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言葉は肉において現れる(続編)朗読

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言葉は肉において現れる(続編)朗読

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終わりの日のキリストの語られる言葉(選集)朗読

神の道を歩む:神を畏れ、悪を避けよ

心に留めるべき格言がある。この格言は極めて重要だと思う。なぜなら、わたしはこの格言を毎日何度も思い出すからである。それは何故であろうか。それは、誰かと会う度、そして誰かの経験談や神への信仰の証しを聞く度、必ずわたしはこの格言を用いて、その者が、神が求め、好むような人間であるかを測るからである。それでは、その格言とは何であろうか。皆それを聞こうと気が早るであろう。わたしがこの格言を述べると、あなた方はおそらく落胆するであろう。なぜなら、今までこの格言を口先だけで言う者が多数いたからである。しかし、わたしは口先だけでこの格言を述べることは決して無い。この格言はわたしの心の中で生きている。その格言とは何であろうか。それは「神の道を歩みなさい。神を畏れ、悪を避けよ」である。これは極めて簡潔な言葉ではないだろうか。しかし、この格言は簡潔でありながら、この格言を深く理解する者は、この格言は非常に重みがあり、実践する際に価値が高く、真理の現実が含まれるいのちの言葉であり、神に満足してほしいと望む者にとって一生涯の努力目標であり、神の趣意を配慮する全ての者にとって一生涯の道である、と感じるであろう。あなた方はどう思うだろうか。この格言は真理であろうか。この格言にはそうした重要性があるであろうか。おそらく、この格言について、考えて理解しようとする者と、疑念を抱く者がいるであろう。この格言は極めて重要であろうか。これは極めて重要であろうか。この格言は、強調する必要と価値のあるものであろうか。おそらく、神の道をこのひと言の格言に集約するというのは簡略化しすぎであると考え、それが理由でこの格言がそれほど好きでは無い者もいるであろう。神の言葉全てをひと言に集約するというのは、神を軽視しすぎでは無かろうか。この格言は、そうしたものであろうか。あなた方のうち、殆どの者がこの言葉に隠された重大な意味を完全に理解していないかも知れない。あなた方はこの格言を書き留めたが、この格言を心に留めるつもりはなく、単に書き留め、後で時間があるときに、もう一度よく考える程度だ。この格言を覚えようともせず、ましてや活用しようと努力することなど無いという者もいる。しかし、わたしがこの格言について話をするのは、何故であろうか。あなた方の観点や、あなた方が何を考えるかを問わず、この格言について話をする必要がある。なぜなら、この格言は神が人間の結末を決定する方法に極めて密接に関係しているからである。あなた方が現在この格言をどのように理解し、取り扱っているかを問わず、あなた方に伝えることがある。ある者がこの格言を正しく実践して神を畏れ悪を避ける基準を満たすことが出来るとしたら、その者の生存と好ましい結末は保証される。この格言で定められた基準に達せなかった場合、あなた方の結末は不明であると言える。したがって、心の準備をするため、また神があなた方を評価する時に用いる基準を知ることが出来るようになるために、あなた方にこの格言を伝える。たった今述べた通り、この格言は神による人間の救いと人間の結末の決定方法に極めて関連性が深い。その関連性はどこにあるであろうか。あなた方は心から知りたいと思っているので、本日はそれについて伝える。

神は様々な試練により、人間が神を畏れ、悪を避けているか否かを試す

何時の時代においても、神はこの世で業を行う時、真理を伝える言葉を人間に与える。こうした真理は、人間が守るべき道、通るべき道、神を畏れ、悪を避けられるようにする道、生活や人生の旅路の中で実践し、そして遵守すべき道として機能する。これが、神がこれらの言葉を与える理由である。神に由来するこれらの言葉は、人間が守るべきものであり、人間にとって、それを守ることはいのちを授かることを意味する。人間がそうした言葉を守らず、実行せず、人生を神の言葉通りに生きなかった場合、その者は真理を実行していないことになる。そして、人間が真理を実行しなかった場合、人間は神を畏れず、悪を避けておらず、神に満足してもらうことは出来ない。ある者が神に満足してもらえない場合、その者は神の賞賛を得られないので、その者には良い結末が無い。それでは、神は、どのようにして業のなかで人間の結末を決めるのであろうか。人間の結末を決める際に神が採る方法は何であろうか。おそらくあなた方は、今この問題について明確に理解していないであろうが、 その過程をわたしが伝えた後は、明瞭に理解できるであろう。それは、多くの人々が既にそれを自ら経験しているからである。

