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終わりの日のキリストの語られる言葉(選集)朗読

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終わりの日のキリストの語られる言葉(選集)朗読

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言葉は肉において現れる(続編)朗読

はじめイエスがまだ正式にその職分に取り掛かっていない頃、イエスに従った弟子達のように、イエスもまた神殿での集会に参加し、讃美歌を歌い、神を褒めたたえ、旧約聖書を読んでいた。イエスがバプテスマを受け水から上がった時に、神の霊が正式にイエスに降りてきて働きを始め、イエスの身分と果たされるべき任務を明らかにした。それまでは誰もイエスの身分を知らず、知っていたのはマリアだけで、ヨハネでさえ知らなかった。イエスがバプテスマを受けたのは二十九歳の時であった。バプテスマを受けると天が開け、次のような声が聞こえた。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」イエスがバプテスマを受けた後、聖霊がこのようにイエスに対する証しを始めた。二十九歳でバプテスマを受ける前のイエスは、普通の人としての生活を送り、食べる時に食べ、普通の人と同じように寝起きし、服を着、他の人達と違う点は何もなかった。もちろんこれは、人間の目にはそのように見えたということである。イエスも時には弱くなることもあれば、物事を見極められないこともあった。聖書にも、「成長するにつれてその知恵も増した。」と書かれている通りである。この言葉は、単にイエスがごく普通の人としての性質を持っていて、他の人々と特に違うところはなかったことを示している。イエスは、普通の人として成長し、特別な事はなかったということである。しかしイエスは神の慈愛と守りの中にあった。イエスはバプテスマを受けた後に試みを受けはじめ、そしてその後自らの任務をはたすために働き、力、知恵、そして権威を持つようになった。これは、聖霊がイエスの中で働かなかったという意味でもなく、バプテスマ以前にはイエスの中に聖霊がいなかったという意味でもない。バプテスマ以前も、聖霊はイエスの中にあったが、その働きを正式に始めてはいなかった。と言うのは、神が働く「時」には制限があり、普通の人は普通の成長過程を経験しなければならないからである。聖霊は常にイエスの内にあった。イエスが誕生した時の状況は他の人間の誕生とは違っており、明けの明星が現れた。またイエス誕生の前には、ヨセフの夢の中に天使が現れ、マリアが男の子を産むこと、そしてその子を聖霊によって身ごもることを告げた。イエスがバプテスマを受けて後、つまり聖霊が公に働きを始めて後すぐに聖霊がイエスの上に臨んだわけではなかった。聖霊がイエスの上に鳩のように降ったという言葉は、イエスの公生涯が正式に始まったことを意味している。神の霊は以前からイエスの中にあったが、ただその時が来ていなかったためにイエスは働きを始めてはおらず、また霊もすぐに仕事を始めはしなかった。霊はバプテスマを通してイエスに証ししたのである。イエスが水から上がったとき、霊がイエスの中で正式にその働きを始めた。それは受肉した神がその職分を開始したことを意味し、贖いの働きを始めたことを意味する。これが恵みの時代の幕開けである。だから神の働きには、どのようなものであっても適切な時があるのである。バプテスマの後、イエスに特に変化は見られず、イエスは元の肉体のままであった。ただイエスがその働きを開始し、その身分を明らかにし、権威と力に満ちていたということである。その意味ではイエスは以前とは違っていた。イエスの身分が変わり、つまり地位に関しては相当な変化があった。これは聖霊の証によるものであり、人によって行われた働きではなかった。最初人はそのことは知らず、聖霊がイエスを証しするようになってから少しずつ知るようになった。仮にイエスが聖霊によって証しとされる前に大いなる働きを実践していたとしても、それが神自身の証しを持たないものであったなら、どんなにイエスの働きが素晴らしいものであっても、それは人の眼では見ることができないために、人々がイエスの身分を知ることは決してなかっただろう。聖霊の証しを受けるという段階がなければ、イエスを見て受肉した神だと気づく人はいなかったろうということだ。もしイエスが、聖霊の証しを受けた後に、変化のないまま以前と同じように働いていたなら、その働きの効果は発揮できなかっただろう。ここにも聖霊の働きが主に表現されている。聖霊が証しした後に、聖霊が自身を現し、そうすることであなたはイエスが神であり、イエスのうちには神の霊が宿っていること、神の証しは間違っていなかったことをはっきりと見ることができるようになる。またこれで聖霊の証しが正しかったと証明することができた。