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終わりの日のキリストの語られる言葉(選集)朗読

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終わりの日のキリストの語られる言葉(選集)朗読

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言葉は肉において現れる(続編)朗読

一旦サタンが打ち負かされると、すなわち、一旦人が完全に征服されると、人はこのすべての働きは救いのためであり、この救いの方法はサタンの手から人を取り戻すためにあることを理解するだろう。神の経営の六千年の働きは、律法の時代、恵みの時代、神の国の時代と3段階に分かれている。これら3段階の働きはすべて人の救いのためである。すなわち、それらはサタンによってひどく堕落していた人類の救いのためである。しかし、それと同時に、神がサタンと戦うためでもある。そのため、救いの働きだけでも、3段階に分かれており、サタンとの戦いも3段階に分かれ、神の働きの2つの側面は同時に行われることになる。サタンとの戦いは実際人類の救いのためであり、そして人類の救いの働きは一つの段階で完了できるものではないから、サタンとの戦いは段階と期間に分けられている。そして戦いは人の必要性とサタンの人への堕落の大きさに一致してサタンに遂行される。おそらく人は、2つの軍が戦い合うように、神がサタンに向かって武器を取って戦うのだろうと考えている。人の知恵はこれくらいしか想像することができない。それはこの上なくあいまいで、非現実的な考えであるが、それが人の信じることである。そして、人の救いの方法はサタンとの戦いを通してなされるとわたしがこうして言うので、人はこれこそ戦いが行なわれる方法だと想像する。人の救いの働きは3段階で実行される。すなわちサタンとの戦いはサタンが完全に滅びる前に3段階に分割されるということである。しかし、サタンとの戦いにおける全ての働きの内なる真実は、人に恵みを施し、人の罪のいけにえとなり、人の罪を赦し、人を征服し、人を完全にすることによってその効果が達成されるということである。実際、サタンとの戦いは、サタンに武器で立ち向かうものではなく、人の救い、人のいのちへの働き、人の性質を変えることであり、それにより人が神の証し人となることである。サタンはこのようにして滅びるのである。サタンは人の堕落した性質を変えることで敗北する。サタンが敗北する、つまり人が完全に救われると、それから辱めを受けたサタンは完全に縛られる。こうして人は完全に救われる。そして、人の救いの実体はサタンとの戦いであり、サタンとの戦いはおもに人の救いの反映である。人が征服される終わりの日の段階は、サタンとの戦いの最終段階であり、またサタンの領域からの人の完全なる救いの働きでもある。人の征服の内なる意味はサタンの化身の帰還、つまりサタンに堕落させられた人が征服に引き続いて造り主に戻ることで、これにより人はサタンを見捨て、完全に神に戻る。このようにして、人は完全に救われるだろう。このように、征服の働きはサタンとの戦いにおいて最後の働きで、サタン敗北のための神の経営における最終段階である。この働きがなくては、人の完璧な救いは究極的には不可能で、サタンの完全敗北もまた不可能であろう。そして、人類は決して素晴らしい終着点に入ることはできず、サタンの影響から自由になることもできないだろう。従って、人の救いの働きはサタンとの戦いが終結する前に終えることはできない。というのは神の経営の働きの核心は人の救いであるからである。最初の人類は神の手にあったが、サタンの誘惑と堕落から、人はサタンに縛られ、悪の手に落ちてしまった。そうしてサタンは、神の経営の働きの中で打ち負かす対象となった。サタンは人を自分の所有物とし、人は神の全経営物なので、人が救われるにはサタンの手から取り戻されなければならない。すなわち、サタンの捕虜となった人が連れ戻されなければならないのである。サタンは人の古い性質が変えられ、本来の理知を回復することで打ち負かされ、この様にして、捕虜となっていた人はサタンの手から取り戻される。もし人がサタンの影響や束縛から自由になると、サタンの面目がつぶされ、人は最終的には連れ戻され、サタンは敗北する。そして人はサタンの暗闇の影響から解放されたので、人類の救いのすべての働きが完了した後、人はこのすべての戦いの戦利品となり、サタンはこの戦いが終わると懲罰の対象となる。