最初の時から現在に至るまでの、神の業全体を通して、神は各人(神に付き従う者全てと言ってもよいだろう)に試練を定めており、それらの試練の大きさは様々である。自分の家族から拒否される試練を経験した者もいれば、逆境の試練を経験した者や、拉致されて拷問される試練を経験した者、選択に迫られる試練を経験した者、金銭や地位の試練を経験した者もいる。概して、あなた方は、それぞれこうした試練を受けたことがある。神がこのように業を行うのは、何故だろうか。神が各人をこのように扱うのは、何故だろうか。神はどのような結果を望んでいるのであろうか。わたしの話の要点はこのことである。すなわち、神は、その者が神を畏れ、悪を避けるような人間であるかを知ることを望んでいる。これは、神があなた方に試練を与え、ある一定の状況に直面させる時、神はあなた方が神を畏れ、悪を避ける人間であるかどうかを試したいのだということを意味する。ある者が捧げ物を守る役割になり、神の捧げ物に接する事になった場合、あなた方は、それが神の采配であると思うだろうか。もちろんその通りである。あなた方が直面するあらゆる物事は神の采配である。あなた方がこのような物事に直面した時、神はあなた方を隠れて観察し、あなた方の選択や行動、思考がどのようなものであるかを見ている。神が最も高い関心を寄せるのは、その結果である。なぜなら、その結果により、神はあなた方がその試練で神の基準に達したかどうかを評価できるようになるからである。しかし、人々は、ある物事に直面した時、その物事に直面している理由や、神により求められている基準について考えないことが多い。こうした人々は、神が自分の何を評価したいのか、自分から何を得たいと思っているのかを考えない。この捧げものに関する問題に直面したとき、こうした人々は、「これが目下の問題か。不注意にならず、よく注意する必要がある。それが何であれ、それは神の捧げ物だから、触れてはならない。」と考えるだけである。こうした人々は、そうした安易な考えで自分の責任を果たせると考えている。神はその試練の結果に満足するであろうか。あるいは、満足しないであろうか。あなた方の意見を述べて欲しい。(ある者が神を心から畏れているとすれば、神の捧げ物に触れることの出来る任務に直面した場合、神の性質が如何に侵害されやすいかを考えるので、間違いなく注意して取り組むであろう。)その考え方は正しいが、正解に達していない。神の道を歩むことは、表面的な規則に従うことではない。それは、ある物事に直面した時、まず、それを神の采配によるもの、神から与えられた責任、あるいは神から委ねられた物事であることを認識し、また直面したその物事に対し、それを神の試練であるとすら捉える必要がある、ということである。この問題に直面する時、あなたには一定の基準がなくてはならず、それが神から与えられたものであると考える必要がある。自分の責任を果たし、神に忠誠を尽くすために、その問題をどう扱うかを考慮する必要がある。神の怒りを買ったり、神の性質を侵害したりせずにそれを実行する方法を考慮する必要がある。つい先ほど、捧げ物を守る事について話をした。この問題には、捧げ物のほかに、あなたの任務、責任が関係する。あなたは、その責任について任務が課せられている。しかし、あなたがこの問題に直面した時、何らかの誘惑はあるか、というと、誘惑がある。その誘惑は何に起因するであろうか。その誘惑はサタンと、人間の邪悪で腐敗した性質に起因する。誘惑があるので、証しに立つことが関与する。証しに立つこともまた、あなたの責任であり、任務である。一部の人々は、「それは些細なことだ。それほど深刻に捉える必要が本当にあるのだろうか」と言うが、その必要は本当にある。神の道を歩むためには、自分自身に関する事柄や、自分の周囲で起こる事柄は、小さいことでも、すべてないがしろには出来ない。自分がそれに注意すべきであるかどうかを問わず、問題に直面している限り、それを無視してはならない。そうした事柄は、全て神からの試験であるとみなす必要がある。こうした姿勢は、どのようなものであろうか。あなたが、こうした姿勢をとっている場合、それにより、ある事実が確認される。すなわち、あなたの心が神を畏れていること、そして悪を避けることを望んでいるということである。あなたに、神に満足してほしいという願望があるなら、あなたが実行する事柄は神を畏れ、悪を避ける基準とかけ離れていることは無い。