もし証しを受ける前と後とで働きに変化がなかったならば、神が受肉したときの職分も、聖霊の働きも強調されず、特に違いが認められないため人が聖霊の働きを知ることができなかっただろう。イエスを証しした後、聖霊はその証しを維持しなければならず、イエスの内に以前には見られなかった知恵と権威を示さなければならなかった。もちろん、これはバプテスマによる効果ではなかった。バプテスマは単なる儀式であって、それによってイエスがその任務を開始する時を示したにすぎなかった。そのような働きは、神の偉大なる力を明らかにし、聖霊の証しを明らかにするためのもので、聖霊が最後までこの証しに対しては責任を持つ。自身の任務を開始する前は、イエスもまた様々な場所で説教を聴き、自ら教えを説き、福音を宣べ伝えていた。イエスはひとつも偉大な働きをしなかった。それはまだ自身の働きをする時が来ていなかったためと、神自身がへりくだって肉の身体の中に隠れており、その時が来るまで何の働きもしなかったからである。イエスがバプテスマ以前にはその働きを開始していなかった理由は二つある。一つは、聖霊がまだ正式にイエスの上に降りてきていなかったためで、(それはつまり聖霊がそのような働きを可能にする力と権威をイエスに授けていなかったということである)たとえイエスが自身の身分を知っていたとしても、後にイエスが行う働きをする能力はなかっただろうから、バプテスマの時まで待たなければならなかった。これは、神の時であり、何人たりと、例えイエス自身であっても、それに反することはできず、イエスが自身の仕事を妨げることもなかった。もちろんこれは、神がへりくだっていたからであり、また同時にこれが神の働きの法則だったからだ。神の霊が働かなければ、イエスの働きは誰にも実行できなかったのだ。二つ目は、イエスはバプテスマを受ける前は、いたって普通で標準的な人であり、その他の普通で標準的な人達と何ら変わるところがなかったが、この点は受肉した神が超自然的ではなかった一面である。受肉した神は、神の霊の采配には背かなかった。整然と、普通にこなした。イエスの働きに権威と力が備わったのは、バプテスマを受けた後のことだ。つまり、イエスは受肉した神でありながら、特に超自然的なことをすることもなく、他の標準的な人達と同じ様に育ったのである。もしイエスが最初から自分の身分を知っており、バプテスマを受ける前に各地で大きな働きを行い、普通の人たちとは異なっており、自身が非凡であると示していたなら、ヨハネがその働きをすることが不可能であっただけでなく、神がその働きの次の段階を開始することもなかったのである。となれば、神の行動に間違いが起きたことの証明になってしまい、人の目には神の霊と受肉した神は同じ源から出ていないと映っただろう。それだから聖書に記されているイエスの働きは、全てイエスがバプテスマを受けた後の三年間の働きなのだ。イエスがバプテスマ以前には働きをしなかったため、聖書にはバプテスマ以前のイエスの働きの記録がない。イエスは単に一人の普通の人で、一人の普通の人を表していた。イエスが自身の職分を遂行する前は、他の平凡な人々と何ら変わらず、人々もイエスに違いを見ることはなかった。イエスは、二十九歳になった時初めて、自分が神の仕事の一段階を達成するために来たということを知った。それまでは、神の行った働きが超自然的ではなかったために、イエス自身もそのことを知らなかったのである。十二歳の時、イエスが礼拝堂での集会に参加していると、母親のマリアがイエスを探しに来た。そのときイエスは、他の子供と同じ様な言い方で、母親のマリアに向かってただ一言こう言った。「わたしが父のみ心を何よりも最優先にしなければならないことを知らないのですか」と。もちろんイエスは聖霊によって生まれたのだから、イエスには何か特別なものがあったのではないか。特別だったと言っても、それはイエスが超自然的だということではなく、イエスが他の幼い子供達より神への愛が深かったというだけのことである。外から見れば彼は人であったけれども、本質はやはり特別であり他の人とは違っていた。だが聖霊がイエスの中に働き、イエス自身が神であることを実感したのはバプテスマの後からである。三十三歳のとき初めて、イエスは本当に聖霊がイエスによって十字架の苦難を実行しようとしていることを知った。三十二歳のときに、イエスは多少の内情を知るようになった。それはマタイによる福音書に、「シモン・ペテロが答えて言った、『あなたこそ、生ける神の子キリストです』。…この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。」と書かれてある通りである。イエスが自分のすべき事をあらかじめ知っていたわけではなく、特定の時に知った。イエスが生まれてすぐ完全に知っていたわけではない。聖霊がイエスの中で少しずつ働いたのであり、イエスが働くための過程があった。もし最初から、イエス自身が神であり、キリストであると知っており、受肉した人の子であり、そして十字架での死を全うしなければならないことを知っていたなら、どうしてその前に働かなかったのだろうか。なぜイエスは、弟子たちに自分の果たすべき役割を伝えた後に初めて悲しみ、十字架のために熱心に祈ったのか。なぜヨハネは、イエスが知らなかった多くのことを理解するようになる前に、バプテスマを授け道を開いたのか。このことが証明しているのは、これらは全て受肉した神の働きであり、イエスが理解して達成するためには、一定の過程が必要だったということである。なぜなら、イエスは受肉した神であり、その働きは霊が直接働くのとは違ったからである。