神は被造物に対して悪意はなく、サタンを負かすことだけを願っている。神の働きのすべては――それが刑罰であろうと裁きであろうと――サタンに向けられている。それは人類の救いのために実行され、すべてサタンを負かすためであり、目的はひとつである。それはサタンと最後まで戦うことである。そして神はサタンに勝利するまで、決して休むことはない。神はサタンを負かして初めて休息する。神によってなされるすべての働きはサタンに向けられており、サタンに堕落させられた人たちはすべてサタンの領域で管理され、すべてサタンの領域で生きているため、もし神がサタンと戦うか、もしくはサタンを断ち切らなければ、サタンはその人たちの掌握をゆるめないだろうし、彼らは神のものとされないだろう。もし彼らが、神のものとされなかったら、それはサタンは打ち負かされておらず、征服されていないとことを証明する。そして、神の六千年の経営計画の最初の段階で、神は律法の働きをし、第2段階で恵みの時代の働き、すなわち、十字架の働きをし、第3段階で、神は人類征服の働きをした。このすべての働きはサタンが人類を堕落させた程度に仕向けられており、それはすべてサタンを負かすためであり、サタンを負かすためではない段階は一つもない。神の経営の六千年の働きは実質大きい赤い竜に対する戦いであり、人類を救う働きもまたサタンを負かす働きであり、サタンと戦いをする働きである。神は六千年も戦い、この様にして、人を最終的に新しい領域に連れて行くため六千年も働いてきた。サタンが打ち負かされると、人は完全に自由になる。これこそ今日の神の働きの方向ではないだろうか。これこそ正に今日の働きの方向である。つまり人を完全に自由にし、解放することである。その結果、人はどんな規則の下にもなく、どんな束縛や抑制もなくなる。この働きのすべてはあなたがたの背丈とあなたがたの必要性に即してなされる。つまり、あなたがたが達成できる物が提供される。それは「アヒルを追いやって止まり木に止まらせる」というような、能力以上のことを強制するものではない。そうではなく、このすべての働きはあなたがたの実際の必要性と一致して実行されるのである。それぞれの段階は人の実際の必要性や必要と一致しており、サタンを打ち負かすためである。実際、初めは造り主と創造物との間に壁はなかった。それらはすべてサタンが引き起こしたのである。人はサタンの妨害と堕落の故に何も見えず、触ることもできなくなった。人は犠牲者で、欺かれた者である。サタンが敗北すると、被造物は造り主を見上げ、造り主は被造物に目を注ぎ、彼らを一人一人導くことができる。人が地上で送るべき生活はこれだけである。そして、神の主な働きはサタンを負かすことで、サタンが敗北すると、すべてが解決される。今日、あなたは、神が人々の間に来たことが特別なことであることを知っただろう。神はあなたがたの欠点を毎日見つけるために来たのでもなく、自らの容貌、話し方、生き方を見せるために来たのでもない。神が肉となったのは、単にあなたがたが神を見上げるようになるためでも、あなたがたの目を開くためでも、自らが語る奥義や自らが開いた七つの封印に関して聞くことができるようになるためでもない。むしろ、神はサタンを負かすために肉となったのである。神は人を救うために、またサタンと戦うために、肉体を持ち自ら人の所に来た。そしてこれこそ受肉の意義である。もしそれがサタンを負かすためでなかったなら、神は自らこのような働きをしないだろう。神は人々の間で自らの働きをするため、人に自らを顕すため、そして人が神を見上げることができるようになるため、地上に来た。これはささいなことだろうか。これは実に素晴らしいことだ。神が来たのは人が想像するのとは違い、人が神を見上げ、神は漠然としてあいまいな存在ではなく本物で、高尚だけれどへりくだっていることを人が理解するために来たのではない。それほど単純なことだろうか。正確には、サタンが人の肉体を堕落させ、神が救おうとしているのは正に人間なので、神は肉となってサタンと戦い、自ら人を牧養しなければならない。これは神の働きにのみ有益である。二度肉となった神はサタンを打ち負かすために存在し、より良く人を救うために存在した。