人間がそれほど気にかけない事柄、通常は話題とならない事柄は、取るに足らない些細な事柄であり、真理を実行することとは無関係であると考える人々が往々にしている。そうした人々がこのような物事に直面した場合、そうした人々は、それほど考慮することなく放置する。しかし、事実としては、こうした事柄は、あなたが学ぶべき教訓、どのように神を畏れ、悪を避けるかに関する教訓である。さらに、それ以上に配慮すべきことは、その問題が発生して自分が直面した時、神は何をしているかを知る事である。神は、あなたのすぐ側で共にいて、あなたの言うことなすことを観察し、あなたの行動を観察し、心の動きを観察している。これが神の業である。一部の人々は、「それでは、私がそれを感じないのは何故だろうか」と言う。あなたがそれを感じないのは、神を畏れ、悪を避ける道が、守るべき道として、あなたにとって最も大切な道となっていないからである。したがって、あなたは、人間の様々な考え方や行動に従って示される、神の人間に対する微妙な業を感じることが出来ない。あなたは注意力散漫である。大きな問題は何であろうか。小さな問題は何であろうか。神の道を歩むことが関与する問題は、大小の区別が無い。そのことが理解できるであろうか。(理解できる。)日常の問題に関しては、人間が重大な問題であると捉える問題と、些細であるとみなす問題がある。人間はこうした大きな問題を極めて重要な問題と考え、それが神により与えられたものと考える。しかし、こうした大問題が発生する過程においては、人間の未熟な背丈が原因となり、また人間の貧弱な力量が原因となって、神の趣意に従うことが出来ず、神の啓示や、価値のある実質的認識が全く得られないことが往々にしてある。些細な問題については、人間に軽視され、放置されて徐々に意識からなくなることが多い。そのようにして、人間は神の前で神に検証され、試される数多くの機会を逃している。このような、神があなたのために計画した人々、出来事、物事や状況を常に軽視したとしたら、どのような結果になるであろうか。その結果、あなたは、あなたを全き者とする日々のそして瞬間瞬間の神の業と神の指揮を、常に放棄することとなる。神があなたのために一定の状況を計画する時は、毎回あなたの心、思いや思想、考え方、行動のしかたを、常に神が隠れて観察している。あなたが不注意な場合、すなわち神の道、神の言葉、真理に真剣に取り組んだことが無い場合、神がその状況をあなたのために計画した際に、神が完全にしたい物事や神があなたに要求している物事に、注意することも配慮することも無いであろう。また、こうした人々、出来事や物事が真理や神の趣意にどのように関連するかを知ることも無いであろう。繰り返し起こる状況や試練に遭遇しても、あなたが何かを達成するのを神が見ることがなかったら、神はどのように事態を進行させるであろうか。何度試練に遭遇しても、あなた方の心は神を賛美せず、神があなたのために計画した状況を、神からの試練もしくは試験としてそのまま受け入れない。そして、神があなたに与えた機会を次々と拒否し、何度も逃す。それは人間の大いなる反抗ではないだろうか。(その通りである。)神はそれを悲しむであろうか。(悲しむ。)神は悲しまない。わたしがこう言うのを聞いて、あなた方は再び驚いたであろう。結局のところ、神はいつも悲しむと既に聞いているではないか。神は悲しまないであろうか。それでは神は何時悲しむであろうか。いずれにせよ、神はこの状況が原因で悲しむことはない。それでは、上記のような行動に対して、神はどのような姿勢を取るであろうか。神が人間に与えた試練、試験を人間が拒否した場合や、人間がそれらを回避した場合、神のそうした人々に対する姿勢はただひとつである。その姿勢とは何であろうか。神はそうした人々を心の底から拒否する。ここでは「拒否」という言葉の意味には2つの階層がある。それをどのようにして説明すればよいだろうか。この言葉の深層には、嫌がる、嫌悪する含意がある。それではもうひとつの階層についてはどうだろうか。もうひとつの階層は、何かを諦めるという含意である。「諦める」の意味は、皆知っているであろう。つまり、拒否されるとは、このような行動をとる人間に対する神の最終的な反応を意味する。それは、極端な憎しみと嫌悪であり、見捨てられるという決断である。これが、神の道を一切歩んだことの無い者や、神を畏れ、悪を避けた事の無い者に対する、神の最終的な判断である。これで、皆わたしが説明した格言の重要性が理解できたであろうか。