神の働きの段階は全て一つの同じ流れに沿っている。よって神の六千年に渡る経営計画の中では、この世の始まりから今日まで、各段階がその後の段階と密接に繋がっている。もし誰も前もって道を整えるものがいなければ、その道をたどる者もいない。道を辿って来た者がいるからこそ、先にその道を整える者がいるのである。このようにして、働きが一歩ずつ引き継がれてきたのである。一つの段階が次の段階へと繋がっており、道を切り開く者がいなければ働きを始めることもできず、神がその働きを前進させることもできなくなってしまう。どの段階の働きも他の段階の働きと矛盾することがなく、全ての段階が順に続いて一つの流れを作っているのである。これも全て同じ霊によるものである。但し、道を切り開く者であれ、他の者の働きを継ぐ者であれ、その者の身分を決めることはできない。そうではないか。ヨハネが道を開き、イエスがその働きを引き継いだが、これはイエスの身分がヨハネの身分より低いということだろうか。イエスの前にヤーウェの働きが在ったが、だからといってヤーウェがイエスより偉大であると言えるだろうか。道を整えた者か仕事を継続した者かは重要ではない。最も重要なのは働きそのものであり、その働きが表す身分である。そうではないか。人々の間で働きをされようとした神は、道を整える働きができる者たちを起こす必要があったのだ。ヨハネが教えを説き始めたばかりのとき、彼はこう言っている。「主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ。悔い改めよ、天国は近づいた」と。ヨハネは最初からこのように語っているが、なぜ彼はこれらのことを語ることができたのか。この言葉が語られた順序を見ると、ヨハネが最初に天国の福音を宣べ、その後でイエスが語っている。人の観念からすると、ヨハネが道を切り開いたのだから当然ヨハネがイエスより偉大であるとなる。だがヨハネは自分がキリストだと言ってはおらず、神も、ヨハネを愛する神の子として証しはせず、ただ彼を用いて道を開き主の道を備えただけである。ヨハネはイエスのために道を整えたが、イエスの代わりに働くことはなかった。人の働きもまた全て、聖霊によってなされていたのである。

旧約の時代には、ヤーウェが道を導いた。そしてヤーウェの働きは、旧約時代全体、そしてイスラエルでの働き全てを表していた。モーセは、単に地上における働きを維持していただけで、彼の働きは人側から提供された協力として捉えられる。当時は、ヤーウェが話してモーセを召し、イスラエルの民の中でモーセを立て、イスラエルの民を荒野へ連れて行きそしてカナンの地へ導くようにさせたのである。これはモーセ自身から出た働きではなく、ヤーウェにより直接導かれたものであるから、モーセが神と呼ばれることはない。モーセもまた律法を定めたが、この律法はヤーウェが直接発したのであり、モーセを通して語られたのである。イエスも戒めを定め、旧約の律法を廃棄して新しい時代の戒めを定めている。なぜイエスが神自身なのか。それは、ふたつの状況が同じものではないからである。当時、モーセが行った働きは時代を表すものではなく、新しい道を切り開くものでもなかった。モーセは、ヤーウェによって指示されており、神に用いられた一人にすぎなかったのである。イエスが来た時、ヨハネは既に道を整える段階の働きを開始しており、天国の福音を宣べ伝え始めていた(聖霊がそれを開始した)。イエスが現れたとき、イエスは直接自身の働きをしたが、その働きは、モーセの言葉や働きとは大きく違っていた。イザヤも多くの預言を語ったが、なぜイザヤも神自身ではなかったのか。イエスは預言を多くは語らなかったのに、イエスが神自身であったのはなぜか。イエスが当時行った働きを全て聖霊の働きによるものだとか、全て人の意思から出たものだとか、あるいは全て神自身の働きであると敢えて言う人はいない。人には、それを分析する手段がないからだ。イザヤがこのような働きをしたとか、このような預言を語り、全て聖霊から出ていたとは言うことはできる。だがそれらは全てイザヤから直接出たものではなく、ヤーウェによる啓示だったのだ。イエスは多くの働きはせず、多くは語らず、いくつも預言を語ったわけではない。イエスの教えは人には特に高尚なものとは思えなかったが、やはりイエスは神自身であり、このことは到底人には説明がつかないものである。