それが神の霊であっても、人となった神であっても、サタンと戦っている者は神でしかあり得ないからである。要するに、サタンと戦っている者は天使のはずはなく、ましてやサタンに堕落させられた人間であるはずはない。天使にそのような力はなく、人間はもっと無能である。そのように、もし神が人のいのちに働くことを望むなら、もし神は人に働くために自ら地上に来ることを望むなら、神は自ら肉体を取り、つまり、神は自ら人となり、神の本来の身分と神がしなければならない働きをもって、人を救うために自ら人の中に来ることである。もしそうでなければ、もしこの働きをしたのが神の霊か、人間であったなら、この戦いは永遠にその効果を成し遂げることはないだろうし、決して終わることもないだろう。神が肉となり、人の間で自らサタンに戦いを挑むことでのみ、人に救いのチャンスがあるのである。さらに、その時初めてサタンは辱められ、付け込む機会も、実行する計画も何もないまま取り残されるだろう。人となった神によってなされた働きは、神の霊によって成し遂げることは不可能であり、神の代わりに肉体を持った人によって成し遂げることはもっと不可能である。というのは、神がする働きは人のいのちのためであり、人の堕落した性質を変えるためであるからだ。人がこの戦いに加わるとしたら、痛ましい混乱からただ逃げるだけで、人の堕落した性質を変えることは単純に不可能であろう。人が十字架から人を救ったり、反抗的な人間すべてを征服したりするのは不可能で、原理に沿って古い働きを少しするか、サタンの敗北とは関係のない他の働きをすることが可能なだけである。それならなぜ敢えてそのようなことを考えるのか。人間を神のものとすることができず、ましてやサタンを敗北させることのできない働きの意味は何か。サタンとの戦いは神自らによってのみ実施され、人がするのは単に不可能である。人の本分は服従して従うことである。人は新しい時代を開く働きもできなければ、サタンと戦う働きをすることもできないからだ。人はただ神自らの指導の下で、造り主を満足させることができるだけで、それを通して、サタンは打ち負かされるのである。これは人ができる唯一のことである。そして、新しい戦いが始まるたびに、すなわち、新しい時代の働きが始まるたびに、この働きは神自らによってなされ、それを通して、神は時代全体を導き、全人類に新しい道を開く。新しい時代の夜明けはサタンとの戦いの新しい始まりで、それを通して、人は神自らが導くもっと新しく、もっと美しい領域と新しい時代に入る。人はすべての物の支配者だが、神のものとされた人たちはサタンとの戦いの実となるであろう。サタンはすべての物の破壊者で、すべての戦いの終わりの敗北者で、またこれらの戦いに続いて懲罰される者である。神、人、サタンの中で、サタンだけが忌み嫌われ拒絶される者である。その一方で、サタンのものにされ、神に取り戻されない人たちは、サタンに代わって懲罰を受ける者たちである。これら三者の中で、神だけがすべての物に礼拝されるべきである。一方サタンに堕落させられたが、神によって連れ戻され、神の道に従う人たちは、神の約束を受け、神にとって邪悪な者たちを裁く者たちになる。神は確かに勝利し、サタンは確かに敗北するが、人々の中には、勝利する者と敗北する者がいる。勝利する者たちは「勝利者」に属し、敗北する者たちは敗北者に属する。これは種類によるそれぞれの分類で、神のすべての働きの最終結果であり、神の働きの目的でもあり、そしてそれは決して変わることはない。神の経営計画の主な働きの核心は、人の救いに焦点が置かれている。そして、この核心のために、この働きのために、そしてサタンを打ち負かすために、神は肉となった。はじめて神が肉となったのも、サタンを打ち負かすためであった。神は最初の戦いの働きを完成させるために、自ら、肉となり、自ら十字架に釘づけにされたが、それは人類の贖いの働きであった。同じように、この段階の働きも神が自ら肉となり、人の間で働き、自ら言葉を語り、人が神に会うことを許した。もちろん、その働きの途中で他の働きもすることは避けられないが、神が自らその働きを実践する主な理由はサタンを打ち負かすことであり、全人類を征服することであり、これらの人たちを自らのものとすることである。だから、神の肉による働きは、真に重要である。