神と人は共に安息に入る(パート2)

今、人々は肉をもつものを手放すことができない。彼らは、肉の楽しみを放棄できず、この世、金銭、堕落した性質をも捨てることができない。大多数の人はいい加減に追求している。実は、このような人々は、心の中に全く神を持っていない。まして、彼らは神を恐れない。彼らは心の中には神を持たないので、神が行うすべてを知覚することができず、なおさら、彼の口から出た言葉を信じることができない。このような人々はあまりにも肉中心である。彼らは、あまりにも深く堕落させられ、いかなる真理をも欠いている。その上、神が受肉できることを信じない。肉となった神を信じない人、すなわち見える神の働きと言葉を信じない人、見える神を信じないで天の見えない神を崇拝する人はみな、心の中に神を持たない人である。彼らは、神に背き逆らう人たちである。このような人は真理を欠いているのは言うまでもなく、人間性、理性を欠いている。このような人たちにとっては、見える神、触れることができる神はもっと信頼できず、見えない神、触れることのできない神こそが、いちばん信頼でき、またいちばん彼らの気分を晴れ晴れとさせるのである。彼らが求めるのは現実的な真理ではなく、人生の真諦でもなく、まして神の意図でもない。彼らはむしろ、刺激を求めている。もっとも彼らの欲望を満たすことができるものならどんなものであっても、間違いなくそれが、彼らが信じ、追い求めようとするものである。彼らが神を信じるのはただ自分の欲望を満たすためであって、真理を求めるためではない。このような人たちはみな悪を行う人たちではないのか。彼らはとても自信があり、天の神が彼らのような「善良な人々」を滅ぼすとは信じない。むしろ神が彼らを生き残らせてくれ、しかも手厚く報いてくれると思っている。なぜなら、彼らは神のために多くの事をし、神のためにずいぶん「忠誠」を尽くしたからである。もし彼らが見える神を追い求めるつもりなら、彼らの欲望が満たされそうになくなると、彼らは直ちに神に反撃するか、或いはすぐ足を踏みならし烈火のごとく怒るはずである。この人たちはみな自分の欲望を満たす小人である。彼らは、真理を追い求める誠実な人々ではない。このような人々は、キリストを模倣するいわゆる不道徳者である。真理を求めない人たちは真理を信じることはできない。彼らは、人類の未来の結末については、なおさら感じることができない。なぜなら、彼らは見える神のすべての働きと言葉を信じず、人類の未来の終着点をも信じることができないからである。したがって、彼らは見える神につき従っていても、やはり悪を働いて真理を求めず、わたしの要求する真理をも実行しない。自分が滅ぼされることを信じない人たちは逆に、まさに滅ぼされる対象そのものである。彼らはみな、自分がとても賢明であると信じていて、自分が真理を実行する人であると思っている。彼らは自分の悪行を真理と考え、それを守ろうとする。このような不道徳者はみな自己確信が強い。彼らは真理を教義であると見なし、自分の悪行を真理と見なす、最後には彼らは自業自得の報いを受けるだけだ。自信のある人、傲慢な人であればあるほど、真理を得ることができず、天の神を信じる人であればあるほど、神に逆らう人である。このような人たちはみな罰される人々である。人類が安息の中に入る前に、各々の種類の人が罰されるか、それともよい報いを受けるかどうかは、彼らが真理を求めるかどうか、神を認識するかどうか、見える神に従うことができるかどうかによって決まる。神に仕えてきたが見える神を認識しないあるいは彼に従順でない人たちはみな真理のない人である。このような人たちは悪を行う人であり、悪を行う人は疑いなくこらしめを受ける対象である。しかも彼らは、彼らの悪行に応じて罰せられる。神は人による信仰の対象であり、また人が従うに値する存在である。だが、漠然とした見えない神だけを信じる人たちはみな神を信じない人たちである。その上、彼らは神に従うことができない。もしこのような人たちが神の征服の仕事が終わるときまでに、依然として、見える神を信じることができず、しかもやはり肉の中の見える神に背き逆らうことを続けるなら、このような「漠然派」は疑いなく滅ぼされる。