これで、人間の結末を決める際に神が採る方法を理解できたであろうか。(毎日、様々な状況を計画することである。)毎日、様々な状況を計画することであるというのは、人々が感じ取り、認識可能な事柄である。そうした神の業の動機は何であろうか。それは、神が各人にそれぞれ異なる時期に、異なる場所で、異なる試練を与えたいと考えているということである。この試練では、人間のどの側面が試されるのであろうか。それは、あなたが遭遇したり、聞いたり、見たり、個人的に経験したりする物事すべてにおいて神を畏れ、悪を避けるような者であるかどうか、である。あらゆる者が、こうした試練を経験する。なぜなら、神は万人に対して平等であるからである。一部の人々は、「私は長年にわたって神を信仰しているが、未だに試練に遭遇しないのは何故だろうか」と言う。あなたが試練に遭遇したことが無いというのは、あなたのために神がある状況を計画した時、あなたは常にそれを真剣に捉えたことが無く、神の道を歩むことを望まなかったからである。そうしたわけで、単にあなたが神の試練に気付かなかっただけである。一部の人々は、「数回の試練に遭遇したが、適切な実行方法が分からない。私は実行したが、自分が試練の中で固く立っていたかどうか、未だに分からない。」と言う。こうした状況にある者は少なからずいる。それでは、神が人間を評価する際の基準は何であろうか。それは先ほど述べた通りである。すなわち、あなたのする事柄、考える事柄、表現する事柄は、全て、神を畏れ、悪を避けるようなものであるか、である。これが、あなたが神を畏れ、悪を避ける人間であるかどうかを判断する方法である。この概念は簡素であろうか。言葉で表現すると簡素であるが、実行するのは容易であろうか。(あまり容易ではない。)あまり容易でないのは何故であろうか。(人間は神や、神が人間を全きものにする方法を知らないので、物事に対処する時に、問題解決のために真理を求める方法を知らないからである。人間が現実として神を畏れるようになるには、様々な試練、洗練、刑罰、裁きを経験する必要がある。)あなた方はそう言うが、あなた方にとって、神を畏れ、悪を避けることは、今すぐ容易に出来るように思える。わたしがこう述べるのは何故であろうか。それは、あなた方が何度も説教を聞き、真理の現実に関して沢山受け取っているからである。そのことにより、理論や概念に関しては、神を畏れ、悪を避ける方法を理解することが出来ている。あなた方が神を畏れ、悪を避けることを実行することに関しては、そうした理論や概念は極めて効果的であり、容易に実行出来るように感じさせる。それでは、実際には人々がそれを実行出来ないのは何故であろうか。それは、人間の本質は、神を畏れず、悪を好むからである。それが本当の理由である。

神を畏れず、邪悪を避けないことは、神への反逆である。

まず、「神を畏れ、悪を避ける」という格言の由来について話をする。(ヨブ記である。)ヨブと言った者がいるので、ヨブについて話をする。ヨブの時代に、神は人間の征服と救いの業を行っていたであろうか。神はその業を行っていなかったであろう。そうであれば、ヨブは当時、神に関してどの程度の認識があったであろうか。(認識はそれほど多くなかった。)それでは、神に関して、ヨブの認識と今のあなた方の認識と比較すると、どうであろうか。あなた方が答えるのをはばかるのは何故だろうか。ヨブの認識は、今のあなた方の認識より多かったであろうか、少なかったであろうか。(少なかった。)質問の答えは明白である。ヨブの認識は、少なかった。それは確かである。現在、あなた方は、神や神の言葉と面と向かっているような状態である。あなた方の神に関する認識は、ヨブの認識よりも遙かに多い。わたしがこのことを取り上げたのは何故だろうか。わたしがこう述べるのは何故であろうか。あなた方に、ある事実を説明したいと思うが、その前に質問することがある。ヨブは神に関する認識が少ししか無かったが、神を畏れ、悪を避けることができた。それでは、現在の人間にそれが出来ないのは何故であろうか。(酷く堕落しているからである。)酷く堕落している、というのは、表面的な回答であるが、わたしは決してそう思わない。あなた方は、「酷い堕落」「神への反逆」「神に対する不忠」「不従順」「真理と繋がっていない」など、一般に言われている原理や言葉を挙げて、全ての疑問を説明しようとする。そうした行動は誤っている。性質が異なる複数の質問の答えとして、同じ語句を用いるというのは、必然的に真理や神への冒涜の疑いが生まれる。わたしは、そうした回答を聞きたくはない。それを考えて欲しい。あなた方のうち、この問題を考えたことのある者はいないが、わたしは毎日欠かさずにその問題を見て、それを感じている。あなた方はそうした行動をとり、わたしはそれを見ている。あなた方がそうした行動を取っている時、この問題の本質を感じることは出来ない。しかし、わたしがその問題を見ると、わたしにはその本質が見え、それを感じることが出来る。その本質とは何であろうか。現在の人々が、神を畏れることも、悪を避けることも出来ないのは、何故だろうか。あなた方の回答では、この質問の本質を説明することが全く出来ず、この問題の本質を解決出来ない。なぜなら、この問題には、あなた方が知らない根源があるからである。その根源とは何であろうか。あなた方はそれについて話を聞きたいと思うであろうから、この問題の根源について話をする。