もし神の目的が、神はへりくだって隠しており、神が実在することを人に示すだけであったら、もしそれだけのためであったら、神が肉となる必要はなかっただろう。たとえ神は肉とならなかったとしても、神は自らがへりくだり、隠していること、そして自らの偉大さと聖さを人間に直接顕かにすることができただろう。しかしそのようなものは人類を経営する働きとは何の関係もない。それらによって人を救ったり、人を完全にしたりすることは不可能で、ましてやサタンを打ち負かすことなどできない。もしサタンの敗北が霊と霊との戦いだけを含むなら、そのような働きは実際の価値はさらに少ないだろう。人を神のものとすることは不可能で、人の宿命や将来性を駄目にするだろう。そのように、今日の神の働きには深い意義がある。それは人が神を見ることができたり、人の目が開かれたり、人にもう少し感動と励ましを与えたりするためではない。そのような働きは意味がない。もしあなたがこの種の認識を語ることしかできないなら、それはあなたが神の受肉の真の意義を分かっていないことの証明である。

神の経営計画の働き全ては神自身が自らする。第1段階、世界の創造は神自身が自ら行った。そして、もしそれがなされなかったなら、誰も人類を創造することはできなかっただろう。第2段階は、全人類の贖いであり、それもまた神自身が自ら行った。第3段階は言うまでもない。神のすべての働きの終結のために、神が自ら、更に働かなくてはならない。すべての人間を贖い、征服し、神のものとし、完全にする働きはすべて神自身が自ら実行する。もし神がこの働きを自ら行わないなら、神の身分は人によって表されることはできないし、神の働きも人によってなされることはない。サタンを打ち負かすために、人類を神のものとするために、そして、地上で普通の生活を人に与えるために、神は自ら人を導き、人の間で働く。神の経営計画のために、そして、すべての働きのために、神は自らこの仕事をしなければならない。もし人が、神が来たのは人が神を見るためで、人を幸福にするためであるとしか信じていないなら、そのような信念は価値がなく、何の意味もないだろう。人の認識はあまりにもうわべだけである。神自らによって実行されて初めて、この働きは完璧に完了されるのである。人は神の代わりにそれをすることはできない。人は神の身分も本質も持っていないので、神の働きをすることは不可能である。たとえ人がしたとしても、何ら効果はないだろう。初め神が肉となったのは贖いのためであった。すべての人間の罪を贖い、清められ、罪が赦されることを可能にするためであった。征服の働きも神が人の中で自らする。もし、この段階で、神が預言しか語らないのであれば、預言者か、誰か賜物のある人を見つけて、神の代わりをしてもらうこともできよう。もし、預言しか語らないなら、人は神の代役を務めることもできよう。しかし、もし人が神自身の働きを自ら務め、人のいのちに働くということになれば、この働きをするのは不可能であろう。それは神自らによって直接されなければならない。神はこの働きをするために自ら人とならなければならない。言葉の時代に、もし預言しか語られないなら、この働きのために預言者イザヤかエリヤを見つけてくればよいし、神自身が自らそれをする必要はないだろう。この段階でなされる働きはただ預言を語るだけではなく、更に重要な、人を征服し、サタンを打ち負かすために用いられる言葉の働きなので、この働きは人ではなく、神自身によって自らなされなければならない。律法の時代にヤーウェは神の働きの一部を行い、その後、預言者を通して神が言葉を語り、ある働きをした。これは人がヤーウェの働きの代役を務めることができ、預言者は物事を予言し、神に代わって夢を解き明かすことができるからである。初めになされた働きは人の性質を直接変える働きではなく、人の罪とも関係なく、人は律法を守ることだけを要求されていた。だから、ヤーウェは肉となって自らを人に顕すことをしなかった。そして、ヤーウェはモーセや他の人たちに直接語り、ヤーウェの代わりに彼らに語らせ、働かせ、人々の間で彼らが直接働くようにしたのである。神の働きの第1段階は人を指導することであった。それがサタンとの戦いの始まりだったが、この戦いはまだ正式には始まっていなかった。サタンとの正式な戦いは神の最初の受肉とともに始まり、そして、それは今日に至るまでずっと続いてきた。この戦いの最初の出来事は、人となった神が十字架に釘づけされた事である。