日々の神の御言葉: いのちへの入り | 抜粋 502
人々はよく、神を自分のいのちにさせることを口にするが、彼らの経験はまだそこまで至っていない。あなたは単に、神は自分のいのちで毎日自分を導いてくれる、自分は毎日神の言葉を飲み食いしている、そして自分は毎日神に祈っているのだから、神が自分のいのちになったと言う。こうしたことを言う人の…
人の頭脳内の働きは人にはあまりにも容易に達成できる。たとえば、宗教界の牧師や指導者は自分の才能や立場に依存して働く。長い間彼らに従う人は、その才能に感化され、その存在の一部に影響を受ける。彼らは人の才能、能力、知識に重点を置き、超自然的なものや多くの深遠で非現実的な教義に注目する(もちろん、これらの深遠な教義は達成不可能である)。彼らは人の性質の変化に注目せず、むしろ人が説教し働くようになるような訓練に注目し、人の知識を向上させ豊富な宗教的教義を充実させようとする。人の性質がどのくらい変化するかや、人がどのくらい真理を理解しているかには注目しない。彼らは人の本質には関心を持たず、ましてや人の通常の状態、異常な状態を知ろうとはしない。彼らは人の観念に反論せず、観念を明らかにもしないし、ましてや人の欠点や堕落を刈り込んだりはしない。彼らに従う人のほとんどは自分の才能をもって奉仕し、彼らが放つのは宗教的な観念と神学的な理論だけであり、それは現実とは離れており、人にいのちを与えることはまったくできない。実際、彼らの働きの本質は才能を育むこと、何もない人を、後に働いて他者を導くことになる有能な神学校卒業生に育てることである。六千年に及ぶ神の働きにおいて、あなたは何か規律を見つけ出すことができるのか。人が行う働きの中にはたくさんの規則や制限があり、人間の脳はあまりに教条主義的である。ゆえに、人が表すことはその人の経験の範囲内にある理解と認識であり、これから離れては人は何も表すことができない。人の経験あるいは認識は、生まれながらの才能や本能から生じるものではなく、神の導きと神の直接的牧養により生じる。人はこの牧養を受け入れる能力を持っているだけで、神性とは何であるかを直接表すことのできる能力は持っていない。人は源になることはできず、源から水を受ける器になれるだけである。これが人間の本能、人間として持つべき能力である。神の言葉を受け入れる能力を失い、人間の本能を失った人はもっとも貴重なものも失い、被造物である人としての本分を失う。神の言葉または神の働きについての認識や経験がない人は、その本分、つまり、被造物として行うべき本分を失い、被造物としての尊厳を失う。肉において表されようと、霊に直接表されようと、神性が何であるかを表すのは神の本能であり、これが神の職分である。人は自分自身の経験や認識(つまり自分は何であるかということ)を神の働きの間かその後に表す。これは人の本能であり本分であり、人が達成すべきことである。人の表現は神が表すものに遠く及ばないし、人の表すものは多くの規則に縛られているが、人は果たすべき本分を果たすべきであり、しなければならないことをしなければならない。自己の本分を果たすために人間的に可能なすべてを人はしなければならず、このことをほんの少しでさえもためらってはならない。
『神の出現と働き』「神の働きと人の働き」(『言葉』第1巻)より
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新約のマタイの福音書にはイエスの系図が記載されている。冒頭で、イエスはアブラハムおよびダビデの子孫、ヨセフの子だったと述べられている。次に、イエスは聖霊によって受胎され、処女から生まれたとある。すると、イエスはヨセフの子でもなければ、アブラハムおよびダビデの子孫でもないことにな…
人の働きは人の経験と人間性を意味する。人が提供するものと人が行う働きは人を表す。人の見識、論法、論理、豊かな想像力はすべて人の働きに含まれる。人の経験は特に人の働きを意味することがあり、ある人の経験はその働きの構成要素になる。人の働きはその人の経験を表すことがある。人が消極的な経…
正常な霊的生活を送るには、日々新たな光を受け取ることができ、神の言葉を真に認識しようと求めなければならない。真理をはっきりと見すえ、すべてにおいて実践の道を見出し、日々神の言葉を読んで新たな問題を発見し、自分の不備に気づかなければならない。それは自分の全存在を揺り動かすほど慕い求…