日々の神の御言葉: 神を知る | 抜粋 90
創造されたもの、それ以外のもののいずれも、創造主の身分に代わることはできない 神が万物の創造を始めた時から、神の力が現され、明示され始めた。なぜなら、神は万物を創造する際に、言葉を用いたからである。神が万物をどのように創造したか、なぜ創造したかを問わず、神の言葉により万物が出現…
様々な人の経験は、その人の内部にあるものを表している。霊的経験のない人は誰も真理の認識について話すことはできず、さまざまな種類の霊的な事柄についての正しい認識についても話すことはできない。人が表すものは、その人の内なるものであり、それは確かである。霊的な事柄や真理の認識を得たいと願うなら、本当の経験を持たなければならない。人間の生活における常識について明確に話すことができなければ、霊的な事柄について話すことなどどうしてできようか。教会を導くことができ、人々にいのちを与えることができ、人々の使徒になることができる人には実際の経験がなくてはならない。また、霊的な事柄を正しく理解し、真理の正しい認識と経験もなくてはならない。そのような人だけが教会を導く働き手、あるいは使徒となる資格を有する。さもなければ、最も小さき者として後に従うことができるだけで、導くことはできず、ましてや人にいのちを与える使徒になることはできない。使徒の役割は走りまわったり、戦ったりすることではなく、いのちの世話をする働きをし、性質の変化において他の人たちを導くことだからである。この役割を果たす人は重い責任を背負う任務を与えられていて、これは誰もが背負えるわけではない。この種の働きはいのちを持つ人、すなわち真理の経験を持つ人のみが請け負うことができる。ただ何かを諦めることのできる人、走りまわれる人、自分自身を喜んで費やすことができる人ならばできるということはない。真理の経験のない人、刈り込まれたり裁きを受けたりしたことのない人はこの種の働きを行うことはできない。経験のない人は現実性がないが、現実をはっきり見ることができないのは、彼ら自身にこのような本質がないからである。つまり、この種の人は指導的な働きができないだけでなく、長期間にわたり真理を得ないままであれば、排除の対象になる。あなたが表す見識は、あなたが人生で経験してきた困難、どのようなことで刑罰を受けたか、どのような問題で裁きを受けたかの証拠になりえる。これは試練にもあてはまる。人がどこを精錬されるか、どこが弱いかが、人が経験をする場所、道を得る場所である。たとえば、結婚で挫折に苦しむ人は、「神に感謝。神を称えよ。わたしは神の心の願望を満足させ、わたしの人生の全てを捧げ、結婚をすっかり神の手に委ねなければならない。わたしは喜んで全人生を神に差し出します」のようによく言う。人の中にあるすべてのものは、交わりを通してその人そのものを表すことができる。話す速さ、大声で話すか、静かに話すかなど、このようなことは経験に関係なく、その人の持つものやその人そのものを表すことはできない。その人の性格の良し悪し、あるいは本性の良し悪しを表すだけで、その人に経験があるかどうかと同一視することはできない。話すとき自分自身を表現する能力、または話す技量や速度は練習の問題であって、経験と置き換えることはできない。個人的経験について話すとき、あなたは自分が重要と思うことや自分の内なるすべてについて話す。わたしの話はわたしの存在を表すが、わたしの言うことは人の力の及ぶものではない。わたしの言うことは人が経験することではなく、人に見えるものではない。それはまた、人が触れることができるものでもなく、わたしそのものである。わたしが話すことはわたしが経験したものであることだけは認めるが、それが聖霊の直接的表現であることを認識しない人がいる。もちろん、わたしの言うことはわたしが経験したことである。六千年にわたり経営の働きをしてきたのはわたしである。人類創造の初めから今に至るまで、わたしはあらゆることを経験してきた。わたしがそのことについて語れないわけがあろうか。人の本性といえば、わたしははっきり見たし、長いあいだ観察した。それについて明確に語れないわけがあろうか。人の本質を明確に見てきたので、わたしには人を罰したり裁いたりする資格がある。人はすべてわたしから来たのに、サタンに堕落させられたからである。もちろん、わたしはこれまでわたしが行なってきた働きを評価する資格もある。この働きはわたしの肉が行うことではないが、霊の直接的表現であり、これはわたしが持っているもの、わたしそのものである。したがって、それを表し行うべき働きを行う資格がわたしにはある。人が言うことは自分が経験してきたこと、見てきたもの、人の精神が到達できるもの、人の感覚で探知できるものである。これが人が語ることができるものである。神の受肉した肉が語る言葉は霊の直接的表現であり、それらは霊によってなされた働きを表す。肉はそれを経験しても見てもいないが、それでも神はその存在を表す。その肉の本質は霊であり、神は霊の働きを示すからである。肉では到達できなくても、それは霊によってすでに行われた働きである。受肉のあと、肉の表現を通して神は人に神の存在を知らしめ、人に神の性質、ならびに神がした働きが見えるようにする。人の働きによって、人は自分が何に入っていき、何を理解するべきかをさらに明確にすることができる。それには、真理を理解し経験する方向に人々を導くことが含まれる。人の働きは人々を支えることである。神の働きは人類のために新しい道と新しい時代を開き、普通の人間には知られていないことを人々に明らかにし、神の性質をわからせることである。神の働きは全人類を導くことである。
『神の出現と働き』「神の働きと人の働き」(『言葉』第1巻)より
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神の働きは時代ごとに異なるのである。もしあなたが、ある局面では立派に従うが、次の局面になるとそれ程従わないか全く従わないというのであれば、神はあなたを見捨てるだろう。今の段階を神が上がっていくにつれ神に付いて行っているのであれば、次の段階でも神に付いて行かなければならない。そうし…
神の国の建設は正式に始まっているが、神の国の礼砲はまだ鳴り響いていない。現在、それはこれから起こることの預言に過ぎないのである。民がみな完全にされ、地上のすべての国がキリストの国となるとき、それは七つの雷鳴が轟くときである。現在はその段階へと大きく前進するときであり、その日に向…
働きと言うと、それは神のために走り回り、あらゆる場所で説教を行ない、神のために費やすことだと人間は信じている。その考えは正しいが、あまりに一面的である。神が人間に求めているのは、自身のために走り回ることだけではない。それ以上に、この働きは霊の中において務め、与えることである。多く…