り、清くした。もし私が神による刑罰と裁きを受けておらず、神の辛辣な御言葉が私に臨んでいなかったとしたら、私は神を知らず、救われることが出来なかったであろう。現在、私は被造物として、人間は創造主が造った万物を享受するだけでなく、それ以上に重要なこととして、神のご性質は人間が授かる価値のある物であるので、あらゆる被造物は神の義なる性質を授かり、神の義なる裁きを受ける必要がある、ということを理解している。サタンに腐敗させられた被造物として、人間は神の義なるご性質を授かるべきである。神の義なるご性質には、刑罰と裁きがあるほか、それ以上に大いなる愛がある。現在、私は神の愛を完全に得ることは出来ないが、それを理解する幸運に恵まれており、その点において、私は祝福されている。」これが、完全にされた者の歩んだ道であり、そうした者が語る認識である。そうした者はペテロと同様であり、ペテロと同様の経験がある。そうした者は、いのちを得た者でもあり、真理を備えた者でもある。ある者が、最後まで経験した場合、その者は、神の裁きの時に、必然的に、サタンの影響から自らを完全に退けて、神のものとされるであろう。

そうした者は、征服された後も、明白な証が無い。そうした者は、単にサタンを辱めただけであり、神の言葉の現実を行動で示していない。あなたは、未だに2番目の救いを得て居ない。あなたは、単に罪のいけにえを得たにすぎず、まだ完全にされてはいない。それは何と大きな損失であろうか。あなたがたは、自分が成長すべき事、行動で示すべき事を理解し、それらにおいて成長する必要がある。最終的に、あなたが完全にされることを達成せず、真の人間ではない場合、後悔の念で満たされるであろう。最初に神により造られたアダムとエバは、聖い人間であった。すなわちエデンの園に居た両人は聖く、汚れが無かった。また両人はヤーウェに忠誠であって、ヤーウェを裏切ることを一切知らなかった。なぜなら、両人はサタンの影響による侵害を全く受けず、サタンに毒されておらず、全人類のなかで最も清らかだったからである。両人はエデンの園に住み、一切不浄に汚されることなく、一切肉に囚われることなく、ヤーウェを畏れ敬っていた。その後、両人がサタンに誘惑された時、両人はへびの毒に見舞われ、ヤーウェを裏切ることを望み、サタンの影響下で生きた。当初、両人は聖く、ヤーウェを敬っていた。そうすることが、彼らを人間としていた。その後、両人がサタンに誘惑された時、両人は、善悪を知る木の実を食べて、サタンの影響下で生きた。両人は、サタンにより次第に腐敗させられ、元来の人間像を失っていった。当初、人間にはヤーウェの息吹があり、不従順であることは一切無く、心に邪悪は一切無かった。この時、人間は真に人間であった。人間は、サタンにより腐敗させられた後、獣となった。人間の考えは邪悪と不浄で満たされ、善良さや聖さは無かった。それはサタンではなかろうか。あなたは神の業の多くを経験したが、変化しておらず、清められてもいない。あなたは依然としてサタンの領域で暮らし、神に服従しないままである。それが、既に征服されているが、まだ完全にされていない者である。それでは、そうした者が、まだ完全にされていない者であると言われるのは何故だろうか。それは、その者がいのちも、神の業に関する認識も求めず、肉の享楽や束の間の快楽をむやみに欲するからである。その結果、そうした者のいのちの性質は全く変化せず、神に造られた当時の、人間の元来の姿を取り戻していないからである。そうした者は生ける屍であり、霊のない死者である。霊の問題に関する認識を追求しない者、聖さを追求しない者、真理を行動で示すことを追求しない者、否定的側面で征服される事のみで満足する者、真理を行動で示して聖い者のひとりとなれない者は、皆救われていない者である。なぜなら、人間に真理が無い場合、人間は神の試練の時に揺るぎなく耐えることができないからである。神の試練の時に揺るぎなく耐えられる者のみが、救われた者である。わたしが望むのは、完全にされることを求める、ペテロのような人物である。現在の真理は、真理を待ち望み、求める者に与えられている。この救いは、神により救われることを待ち望む者に与えられており、あなたがたが得るためだけのものではなく、あなたがたが神により得られるようにすることをも目的とするものである。あなたがたは、神があなたがたを得られるようにするため、神を得る。今日、わたしはあなたがたにこの話をし、あなたがたはそれを聞いたので、あなたがたはこの話に従って実践すべきである。最終的に、あなたがたがこの話を実践する時は、わたしがこの話によりあなたがたを得る時である。それと同時に、あなたがたはこの話を得る、すなわち、あなたがたはこの至高の救いを得るであろう。あなたがたが清められた後、あなたがたは真の人間となるであろう。もし、あなたが真理を行動で示す事、あるいは完全にされた者の像を行動で示す事が出来ない場合、あなたは人間ではなく、生ける屍であり、獣であると言えるであろう。なぜなら、あなたには真理が無く、つまりあなたにはヤーウェの息吹が無く、したがってあなたは霊の無い死者だからである。征服された後に証しに立つことは可能であるが、あなたが得るのは多少の救いであり、あなたは霊を備えた生き物となってはいない。あなたは刑罰と裁きを経験したが、その結果自分の性質が刷新されることも変化することも無いままである。あなたは依然として従来の自分自身のままであり、サタンに属しており、清められた者ではない。完全にされた者のみに価値があり、そうした者のみが真の人生を得ている。いつの日か、誰かがあなたにこう言うであろう。