誰もいまだかつてヨハネやイザヤやダビデを信仰し、彼らを神と呼んだり、ダビデ神やヨハネ神と彼らを神と呼んだりする人はいなかった。そのように呼ぶ人はなく、イエスだけがキリストと呼ばれたのである。これは、神の証し、イエスの担った働き、そしてイエスが果たした任務によって区別された。聖書の中の偉大な人たち、つまりアブラハム、ダビデ、ヨシュア、ダニエル、イザヤ、ヨハネそしてイエスをその働きを通して見るとき、誰が神自身であり、どのような人たちが預言者で、使徒は誰かを見分けることができる。誰が神に用いられた者で、誰が神自身であるかは、その人の働きの種類と中身で区別され判断されるべきである。もしあなたが違いが分からないのであれば、それはあなたが神を信じるとはどういうことかを知らないという証明である。イエスが神であるのは、イエスが多くの言葉を語り、多くの働きをし、特に多くの奇跡を見せてきたからだ。同じ様にヨハネも多くの事を語り多くの働きをし、モーセも同様であった。なぜ彼らは神とは呼ばれなかったのだろうか。アダムは直接に神によって作られたが、なぜ神と呼ばれず、被造物とだけ呼ばれたのか。もし誰かがあなたに、「今日神は多くの仕事をされ、多くを語られた。このお方は神ご自身である。だとすれば、モーセも同じように多くの事を語ったのだから、モーセも神ご自身にちがいない」と言うならば、あなたは、次のように尋ねるべきだ。「当時、神はなぜ、ヨハネではなく、イエスを神ご自身であると証しされたのか。ヨハネはイエスよりも前に現れたではないか。ヨハネとイエスと、どちらの働きの方がより大きかったのか。人の目にはイエスよりもヨハネの方が偉大に映るが、なぜ聖霊はイエスに対して証しし、ヨハネにはそうしなかったのか」と。これと同じことが現在でも起きている。はじめにモーセがイスラエルの民を導き出した時、ヤーウェは雲の間からモーセに語りかけた。モーセは直接話していたわけではなく、ヤーウェによって直接指示を受けていた。これが旧約聖書の中のイスラエルでの働きである。モーセの内には、聖霊も神の存在もなかった。モーセはその働きをすることはできなかったので、それがモーセによってなされたのか、イエスによってなされたのかには大きな違いがある。それは、モーセの働きとイエスの働きが違っていたからである。ある人が、神に用いられる者か、預言者か、使徒かあるいは神自身かは、その働きの性質によって区別できるもので、それが分かればあなたの疑問は解消されるはずだ。聖書には、小羊だけが七つの封印を解くことができると書いてある。世々代々、聖句を解説する者がそれらの偉大な人物たちの間に多くいたが、その人たちがみな小羊だと言えるのか。その人たちの解説がすべて神から出たものだと言えるのか。彼らは単なる解説者であり、小羊の身分を持っているわけではない。どうして彼らに七つの封印を解く価値があると言えようか。「小羊だけが封印を解くことができる」のは確かであるが、彼は封印を解くためだけに来るのではない。つまり封印を解く仕事は不可欠ではなく、偶発的に起こるのである。神の働きに関しては、神自身がよく知っている。多くの時間を費やして聖書の解釈をする必要があるだろうか。六千年の働きの中に、「聖書を解釈する子羊の時代」が加えられなければならないのか。神は新しい働きを行うために来るが、これまでの六千年の働きの真理を解ってもらうために過去の働きに関する啓示もする。それほど多くの聖句を解説する必要はない。今日の働きの方がカギであり重要である。神は特に七つの封印を解くために来るのではなく、救いの働きをするために来ることをあなたは知っておくべきである。

あなたは、世の終りにイエスが降りてくることだけは知っているが、正確にはどのように降りて来るのだろうか。あなたのように、罪を持った人間が罪から贖われたばかりで、変えられておらず、また神に完全にされたこともない状態で、神の心に沿うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪ある人とは見なされなくなったが、あなたが罪人ではないとか、汚れがないとかいうことではない。あなたが変えられないままであれば、どうやって聖人のようになれるというのか。内側では、あなたは不道徳、身勝手さと悪意に悩まされているにもかかわらず、イエスと共に降ることを望むというのは、よほどの運がなければいけない。あなたは、神を信じる上での必要な段階を一つ見落としている。あなたは、単に罪から救われただけで中身は変えられていないのである。あなたが神の心に沿うためには、神が直接あなたを変える働きをし、あなたを清めなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、高潔さを手に入れることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという肝心の段階を経験していないがために、神の良き祝福を共有する資格がないのである。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の財産を受け継ぐことはできないのである。