神が最初に業を行った時、神は人間をどのように見なしたであろうか。神は人間を救済した。つまり、神は人間を神の家族の一員、神の業の対象、征服の対象、救いの対象、神が全きものとすべき対象と見なした。神が業を始めた当時、神の人間に対する姿勢は、このようなものであった。しかし、この当時において、人間の神に対する態度は、どのようなものであっただろうか。神は人間と疎遠であり、人間は神を見知らぬものとみなした。人間の神に対する姿勢は誤っており、人間は神への接し方を明確に知らなかったと言えるだろう。そこで、人間は神に対して、自分の好きなように接し、行動した。人間には、神に関する観点があったであろうか。当初、人間には神に関する観点が無かった。人間が観点と呼んでいたものは、単に神に関する概念であり、想像であった。人間が持っていた概念に該当するものを人間は認め、該当しないものについては、表面上は従ったが、人間は強く反発し、反感を抱いていた。これが当初における人間と神の関係であった。つまり、神は人間を家族とみなしていたが、人間は神を見知らぬ存在として扱った。しかし、一定期間にわたる神の業の後、人間は神が何を実現しようとしているかを理解するようになった。人間は、神が真の神であり、人間が神から与えられ得るものごとが分かるようになった。この当時において、人間は神をどのようにみなしていたであろうか。人間は、神を命綱とみなし、恵みと祝福、約束を得ることを願っていた。その一方、この時点において、神は人間をどのようにみなしていたであろうか。神は、人間を征服対象と見なしていた。神は言葉により人間を裁き、試し、試練を与えることを望んでいた。しかしこの時点において、人間にとって、神は自分自身の目標を達成するために利用できるものであった。人間は、神により示された真理は征服と救いをもたらす能力があること、そしてそこには神から求める物事、人間が求める終着点を得る機会があることを知った。そのため、人間の心には僅かな誠意が生まれ、神に付き従うことを望んだ。その後しばらくして、人間は神に関する表面的な教義上の認識を得た。人間は次第に神と「馴染んで」いった、と言えるであろう。神の言葉や説教、神が与えられた真理、業などのため、人間は徐々に神に「馴染んで」いった。したがって、人間は、神が見知らぬ存在ではなくなった、人間は既に神に従う道を歩んでいるものと誤解した。現在に至るまで、人間は真理に関する説教を数多く聞き、神の業を数多く体験してきた。しかし、様々な要素や状況による干渉や妨害を受け、大部分の者が真理を実践することも、神に満足してもらうことも出来ない。人間は益々怠惰で自信を喪失した状態になっている。人間は、益々自分の結末が不明であると感じるようになっている。人間は敢えて遠大な理念を持つことなく、進歩しようとしない。人間は不本意ながら流され、一歩ずつ前進する。現在の人間の状態について、神の人間に対する態度は、どのようなものであろうか。神の唯一の願望は、そうした真理を人間に与え、人間に神の道を浸透させ、様々な方法で人間を試すために様々な状況を用意することである。神の目標は、そうした言葉、真理、業により、人間が神を畏れ、悪を避けることが出来るような結末をもたらすことである。わたしの知る大部分の人々は、神の言葉を、教義であり、文書であり、従うべき規則であるとみなしている。人間が何かに取り組み、話をし、試練に直面する時、人間は、神の道を、人間が遵守すべき道として認識しない。人間が大きな試練に直面した時には尚更そうである。そのような時に神を畏れ、悪を避けようと実践している者を、わたしは見た事が無い。そのため、神の人間に対する姿勢は、激しい嫌悪と反感に満ちている。神が人間に対し、時には数百回にわたって繰り返し試練を与えても、神を畏れ、悪を避けることを望むという決意を示す明らかな姿勢が人間には見られない。人間にはこの決意が欠けており、またそうしたことを表現しないので、現在における神の人間に対する姿勢は、神が憐れみや寛容を示し、忍耐や我慢を示していた、以前の姿勢と同じではなくなってしまった。むしろ、神は人間に極めて深く落胆している。こうした落胆の原因となるのは、誰であろうか。神の人間に対するこのような姿勢を左右するのは、誰であろうか。それは、神に付き従うひとりひとりである。神の長年におよぶ業のなかで、神は人間に対して数多くの要求を伝え、人間のために様々な状況を計画した。しかし、人間がどのように行動するか、神に対する人間の姿勢がどのようなものかによらず、人間は、神を畏れ、悪を避けるという目標に明白に従って実行することが出来ない。したがって、そうした事柄をひとつの格言にまとめ、その格言を用いて、先ほど話をした、神を畏れ、悪を避けるという神の道を歩むことが出来ない理由に関して全て説明する。それは、どのような格言であろうか。その格言とは、神は人間を神の救いの対象とみなし、神の業の対象とみなす。人間は神を自分の敵とみなし、正反対のものとみなしている。あなた方は、これについて明確に理解したであろうか。人間の姿勢、神の姿勢、人間と神の関係といった事柄は、極めて明瞭である。如何に数多くの説教を聞いたとしても、あなた方が自分でまとめた事柄、すなわち神に忠誠であること、神に従うこと、神に従う道を求めること、人生を神と共に過ごすことを望むこと、神のために生きることなどは、わたしにとっては、意識的に神の道を歩むことつまり神を畏れ、悪を避けることでは無い。そうではなく、こうした事柄は、あなた方が特定の目的を達成するための道筋である。これらの目的を達成するため、あなた方は一部の規則に不本意ながら従う。さらに、神を畏れ、悪を避ける道から人間を遠く引き離し、神を再び人間に反対する立場に置くのは、まさにこうした規則である。