それは、現状、あなたがたのうちの人々においても見られる。たとえば、あなたがたのうち、口先では肉となった神を認めるが肉となった神に従うという真理を行うことができない人は誰でも、最後には淘汰され、滅ぼされ、また、口先では見える神を認め、しかも見える神が表現した真理を食べ飲みするが漠然とした見えない神を追い求める人はなおさら将来滅ぼされる。このような人々の誰も、神の働きが終わった後の安息の時まで生き残ることができない。このような人はだれも安息の時まで生き残ることができない。悪魔の類の人はみな真理を実行しない人である。彼らの本質は神に逆らい、背く人であって、彼らは神に従う気が少しもない。この様な人々はみな滅ぼされる。あなたが真理をもっているかどうか、神に逆らっているかどうかは、あなたの本質によって決まるのであり、あなたの外貌あるいは時折の言行によって決まるのではない。人が滅ぼされるかどうかは、その人の本質によって決まる。すなわち、彼らが事を行い、真理を追い求める過程で外に現れる本質によって決まるのである。同様に仕事をししかも同じ程度の量の仕事をする人々のうち、人間性の本質が善であり、真理を持っている人々が、生き残る人々であり、人間性の本質が悪であり、見える神に背く者は、滅ぼされる人々である。人類の目的地に向けられた神の働き及び言葉の何もかもが、人類を、各人の本質に従って適切に取り扱う。そこにはどんな事故も無ければ、些細な誤りもない。人が仕事を遂行するときこそ、人の情感あるいは意味が人間の中に入り込むのである。このとき、神が行う働きが時宜を得る。彼は、いかなる生き物にも不当な要求をもってこない。今、未来の人類の終着点を感じ取ることができず、しかもわたしが話す言葉を信じない多くの人々がいる。真理を行わない人々と同様に、信じない人々は皆、悪魔である。追い求める人々と追い求めない人々は今や、2つの異なるタイプの人々であり、彼らは2つの異なる終着点をもつ2つのタイプの人々である。真理に関する知識を追求し、真理を実行する人々は神に救われる者である。真の道を知らない人々は、悪魔であり敵である。彼らは、天使長の後裔であり、滅ぼされる。漠然とした神を信じる敬虔な信徒も悪魔ではないだろうか。良心があるが真の道を受け入れないような人々は悪魔である。彼らの本質は神に逆らうものである。真の道を受け入れないような人々は、神に逆らう者である。このような人はたくさんの苦しみに耐えていたとしても、彼らはやはり滅ぼされる。この世を捨てたがらず、父母を離れるのがつらいと感じ、彼ら自身の肉の喜びを捨てるのがつらいと感じるような人々はみな神に従順ではなく、みな滅ぼされる。肉となった神を信じない人はみな悪魔である。さらに、彼らは滅ぼされる。信じるが真理を行わない人々、肉となった神を信じない人々、神の存在を全く信じない人々はみな、滅ぼされる。生き残ることができる人はみな、洗練の苦しみを受けても持ちこたえることのできた人である。これは、本当に試練を経た人である。神を認めない人はみな敵である。すなわち、神が受肉したことを認めない者はだれも、この時代の流れの中にあってもこの流れに関係なくても、みな反キリストである。もし神を信じない反抗派がそうでないなら、誰がサタンだろうか、誰が悪魔だろうか、誰が神の敵だろうか。彼らは神に背く人たちではないだろうか。彼らは口先だけで信じると言うが真理を持っていない人たちではないだろうか。彼らは、祝福を受けることだけを追い求めるが神のために証しをすることができない人たちではないだろうか。今日あなたはまだこのような悪魔と親しく交わり、悪魔と一致した道義心や愛を強調することもできる。これはサタンに親切心を示しているのではないだろうか。それは、悪魔に同調すると考えられないだろうか。もし人々が今日まだ、善悪を区別することができないならそして神の意志をどんな形でも求めることを望まず、愛や憐れみを、盲目的に強調するなら、さらに神の心を自身のものとして全く持つことができないなら、そのような人の結末はもっと悲惨だろう。肉の中の神を信じないものはみな神の敵である。