日々の神の御言葉: 終わりの日における裁き | 抜粋 79
裁きの働きは神自身の働きなので、当然、神自身が行う。神の代わりに人が行うことはできない。裁きは真理を通した人への征服なので、人の間でこの働きを行うため、神はやはり受肉した姿で現れることは疑う余地がない。つまり、終わりの日には、キリストが真理を用いて地球上の人を教え、真理を用い…
愚かで無知な全人類に対する神の処分は、おもに憐れみと寛容に基づいています。その一方、神の怒りは、大部分の出来事において、ほぼ常に人間には隠され、知られることはありません。その結果、人間には神が怒りを表しているのを見極めたり、神の怒りそのものを理解したりすることは困難です。したがって、人間は神の怒りを軽視します。人間への忍耐と赦しからなる神の最終的な働きと段階に人間が直面したとき、すなわち、神の最後の憐れみと警告が人類に到達したとき、もし人間が以前と同じ方法で神に反抗したままで、悔い改めて自分自身のあり方を正し、神の憐れみを受け容れる努力を一切行なわなければ、神はもはや寛容と忍耐を人類に与えることはありません。逆に、このとき神は赦しを撤回します。その後、神は怒りしか放ちません。神が様々な方法で人間を罰し滅ぼすことができるように、神は様々な方法で怒りを表現することができます。
ソドムの町を滅ぼすために神が火を用いることは、人類や他の物を徹底的に滅ぼす神の最迅速の方法です。ソドムの住民を焼き尽くしたことで、彼らの身体だけでなく、その霊と魂と身体全体を滅ぼし、それにより物質的世界と人間には見えない世界の両方において、町にいた人々の存在の消滅が確実なものとされました。それは、神が怒りを明示し表現する方法の一つです。このような明示や表現は、神の怒りの本質の一面であり、当然ながら神の義なる性質の本質の明示でもあります。神が怒りを伝えるとき、神は憐れみと慈愛を明らかにするのを停止し、寛容と忍耐も一切見せません。神に引き続き忍耐強くあり、今一度憐れみと寛容を与えるように説得できる人間、物、理由は一切存在しません。それどころか神は一瞬の迷いもなく、神の怒りと威厳を伝え、望むことを行ないます。神は自らの望む通りに、これを迅速かつ円滑に行ないます。人間が犯してはならない神の怒りと威厳は、こうして伝えられ、それは神の義なる性質の一側面を表すものでもあります。神が人間への懸念と愛を示しているのを目撃すると、人間は神の怒りを感じることも、神の威厳を見ることも、反抗に対する神の不寛容を感じることもできません。そのため、神の義なる性質が単に憐れみと寛容さと愛のみであると人間は信じるようになりました。しかし、神が町を滅ぼし、人類を憎悪するのを目の当たりにし、人間を滅ぼす際の神の怒り、そして神の威厳を見ることで、人間は神の義なる性質の別の側面を見ることができるようになります。これが侮辱への神の不寛容です。反抗を一切甘受することのない神の性質は、あらゆる被造物の想像を超え、非被造物にもその性質を阻んだり干渉したりできるものは存在せず、その性質を模倣したり、偽ったりすることができないのは尚更です。したがって、神の性質のこの側面は、人類が一番よく知るべきものです。この種の性質は神自身のみが持ち、神自身のみがこのような性質を備えています。神がこのような義なる性質を持っている理由は、暗闇、反逆、人間を堕落させ、食いものにするサタンの悪意に満ちた行動を神が嫌悪しているからです。神に反逆するあらゆる罪の行ないを神が嫌悪しているからであり、神の聖なる清い本質のためです。それゆえ、被造物や非被造物が神に堂々と反対したり対抗したりすることを神は甘受しないのです。たとえ、神が一度憐れみを示した人や神が選んだ人でも、神の性質を挑発し、神の忍耐と寛容の原則を犯すだけで、いかなる反抗をも甘受しない義なる性質を神は一切の容赦なく、躊躇なく示すのです。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 2」(『言葉』第2巻)より
Ⅰ
人類はまず初めに神だけが持つ性質を知るべきだ。その性質は侵害を許さない。誰もそれに干渉したり、影響を与えることはできない。それはあらゆる想像を絶し、真似ることもできない。公然と神に逆らう者を神は許さない。創造物であろうとなかろうと、それが選ばれし者であろうと、憐れみを受けた者であろうとも、一度でも彼らが神の性質を侵害し、神の寛容の原則を壊せば、神は義の性質を打ち放ち、どんな侵害も許さないだろう。
Ⅱ
神はこの性質を持つ。聖なる穢れなき本質があり、神に反する罪を憎むから。神は全ての不従順と人々を堕落させるサタンの悪の行為を憎み、また、邪悪と闇を嫌う。公然と神に逆らう者を神は許さない。創造物であろうとなかろうと、それが選ばれし者であろうと、憐れみを受けた者であろうとも、一度でも彼らが神の性質を侵害し、神の寛容の原則を壊せば、神は義の性質を打ち放ち、どんな侵害も許さないだろう。
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より
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「なぜ時代の到来は神自身によって告げられなければならないのか。被造物が神の代わりになることはできないのか」と不思議に思う人がいるかもしれない。新しい時代の到来を告げるという明白な目的のために神が肉となることを、あなたがたはみな知っている。そしてもちろん、神が新しい時代の到来を告げ…
神は人々の間で自らの働きをするため、人に自らを顕すため、そして人が神を見上げることができるようになるため、地上に来た。これはささいなことだろうか。これは実に素晴らしいことだ。神が来たのは人が想像するのとは違い、人が神を見上げ、神は漠然としてあいまいな存在ではなく本物で、高尚だ…
わたしの言葉は厳しいかもしれないが、それはすべて人を救うために語られる。わたしは言葉を語っているだけで、人の肉を罰しているのではない。この言葉により、人は光の中で生きるようになり、光が存在すること、その光は貴重であること、またこの言葉が人にとっていかに有益であるか、そして神は救い…