日々の神の御言葉: 受肉 | 抜粋 106
神の本質そのものが権威を行使するが、キリストは神によってもたらされる権威に完全に服従することができる。霊の働きであれ、肉の働きであれ、互いに相反するものではない。すべての被造物におよぶ権威となるのは神の霊である。神の本質を持った肉も権威を持っているが、肉を持った神は父なる神…
ヨナ書3章 時にヤーウェの言葉は再びヨナに臨んで言った、「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。そこでヨナはヤーウェの言葉に従い、立って、ニネベに行った。ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。
ニネベの人々への神の意図の変化には、躊躇や曖昧さが一切含まれていません。むしろ、それは純粋な怒りから、純粋な寛容への変化でした。これは神の本質の真の明示です。神はその行ないにおいて、優柔不断であることや躊躇することが決してありません。神の行ないの背後にある原則と目的はすべて明白かつ透明、純粋で完璧であり、その中に策略や陰謀は一切潜んでいません。つまり、神の本質には闇や邪悪が一切含まれていないのです。ニネベの人々の悪の行いが目に留まったため、神は彼らに怒りを覚えました。このとき、神の怒りは神の本質に由来していました。しかし、神の怒りが消え、ニネベの人々に再び寛容を見せたときに神が明示したものも、やはりすべて神の本質でした。この変化は、すべて人間の神に対する姿勢の変化に起因しました。この間、侵害を許さない神の性質も、神の寛容な本質も、神の愛と憐れみに満ちた本質も変わりませんでした。人が邪悪な行動を取り、神を侵害すると、神はその人に神の怒りを下します。人が真に悔い改めれば、神の心は変化し、神の怒りは静まります。人が頑なに神に反抗し続けると、神の怒りは静まらず、神の激しい怒りは徐々にその人に迫り、最終的にその人は滅びます。これが神の性質の本質です。神が表しているのが怒りであれ、憐れみと慈愛であれ、人間の行動や振る舞い、そして心底にある神への態度が、神の性質の明示において何が表されるかを左右します。神がある人に怒り続けているならば、その人の心は間違いなく神に反抗しています。その人は真に悔い改めたことも、神の前で頭を下げたこともなく、神への真の信仰を持ったこともないため、神の憐れみと寛容を得たことがありません。ある人が神の労りや憐れみ、寛容を頻繁に受けているのなら、その人の心には間違いなく神への真の信仰があり、その心は神に反抗していません。その人はしばしば神の前で正直に悔い改めるので、その人にしばしば神の懲らしめが下ったとしても、神の怒りが下ることはありません。
この簡潔な記述により、人は神の心、神の本質の現実性を見て、神の怒りと神の心の変化には理由があるということを理解できるようになります。神が怒っていたときと心を変えたときに見せた際立った違いにより、神の怒りと寛容という神の本質の二側面には大きな隔たりや違いがあると人々は考えます。しかし、ニネベの人々の悔い改めへの神の姿勢に、神の真の性質の別の側面を人は見ることができます。神の心の変化により、人は神の憐れみと慈愛の真実を再び見、神の本質が真に明示されるのを見ることができます。人間は、神の憐れみと慈愛が単なる神話でも虚構でもないということを認めるほかありません。それは、その時点での神の感情、神の心の変化は真実であり、神はまさしく憐れみと寛容を再び人間に与えたからです。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 2」(『言葉』第2巻)より
Ⅰ
神は決然としてことを為す。 神の目的と原則はいつも簡潔で明瞭だ。 企みも策略も一切なく、 全てが純粋で完璧だ。 神の本質には闇も悪も全くない。 人々の邪悪な行いが神を怒らせる時、 真に悔い改めなければ、 神は彼らの上に怒りを注ぐ。 人々が神に背き続けるなら、 神の憤りは彼らが滅ぶまで止まない。 これが神の性質なのだ。 そう 神の憐れみや憤りは 人の行いと神への態度に基づいているのだ。
Ⅱ
神が怒りを燃やし続けるなら、 その人の心は間違いなく神に背いている。 神の前にひざまずき悔い改め、 真の信仰を持たないので 彼は神の憐れみも寛容も得たことがない。 人々が神の配慮、憐れみ、寛容を受けるなら、 その心の中には間違いなく神への本当の信仰がある。 彼の心は神に反していないし悔い改めれば、 神の懲らしめがあっても神の怒りは注がれない。 そう、神の憐れみや憤りは 人の行いと神への態度に基づいているのだ。
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より
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神と人を同等なものとして語ることはできない。神の本質と神の働きは人にとって最も深遠で理解しがたい。神が人の世でみずから働きを行わず、言葉を話さなかったら、人は決して神の意志を理解することはできないし、全生涯を神に捧げてきた人々でさえ、神の承認を得ることはできない。神の働きがなけれ…
人々の外面的性質を取り扱うことも神の働きの一部である。例えば、人々の外面の異常な人間性、あるいはライフスタイルや個人的習慣、生活様式や慣習、ならびに外面的実践や熱心さなどを、神は取り扱う。しかし、神が人々に真理を実践し、性質を変えるよう要求する時、主に取り扱われるのは彼らの心の中…
神は実際的な神である。神の全ての働きは現実であり、神が話す全ての言葉は現実であり、神が示す全ての真理が現実である。神の言葉でないものは全て空虚で、存在しないも同然であり、確かでない。今日、聖霊は人々を神の言葉に導いている。もし人々が現実に入ることを追求しようとするならば、彼ら…