もしあなたが敵の方を向いて良心と愛を強調するなら、あなたは義の感覚を欠いていないだろうか。もしあなたが、わたしが憎み嫌い、反対するものに味方し、彼らとの愛あるいは個人的な感情をまだ強調するなら、あなたは従順ではないのではないか。あなたは故意に神に逆らっているのではないか。このような人は真理を所有しているのか。もし、敵への良心を強調し、悪魔への愛を強調し、サタンへの憐れみを強調するなら、そのような人はみな、故意に神の働きを妨げていないだろうか。イエスだけを信じて、終わりの日に肉となった神を信じない人たち、口先だけで肉となった神を信じると言うが悪を行う人たちはみな、反キリストである、神を信じない人たちであるのは言うまでもなく。このような人はみな滅ぼされる。人が人を裁く場合は、人の行いを基準とする。つまり、行いが善い者は義なる人であり、行いが悪い者は不道徳者である。神が人を裁く時は、人の本質が神に従順であるかどうかを基準とする。つまり神に従順な者は義なる人であり、神に従順でない者は敵であり、不道徳者である、この人の行いがよいか悪いか、この人の言葉が正しいか間違っているか、に関わらず。一部の人は善い行いによって未来のよい終着点を獲得しようと思い、一部の人はよい言葉によって未来のよい終着点を買うことを考える。人々はみな、神が人の行い、或いは人の言葉によって人の結末を定めると間違って思っている。従って多くの人は虚偽の行為を通じて一時の恵みを獲得するためにこのような方法を用いようとする。最後は安息の中で生き残る人々はみな苦難の日を経験し、しかも神のために証しをしてきた人だろう。彼らはみな人の本分を果たしてきた人であり、心から神に従う人である。仕える機会を利用して真理の実行を免れようと思う人たちはみな、生き残ることができないだろう。神がすべての人の結末を定めるのは、適切な基準に基づいている。彼は、人の言行だけに基づいて意思決定をするのではなく、人のある時期の行いに基づいて意思決定するのでもない。神は人がかつて神に仕えたからといって、そのすべての悪行を寛大に処理することは決してなく、また、人が神のためにかつて一時費やしたからといって彼の死を免除することもない。だれ一人として自分の悪の報いから逃れられず、また、だれ一人として自分の悪行を隠して滅亡の苦しみから逃れられない。もし人が本当に自分の本分を果たすことができるなら、このことは、祝福を受けても不運に苦しんでも、彼らが神に永遠に忠誠を尽くし、報酬を求めないことを意味する。もし祝福に出会う時は神に忠実であるが、祝福に出会うことができない時は神に忠実でなく、結局はその上神のために証しをすることができず、自分の尽くすべき本分をも果たすことができないなら、かつて神に忠実に仕えた人であっても、やはり滅ぼされる。要するに、不道徳者は永遠に生きることはできず、安息の中に入ることもできない。義なる人こそが安息の主人である。人類がみな正しい軌道に乗った後、人は正常な人の生活を持つようになる。彼らは彼ら自身の本分を尽くすことができ、神だけに忠誠を尽くすことができる。彼らは不従順、堕落した性質も完全に脱ぎ捨て、神のために生き、神ゆえに生きる。彼らはもう神に背かず、逆らわず、神に完全に従うことができる。これこそ神と人の生活であり、神の国の生活であり、また安息の生活である。

全然信仰心のない子供、親戚を教会の中に引き込む人たちは、自己中心的すぎ、親切心を示している。このような人たちは、彼らが信じるかどうかあるいはそれが神の意志であるかどうかを考慮せず、愛だけを強調する。一部の人たちは、彼らの妻を神の前に引っ張ってきたり、父母を神の前に引っ張ってきたりする。聖霊が同意しているかどうかあるいは聖霊が彼の働きを遂行しているかどうかに関わらず、彼らは盲目的に神のために「才能ある人材を募集する」。このような信じない人にまでこんな親切心を広げることから何の益が得られるのか。聖霊の臨在がないこれらの不信仰派たちが、しぶしぶながら神につき従っても、人が想像するように救われることができるものではない。救われる人はそんなに簡単に得られるものではない。聖霊の働きと試練を経験せず、また肉となった神に完全にされなかった人は、絶対に完全にされることができない。