人となった神の十字架はサタンを打ち負かし、それが戦いの最初の成功段階であった。人となった神が人のいのちに直接働き始めるとき、これこそ人を再び神のものとする働きの正式な始まりで、これは人の古い性質を変える働きなので、サタンとの戦いをする働きである。ヤーウェによってなされる最初の段階の働きは、地上の人の生活の指導だけだった。それは神の働きの始まりで、まだいかなる戦いもいかなる大きな働きも関与していなかったが、これから来る戦いの働きの基盤を築いた。その後、恵みの時代の働きの第2段階には、人の古い性質を変えることが含まれるが、それは神自らが人のいのちに働いたことを意味している。これは神自らが行わなければならなかった。それは神が自ら肉となることを必要とし、もし神が肉とならなかったなら、誰ひとりこの段階の働きで神に代わることはできなかった。というのは、それはサタンと直接戦う働きを表していたからである。もし、人が神に代わってこの働きをしたとしたら、人がサタンの前に立った時、サタンは服従することはなかっただろうし、サタンを打ち負かすことは不可能だったろう。サタンを打ち倒すのは、受肉した神でなければならなかった。受肉した神の本質は依然として神であり、依然として人のいのちであり、依然として造り主であるからである。何が起ころうとも、神の身分と本質は変わらないのである。そして、神は肉体を取り、サタンに完全服従させるために働きをした。終わりの日の働きの段階で、人がこの働きをし、言葉を直接語ることを強いられるなら、人はそれらを直接語ることはできないだろう。そして、もし預言が語られるなら、人を征服することは不可能であろう。神は肉体を取り、サタンを打ち負かし、完全服従させるために来る。神は完全にサタンを敗北させ、完全に人を征服し、完全に人を神のものとすると、この段階の働きが完了し、働きが成功する。神の経営において、人は神の代役を務めることはできない。特に、時代を導き、新しい働きを始めることは、神自身が自らする必要がある。人に啓示を与えたり、預言を与えたりすることは人によってなされることも可能だが、もしそれが、神自らがしなければならない働きで、神自らとサタンとの戦いの働きなら、これは人によってなされることはできない。働きの第1段階で、サタンとの戦いがないときは、ヤーウェは預言者たちによって語られた預言を用いて自らイスラエルの民を導いていった。その後、第2段階はサタンとの戦いであり、この働きをするために、神自らは肉体を取り、自ら人となった。サタンとの戦いが関与することもまた、すべて神の受肉が関与する。この戦いは人が行うことはできないのである。もし人が戦うことになれば、サタンを打ち負かすことは不可能であろう。人はサタンの支配下にありながら、どのように戦うための力を持つことなどできようか。人は真ん中にいる。もしあなたがサタンの方に傾くなら、あなたはサタンに属し、あなたが神を満足させるなら、あなたは神に属す。この戦いの働きを神に代わって人が務めるとなったら、人はそれを成し遂げることができるだろうか。もしそれをしていたら、人はとうの昔に滅びてはいなかったろうか。人は黄泉の国にとうの昔に入ってはいなかったろうか。このように、人は神に代わってその働きをすることはできない。すなわち、人は神の本質を所有しておらず、もし人がサタンと戦うなら、サタンを打ち負かすことは不可能であろう。人ができることはそれほど多くない。ある人たちを説得して引き入れることはできるが、神自らの働きにおいて神の代役を務めることはできない。人はどうしてサタンと戦うことなどできようか。サタンはあなたが戦い始める前に、あなたを捕虜にするだろう。神自らのみがサタンと戦うことができ、これに基づいて、人は神に従い服従することができる。この方法でのみ、人は神のものとされ、サタンの束縛から逃れることができる。人が自分自身の知恵、権威、能力で達成できることは、あまりにも限られている。人間には人を完全にし、導き、さらにサタンを打ち負かすことなど不可能である。人の知能と知恵はサタンの計画を妨害することはできない。それなら、人がサタンとなど戦うことができようか。