この働きの新しい段階が始まらなければ、あなた方のような伝道者、説教者、聖書の解説者、あるいはいわゆる霊的な偉人はどこまで行ってしまうだろうか。この働きの新しい段階が始まらなければ、あなた方が語るものは、時代遅れの古いものではないか。それは、王座に登ること、あるいは王になるために心的成長を準備することであり、自己を否定することかそれとも自分の肉体を屈服させることであり、忍耐することかそれとも全ての事から学ぶことであり、へりくだることかそれとも愛することなのである。これは同じ古い歌を歌っているだけではないのか。同じ内容を名前を変えて呼んでいるだけではないか。頭を覆ってパンを裂くか、手を置いて祈るか、病気の者を治して悪霊を追い出すか。何か新しい働きはあるだろうか。発展する見込みはあるだろうか。あなた方がこのように導いていくのであれば、あなた方は教理に盲目的に従うか、あるいは型にはまったやり方に縛られることになる。あなた方は、自分の働きがそれほど高尚であると信じるのに、それは全て大昔の「古き人たち」が残した教訓、また教えであるということを知らないのか。あなた方が言うこととしていることは、その昔の人たちが残した遺言ではないのか。昔の人たちの生前の命令ではないのか。あなた方は、自分の行動が、歴代の使徒や預言者のそれを超え、さらには宇宙万物を超えるとでも考えているのか。この段階の働きの始まりは、王になって王座へと昇ることを追求したウィットネス・リーの働きへのあこがれに終止符を打たせ、あなた方がこの時代の働きに手だしできないように、あなた方の傲慢さと大言壮語も阻止したのである。この段階の働きがなければ、あなた方は果てしなく深く、救済不可能なところへと沈んでいくだろう。あなた方の中には本当に古い物が多過ぎる。幸いなことに、今日の働きがあなた方を引き戻してくれた。そうでなければ、あなた方の行く末は知れたものではない。神は常に新しく、古くなりえない神であるのに、あなたはなぜ新しい物を求めないのか。なぜ古いものに固執するのか。つまりは、現在の聖霊の働きを知ることが最も重要だ、ということなのである。

終わりの日のキリストの語られる言葉(選集)朗読

神の現れによる新時代の到来 神は人のいのちの源である 神の裁きと刑罰に神の出現を見る 神の経営の中でだけ人は救われる 七つの雷が轟く -- 神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言 救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である キリストに味方しない者は確実に神の敵だ 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない キリストと融和する道を探せ あなたは本当に神を信じているのか キリストは、真理を以て裁きの働きを行う 神が人々の間で偉大な業を成し遂げたことを知っているか 終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる あなたは誰に忠実か 三つの忠告 神の性質を理解することの並ならぬ重要性 神は全人類の運命を支配する 全能者のため息 信者はどんな見解を持つべきか 堕落した人間は神を体現することができない 宗教奉仕を取り締まるべきである 神を信じているなら神に従うべきだ 完全にされた人々への約束 悪人は罰せられなければならない 現実をどのように知るか 神の心にかなう奉仕とは 千年神の国は訪れた 実践的な神は神自身であることを知るべきである 今日の神の働きを知るということ 神の働きは人間が想像するほど簡単か あなたは神を信じているので真理のために生きるべきである 肉となった神と神に使われる人々との間の本質的違い 神の信仰は宗教的儀式でなく現実に焦点を合わせるべきである 今日の神の働きを知る人々のみ神に仕えることができる 神の国の時代は言葉の時代(前半) 神の国の時代は言葉の時代(後半) すべてが神の言葉によって達成される(前半) すべてが神の言葉によって達成される(後半) 神を愛することだけが本当に神を信じることである  (前半) 神を愛することだけが本当に神を信じることである  (後半) 「千年神の国は訪れた」についての短い話 神を知る者だけが、神の証人となることができる ペテロはどのようにイエスを知るようになったか 神を愛する者たちは永遠に神の光の中に生きる あなたは生かされたか 性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである 二度の受肉が受肉の意義を完成させる 三位一体は存在するのか(前半) 三位一体は存在するのか(後半) ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識(パート1) ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識(パート2) ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識(パート3) 将来の使命にどのように取り組むべきか 神について何を理解しているのか 本物の人とは何を意味するか あなたは信仰について何を知っているか 肉なる者は誰も怒りの日を逃れることはできない 福音を広める働きは、人を救う働きでもある 律法の時代における働き 贖いの時代における働きについての真実 あなたは人間全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである (前半) あなたは人間全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである (後半) 呼び名と身分について(前半) 呼び名と身分について(後半) 自己の観念で神を規定している人がどうして神の啓示を受けることができるだろうか 神とその働きを知る者だけが神の心にかなう 受肉した神の職分と人間の本分の違い( 前半) 受肉した神の職分と人間の本分の違い ( 後半) 神はすべての被造物の主である 神の働きと人の働き(前半) 神の働きと人の働き (後半) 神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である(前半) 神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である(後半) 堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている (パート1) 堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている (パート2) 堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている(パート3) 神の宿る肉の本質 (前半) 神の宿る肉の本質 (後半) 神の業と人間の実践(前半) 神の業と人間の実践(後半) キリストの本質は父なる神の心に従うことである 人の普通の生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く (前半) 人の普通の生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く (後半) 神と人は共に安息に入る(パート1) 神と人は共に安息に入る(パート2) 神と人は共に安息に入る(パート3) 祈りの実践について 新時代の戒め 「受肉の奥義」についての神の言葉四節からの抜粋 (パート1) 「受肉の奥義」についての神の言葉四節からの抜粋(パート2) 「受肉の奥義」についての神の言葉四節からの抜粋(パート3) 「受肉の奥義」についての神の言葉四節からの抜粋(パート4) 「聖書について」に関する神の言葉四節からの抜粋( パート1) 「聖書について」に関する神の言葉四節からの抜粋 パート2 「征服の働きの内なる真実」についての神の言葉四節からの抜粋(パート1) 「征服の働きの内なる真実」についての神の言葉四節からの抜粋(パート2) 「働きと入ること」についての神の言葉十節からの抜粋( パート1) 「働きと入ること」についての神の言葉十節からの抜粋 (パート2) 「働きと入ること」についての神の言葉十節からの抜粋(パート3) 「働きと入ること」についての神の言葉十節からの抜粋(パート4) 神の国の時代に神に選ばれし人々が従わなければならない行政命令10項目 「神の働きのビジョン」についての神の言葉三節からの抜粋 パート1 「神の働きのビジョン」についての神の言葉三節からの抜粋 (パート2) 「神の働きのビジョン」についての神の言葉三節からの抜粋( パート3) 四番目の言葉 五番目の言葉 六番目の言葉 七番目の言葉 八番目の言葉 九番目の言葉 十番目の言葉 十一番目の言葉 十二番目の言葉 十三番目の言葉 十四番目の言葉 十五番目の言葉 十六番目の言葉 十七番目の言葉 十八番目の言葉 十九番目の言葉 二十番目の言葉 二十一番目の言葉 二十二番目の言葉 二十三番目の言葉 二十四番目の言葉 二十五番目の言葉 二十六番目の言葉 二十八番目の言葉 二十九番目の言葉 成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている (後半) 成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている(前半) 地上の神をどのように知るか 神の働きを経験する者のみが真に神を信じる 完全にされた者だけが意義ある人生を送ることができる 二十七番目の言葉

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