だから、このような人々は神に名目上つき従い始めた時から聖霊の臨在がない。彼らの状況と実際の状態では、彼らは全く完全にされることができない。実際、聖霊も彼らに対してそんなに多くの精力を費やすつもりがなく、またいかなる啓きあるいは導きをも、どんな形でも、与えない。ただ彼らにつき従わせるだけであり、最後になって彼らの結末を明らかにすればいい。人の熱狂や、意志はサタンから来る。したがって、彼らは、聖霊の仕事を決して成就することができない。どんな種類の人であっても、聖霊の働きを持たねばならない。人が人を完全にすることができるのか。なぜ夫は彼の妻を愛するのだろうか。また、なぜ妻は夫を愛するのだろうか。なぜ、子供たちは父母に孝行するのだろうか。また、なぜ父母は子供たちをかわいがるのだろうか。人々はどんな意図を心に宿しているだろうか。すべて自分の目的を達成し、自分の私欲を満足させるためではないだろうか。本当に神の経営計画のためだろうか。神の仕事のためだろうか。被造物の本分を果たすためだろうか。最初は神を信じそして聖霊の臨在を得ることができなかった人は、絶対に聖霊の働きを得ることができない。このような人たちが滅ぼされるのはすでに決定事項である。人が彼らに対してどれだけ多くの愛を持っていても、それは聖霊の働きに取って代わることはできない。人の熱心と愛はみな人の意志を代表するのであって、神の意志を代表することができず、神の仕事に取って代わることもできない。名目上神を信じ神に従う振りを装うが神を信じるとは何かを知らないような人々に、たとえ最大限の愛や憐れみを拡張しても、彼らはやはり神の共感を得ないあるいは聖霊の働きを得ないのである。たとえ誠意をもって神に従う人が、素質がとても劣っていて多くの真理を理解することができなかったとしても、彼らはやはり、時折、聖霊の働きを得ることは可能である。しかし、素質はかなりいい方ではあるが、心から信じない人たちは、全く、聖霊の臨在を得ることはできない。このような人々においては、救われる余地が全くない。たとえ本を読み、或いはたまにはメッセージを聞き、或いは歌って神を賛美するとしても、最後には、彼らは、安息の中で生きることができない。人が心から追い求めているかどうかは、他の人が彼らをどう評価するかによってあるいは、周りの人が彼らのことをどう見るかによって決まるのではなく、聖霊が彼らの上で働くかあるいは彼らに聖霊の臨在があるかどうか、によって決められる。さらにそれは、一定の期間の聖霊の働きを経験した後、彼らの性質が変化したかどうかと彼らが神についての知識をもっているかどうかによって、なおさら、決められる。もし聖霊の働きがある人の上にあれば、この人の性質は次第に変化し、彼らの神を信じる観点もますます純粋になるのである。人が神につき従った時間が長くても短くても、彼らが変化を経験したならば、このことは、聖霊が彼らの上に働いていることを意味する。もし彼らが変化しなかったなら、このことは、聖霊が彼らの上に働いていないことを意味する。たとえ、このような人が何らかの奉仕を差し出しても、彼らは幸運を得ようとする意図に駆られている。たまに仕えることでは、彼らの性質の変化の代わりをつとめることができない。最後には、彼らはやはり滅ぼされる。なぜなら、神の国の中には奉仕を差し出す者に対する需要はなく、完全にされかつ神に忠実な人たちに役立つように自らの性質を変えなかった人への需要も全くないからである。過去から言われている言葉、「一人が神を信じれば、全家族が祝福される」は、恵みの時代に適していたのであり、人の終着点とは関係がない。この言葉はただ恵みの時代の一段階だけに適していたのである。この言葉の真意は、ただ人が享受する平安と物質的な祝福を指して言ったのである。それは、一人が主を信じれば全家族が救われるということではなく、一人が祝福を受けると全家族が彼に安息の中に連れられるということでもない。人が祝福を受けるか、それとも災いを受けるかは、自分自身の本質によって決まるのであって、ほかの人と共有する共同の本質によって決まるのではない。神の国の中には全然こういう言い方あるいはこういう規定がない。