進んで完全にされたいと思う人たちなら誰でも、完全にされる機会がある。だから皆リラックスしていなければならない。将来、あなたがたはみな終着点に入るだろう。しかし、もしあなたが進んで完全にされようとせず、素晴らしい領域に入ることを願わないなら、それはあなた自身の問題である。喜んで完全にされようとし、神に忠実である人たちすべて、服従する人たちすべて、そして自分の役目を忠実に成し遂げる人たちのすべて――そのような人たちはすべて完全にされることができる。今日、自分の本分を忠実に果たさない人たちすべて、神に忠実でない人たちすべて、神に服従しない人たちのすべて、とりわけ聖霊の啓示と光を受けたが、それを実践しなかった人たち――そのような人たちは完全にされることはできない。神に喜んで忠実に従う人たちは誰でも、たとえ彼らが多少無知であっても、完全にされることができる。喜んで求めている人たちはすべて完全にされることができる。これを心配する必要はない。あなたがこの方向で進んで追求している限り、あなたは完全にされることができる。わたしはあなたがたの中でこの様な人たちのひとりでも進んで見捨てたり、排除したりすることは願わないが、もし人が一生懸命努力しないなら、あなたは自分自身を破滅させているだけである。あなたを排除するのはわたしではなく、あなた自身である。もしあなた自身が一生懸命努力しないなら――もしあなたが怠慢で、自分たちの本分を果たさなかったり、忠実でなかったり、真理を追求しなかったり、お金を使ったり性的密事にふけったりして好きなようにいつもふるまっているなら、あなたは自分自身を罪に定めており、誰の同情も得る価値はない。わたしの目的は、あなたがたがみな完全にされることで、少なくても征服され、この働きの段階は成功をもって終えることである。神の願いは一人ひとりがみな完全にされ、最終的に神のものとされ、神によって完全に清められ、神に愛される者となることである。あなたがたは進歩がおそく、才幹に劣ってるとわたしが言おうと問題はない――これはすべて事実である。わたしが言っていることは、わたしがあなたを見捨てるつもりであり、あなたがたに望みを失い、ましてやあなたがたを救いたいとは思っていないことの証明などではない。今日、わたしはあなたがたの救いの働きのために来ており、すなわち、わたしがする働きは、救いの働きの続きである。すべての人は完全にされる機会が与えられている。あなたが喜んで受け入れるなら、あなたが求めるなら、最後には、その効果を達成でき、誰一人見捨てられることはないだろう。もしあなたの力量が乏しければ、わたしはその力量にあったことをあなたに要求する。もしあなたの力量が豊かならば、わたしはその豊かな力量に合ったことをあなたに要求する。もしあなたが無知で無学なら、わたしはあなたの無学に合ったことを要求する。もしあなたに教養があるなら、わたしはあなたの教養に合ったことを要求する。もしあなたが高齢なら、わたしはあなたの年齢に合ったことを要求する。もしあなたが人をもてなすことができるなら、わたしはそれに合ったことを要求する。もしあなたが人をもてなすことはできず、特定の役割しか果たせないと言うのなら、それが福音を伝えることであれ、教会の手入れであれ、そのほか一般的なことであれ、あなたがするそれらの事を通して、わたしはあなたを完全にする働きをする。忠実であること、最後まで従うこと、神への崇高な愛を求めること――これこそあなたが達成しなければならないことで、この3つよりすぐれたものは何もない。究極的には、人はこれら3つの事を成し遂げることを要求されている。そして、もし人がそれらを達成できるなら、その人は完全にされるだろう。しかしまず、あなたは真剣に追い求め、消極的になるのではなく、積極的に前に進み続けなければならない。あらゆる人は完全にされる機会があり、完全にされることが出来るとわたしは既に言った。これは重要だが、あなたは一生懸命追求していない。もしあなたがこれら3つの基準を満たすことができないなら、あなたは最後には排除されなければならない。わたしはすべての人が追い付いて、すべての人が聖霊の働きと導きおよび示しを得、最後まで従うことができることを望んでいる。なぜなら、これはあなたがた一人ひとりがなすべき本分であるからだ。あなたがたが本分を全て果たし終えたとき、あなたがたはみな完全にされ、また素晴らしい証しを持つことだろう。証しを持つすべての人たちはサタンに勝利し、神の約束を手に入れた人たちで、そして彼らは素晴らしい終着点で生き残る人たちである。

終わりの日のキリストの語られる言葉(選集)朗読