「あなたは神の御業を経験したのだから、神の御業はどのようなものか、少し話をして欲しい。ダビデは神の御業を経験し、ヤーウェの御業を目の当たりにし、モーセもまたヤーウェの御業を目の当たりにしたので、両者ともヤーウェの御業を説明し、その奇しさについて話をすることが出来た。あなたがたは肉にある神の御業を目の当たりにした。あなたがたは神の知恵について話が出来るだろうか。神の御業の奇しさについて話ができるだろうか。神はあなたがたに何を要求され、あなたがたはそれをどのように経験しただろうか。あなたがたは終わりの日における神の御業を経験した。あなたがたが見たもののうち、最も素晴らしいビジョンは何であろうか。そのことについて話せるであろうか。神の義なるご性質について話せるであろうか。」あなたは、このように質問された時、どう答えるであろうか。あなたが「神は義であり、人間に刑罰と裁きを与えられ、人間を容赦なく暴露される。神のご性質は、人間による侵害を決して容赦しない。神の御業を経験した後、私は人間の獣のような側面を知り、神の義なるご性質を真に目の当たりにした。」と答えられるのであれば、その者は続けて「それ以外に、あなたが神に関して知っていることはあるだろうか。人間は、どのようにして、いのちの成長を得るだろうか。あなたには、個人的な熱意があるだろうか。」と尋ねるであろう。あなたは「サタンに腐敗させられた後、被造物は獣となって、ロバ同然であった。現在、私は神の御手の中で生活しているので、創造主の心を満たし、創造主の教え全てに従う必要がある。私は、そうするほか無い。」と答えるであろう。あなたがそのような全般的な話だけをするならば、その者はあなたの話を理解しないであろう。そうした者が、あなたには神の業に関してどのような認識があるか、と訪ねた時、そうした者はあなた自身の経験のことを言っている。そうした者は、あなたには神の刑罰や裁きを経験した後、その刑罰や裁きについてどのような認識があるか、と尋ねているのであり、それはあなた自身の経験のことを言っているのであり、真理に関するあなたの認識について話をするよう求めている。あなたが、そうした物事について話せなかったならば、それはあなたが、現在の業について何も知らないことを示す。あなたは常に、もっともらしい話、あるいは一般に知られている話をする。あなたには具体的な経験が一切無く、いわんや自分の認識に本質があることは一切無く、真の証しも一切無いので、他の者はあなたに説得されない。受動的に神に付き従う者となってはならず、好奇心をそそる物事を追求してはならない。あなたは冷たくも熱くもないので、あなたは自分を喪失し、人生に遅れを生じさせるだろう。あなたは、真理を得て、それを行動で示すことができるように、自分の受動性と不活性を排除し、肯定的な物事の追求と自分の弱みを乗り越えることに熟達する必要がある。あなたの弱みについて、恐れることは一切無く、あなたの欠点は最大の問題では無い。あなたの最大の問題であり、最大の欠点であるのは、冷たくも熱くもなく、真理を追求する望みが欠如していることである。あなたがた全員の最大の問題は、臆病な精神により物事の現状に満足し、受動的に待っていることである。それがあなたがたにとって最大の障害であり、あなたがたが真理を追求する際における最強の敵である。あなたが単にわたしの話が極めて重大であるために従うのであれば、あなたは真に認識を備えておらず、真理を大切にしていない。あなたの従順さのような従順さは、証しとみなされず、わたしはそうした従順さを認めない。誰かがあなたに「あなたの神は、正確に言うとどこから来るのだろうか。あなたの神の本質は何であろうか。」と尋ねるかも知れない。あなたは「神の本質は、刑罰と裁きである」と答えるであろう。「神は人間に対して思いやりがあり、愛情があるのではなかろうか。あなたは、それについて知っているであろうか。」あなたは「それは他の者の神である。それは宗教の人々が信じている神であって、私達の神ではない。」と言うであろう。あなたのような人々が福音を広める時、真の道はあなたによって歪められる。それならば、あなたは何の役にたつというのか。どうして他の者があなたから真の道を得ることが出来ようか。あなたに真理は無く、真理について一切話が出来ず、あまつさえ真理を行動で示すことも出来ない。どうしてあなたに神の前で生きる資格があろうか。あなたが他人に福音を広め、真理について話し、神の証しに立つ時、あなたが他人を説得出来なければ、他人があなたの話を論駁するであろう。あなたは場所を無駄にしているのではなかろうか。あなたは神の業を極めて多く経験してきたが、真理について話をすると、意味不明である。あなたは全くの役立たずではなかろうか。あなたは、何の役に立つというのか。あなたがたは、神の業の多くを経験しながら、よくもまだ神に関して全く認識が無いままでいられるものだ。神に関するあなたの真の認識を他人に尋ねられると、あなたは絶句するか、あるいは神には大いなる力がある、あなたが授かった祝福は真に神により引き上げられることである、自分で神を見ることが出来ること以上の特権は無いなど、無関係な事を答える。そうした事を述べる事に、何の価値があるであろうか。それは無用の空虚な言葉である。神の業を極めて多く経験してきたにもかかわらず、あなたが知っているのは、神に引き上げられることが真理であることだけだというのか。あなたは、神の業を知る必要があり、そうして初めて本当に神の証しに立てるようになるであろう。真理を得ていない者が、どうして神の証しに立てようか。

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