人が最後に生き残ることができるのは、彼が神の要求を満たしたからである。人が安息の時代を生き残ることができないのは、彼自身が神に背き、神の要求を満足させることができなかったからである。どの人にもふさわしい終着点がある。この終着点は各人の本質によって決まるのであり、ほかの人とは全然関係がない。子供の悪行は父母に移されることはできないし、加えられることができず、子供の義も父母と共有することはできない。父母の悪行は子供に移されることはできず、父母の義も子供が父母と共有することはできない。すべての人が各々の罪を担い、すべての人が、各々の幸運を享受する。だれもほかの人の代わりをすることができない。これが義である。人の世界は、父母が幸運を得れば子供も幸運を得ることができ、子供が悪を行えば父母がその罪に対して償わなければならない。これは人の見地であり、人の物事のやり方である。それは神の見地ではない。どの人の結末も彼の行ったことからくる本質によって定められるのであり、しかもそれはみな適切に定められるのである。どの人も他人の罪を担うことができない。なおさら他人の代わりに懲罰を受けることができず、これは絶対的なことである。父母が子供をかわいがるが、彼らの子供代わりに義を行うことができず、子供が親に孝行するが、父母の代わりに義を行うことはできない。これは「ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう」という言葉の背後にある真の意味である。子供をとても愛するがゆえに、悪を行う子供を安息の中に連れていくことができる者は一人もおらず、義を行うがゆえに自分の妻(或いは夫)を安息の中に連れていくことができる者も一人もいない。これは神の定められた規定であり、いかなる人も例外にはできない。義を行う者はつまるところ義を行う者であり、悪を行う者はつまるところ悪を行う者である。義を行う者はつまるところ生き残ることができ、悪を行う者は滅される。聖なる者は聖なる者である。彼らは汚れた者ではない。汚れた者は汚れた者であって、聖なる要素が少しもない。不道徳者はすべて滅ぼされる。義人はすべて生き残る。悪を行う人の子供が義を行う者であっても、義人の父母が悪を行う者であっても。信仰深い夫と不信仰な妻はもともと関係がなく、信仰深い子供と不信仰な父母はもともと関係がない。彼らは相容れない二種類の人である。安息の中に入る前に人には肉親があるが、ひとたび安息の中に入ると、もはや語るべき肉親はなくなる。本分を尽くす者と、本分を尽くさない者はもともと敵であり、神を愛する者と、神を憎む者はもともと敵対する者であり、安息の中に入る者と、滅ぼされる者は相容れることのできない二種類の被造物である。本分を尽くす被造物は生き残ることができ、本分を尽くさない被造物は滅ぼされる。もっと重要なこととして、これは永遠に続く。あなたが夫を愛するのは被造物の本分を尽くすためだろうか。あなたが妻を愛するのは被造物の本分を尽くすためだろうか。あなたが自分の不信仰者の父母に孝行するのは被造物の本分を尽くすためだろうか。神を信じることに関して人の見解は正しいだろうか、そうでないだろうか。ここなぜあなたは神を信じるのだろうか。あなたはいったい何を得ようとするのだろうか。あなたはいったいどのように神を愛しているのだろうか。もし被造物の本分を果たすことができず、自分の全力を尽くすことができないような者がいるなら、彼は滅ぼされる。今日、人々は、血の繋がりだけでなくお互いの間にはまだ肉の関係があるが、今後これは完全に打ち破られる。信じる者と信じない者はもともと相容れないのであり、敵対する。安息の中の人はみな神の存在を信じる者であり、神に従順な者である。神に不従順な人々は完全に滅ぼされてしまう。地上にはもう家族がなくなる。それでは、どうして父母があるだろうか、どうして子供があるだろうか、どうして夫婦関係があるだろうか。信仰と不信仰の間にはまさにこの相反性が、このような肉の関係を切断してしまうのである。

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