キリストに味方しない者は確実に神の敵だ キリストと融和する道を探せ キリストは、真理を以て裁きの働きを行う 神が人々の間で偉大な業を成し遂げたことを知っているか 終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる あなたは誰に忠実か 三つの忠告 神の性質を理解することの並ならぬ重要性 信者はどんな見解を持つべきか 堕落した人間は神を体現することができない 宗教奉仕を取り締まるべきである 神を信じているなら神に従うべきだ 現実をどのように知るか 神の心にかなう奉仕とは 今日の神の働きを知るということ 神の働きは人間が想像するほど簡単か 肉となった神と神に使われる人々との間の本質的違い 神の信仰は宗教的儀式でなく現実に焦点を合わせるべきである 今日の神の働きを知る人々のみ神に仕えることができる 神の国の時代は言葉の時代(前半) 神の国の時代は言葉の時代(後半) 神を愛することだけが本当に神を信じることである  (前半) 神を愛することだけが本当に神を信じることである  (後半) 「千年神の国は訪れた」についての短い話 あなたは生かされたか 性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである 二度の受肉が受肉の意義を完成させる ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識(パート1) ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識(パート2) ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識(パート3) 本物の人とは何を意味するか あなたは信仰について何を知っているか 肉なる者は誰も怒りの日を逃れることはできない 福音を広める働きは、人を救う働きでもある 律法の時代における働き 贖いの時代における働きについての真実 あなたは人間全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである (前半) あなたは人間全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである (後半) 自己の観念で神を規定している人がどうして神の啓示を受けることができるだろうか 受肉した神の職分と人間の本分の違い( 前半) 受肉した神の職分と人間の本分の違い ( 後半) 神はすべての被造物の主である 神の働きと人の働き(前半) 神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である(後半) 神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である(前半) 堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている (パート1) 神の宿る肉の本質 (前半) 神の宿る肉の本質 (後半) 神の業と人間の実践(前半) 神の業と人間の実践(後半) キリストの本質は父なる神の心に従うことである 人の普通の生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く (前半) 人の普通の生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く (後半) 神と人は共に安息に入る(パート1) 祈りの実践について 「受肉の奥義」についての神の言葉四節からの抜粋 (パート1) 「受肉の奥義」についての神の言葉四節からの抜粋(パート2) 「受肉の奥義」についての神の言葉四節からの抜粋(パート3) 「受肉の奥義」についての神の言葉四節からの抜粋(パート4) 「聖書について」に関する神の言葉四節からの抜粋( パート1) 四番目の言葉 五番目の言葉 七番目の言葉 八番目の言葉 九番目の言葉 十番目の言葉 十八番目の言葉 十九番目の言葉 二十番目の言葉 二十二番目の言葉 二十六番目の言葉 二十九番目の言葉

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