本日話をしている問題は、多少重い内容であるが、どのようなものであったとしても、今後の経験において、わたしが述べた事柄をあなた方が実行できることを願っている。神を無視したり、空気のようなものとみなしたりしてはならず、自分に都合の良い時だけ神が存在するような気がするが、それ以外の時は神が存在しないような気がするようであってはならない。あなたが、無意識のうちにそのように認識している場合、あなたは既に神を激怒させている。おそらく「神を空気のようなものとみなしたことは無いし、常に神に祈りを捧げ、神に満足してもらっている。自分の行動もすべて神の要求されている範囲や基準、原則に該当する。自分は独自の考えで物事を進めてなどいない。」と言う者がいるかも知れない。物事に取り組む姿勢は確かに正しい。しかし、何らかの問題に直面した時、あなた方はどう思うであろうか。何らかの問題に直面した時、あなた方はどう実行するであろうか。神に祈りを捧げ、願い事をしているときだけ、神の存在を感じる者もいるであろう。しかし、問題に直面した時、そうした者は自分で考えた事に固執したがる。こうした行動は、神を空気のような存在とみなすものである。こうした状況において、神は存在しないとみなされている。人間は、神は、自分に神が必要な時だけ存在すべきであり、不要な時は存在すべきでないと考えている。人間は、自分の考えに従って行動すれば、それで十分であると考える。人間は自分が満足する方法で行動できると考えている。人間は、神の道を求める必要は無いと考えている。現在こうした状態、こうした状況にある者には、危険が差し迫っているのではなかろうか。一部の人々は、「危険が差し迫っているか如何によらず、自分は長年にわたり信仰を続けて来たし、神は私を見捨てることに耐えられないので、私を見捨てられないだろうと思う。」と言う。「私は、自分が母親の胎内にいた時から現在まで、通算40年から50年の間、主を信じている。時間に関して言えば、神に救われる者として最も適格である。生き残る者として、自分は最も適格である。この40~50年間のうちに、自分は家族も職務も捨てた。金銭や地位、楽しみや家族で過ごす時間など、持っていた物すべてを捨てた。あれこれと贅沢な食事をしたこともなく、楽しみに興じたこともない。あちこち名所観光をしたわけでもない。普通の人間が耐えきれないような苦悩も経験してきた。それでも神が私を救えないとしたら、私は不当に扱われていることになり、そうした神は信じられない」と言う者もいる。こうした考え方の者は多いであろうか。(多い。)それでは、本日、あなた方が事実を理解できるよう支援しよう。こうした考え方の者は、全員墓穴を掘っている。なぜなら、自分の想像で自分の目を覆っているからである。神が人間に対して要求する基準を置き換え、神の真の趣意を受け入れるのを阻害し、神の真の存在を感じられないようにし、神により全きものとされる機会を喪失させ、神の約束に関与しないようにさせているのはまさに自分の想像であり、自分の結論である。

言葉は肉において現れる(続編)朗読

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