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言葉は肉において現れる(続編)朗読

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言葉は肉において現れる(続編)朗読

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終わりの日のキリストの語られる言葉(選集)朗読

これらいくつかのフェローシップは、あらゆる者に大きな影響を及ぼしてきた。今、人々は神の真の存在と、神が自分達に極めて身近な存在であることを本当に感じることが出来るようになった。人々は、長年にわたり神を信じてきたにもかかわらず、神の思いと考えを現在ほど深く理解していたことはなく、また神の実践的な行為を今日ほど経験したこともなかった。認識であれ、実際の行為であれ、大部分の人々は新しい知識を得て、より深く理解し、自分自身のそれまでの追求における過ちや、経験の浅さ、神の旨に即していないことが多すぎること、そして最も人間に不足しているのは、神の性質に関する認識であることに気づいている。こうした人々の認識は、ある種、感覚的な認識であり、理性的な認識の水準に到達するには、人々の経験を通した段階的な深化と強化が必要となる。人間が真に神を理解するまでは、客観的に見て、人間は神の存在を心で信じていると言えるが、神が実際にどのような神であるか、神の旨は何か、神の性質とはどのようなものか、神の人間に対する姿勢は実際どのようなものであるかといった具体的な質問に対して、全く理解していない。このことが人々の神に対する信仰を大いに阻害し、人々の信仰においては、純粋さや完全性を実現することが全く出来ない。たとえあなたが神の言葉と対面したとしても、あるいは自分の経験を通して神に対面したと感じたとしても、それをもって神を完全に理解したとは言えない。あなたは、神を真に理解していない。なぜなら、あなたは神の考えや、神が愛する物事、神が憎む物事、神が怒る物事、神が喜ぶ物事を知らないからである。あなたの信仰は、曖昧さと想像の上に立脚し、主観的な願望を基盤としている。そうした信仰は真の信仰からは、かけ離れており、したがってあなたは、真の信者からほど遠い存在である。ここで紹介する聖書の物語の例を説明することにより、人間は神の心や、神の業の各段階における神の考え、神の業の理由、業を行った時点における神の本来の意向や計画、神が自分の考えをどう実現したか、神が自身の計画をどう立案し展開させたかを理解できるようになる。こうした物語により、人間は、神による6000年にわたる経営(救い)の業における神の具体的な意向や神が実際に考えたひとつひとつに関して、そしてそれぞれの時点、時代における神の人間に対する姿勢を、詳細かつ具体的に理解することができる。神がそれぞれの状況において啓示した、神の考え、神の姿勢、神の性質を理解することは、全ての者が神の真の存在をより深く理解し、また神が実在することと神の真正さをより強く感じ取る上で役立つ。ここで、これらの物語に関して述べる目的は、人々が聖書の物語について理解出来るようにすることでも、聖書に含まれる各書とその登場人物について深く理解するのを支援することでも、またとりわけ律法時代における神の業の背景を理解することを支援するものでもない。ここでの聖書の物語に関する記述の目的は、人間が神の旨、神の性質、神のあらゆる側面を理解し、神に関して一層確実かつ正確な理解と認識を得るのを支援することである。これにより、人々の心は徐々に神に対して開かれ、神に近づくことができ、人々は、神、神の性質、神の本質を一層深く理解できるようになり、神自身をより深く知ることができるようになるのである。

神の性質と神がどのような存在であるかに関する認識は、人間に対して肯定的な影響を与える。そうした認識は、人々の神に対する信頼を高め、人々が神に対して真に服従し、神を畏れるようになる上で役立つ。したがって、人々はもはや盲目な信者でも、神を盲目に礼拝しているだけでもなくなる。神は、愚か者や、大衆に盲目に追随するだけの者を望まず、心で神の性質を明瞭に理解し認識し、神を証する存在として行動し、神の愛、神の中にあるもの、神の存在、神の義なる性質ゆえに、決して神を捨てない者の集団を望む。神に従う者として、心に不明瞭な点がある場合、あるいは神の真の存在、神の性質、神の中にある物事、神の存在、人間を救う神の計画に関して曖昧な点や混迷している部分がある場合、あなたの信仰は、神の称賛を得ることはできない。神は、そうした人々が自分に従うことを望んでおらず、そうした人々が自分の前に来るのを好まない。そうした人々は神を理解せず、心を神に委ねることができず、神に対して心が閉ざされているので、そうした人々の神に対する信仰は不純に満ちている。そうした人々の神に対する信仰は、盲目としか言いようがない。人々は、神に関する真の理解と認識を持ち、それによって神に対する真の服従と畏敬の念が生まれた場合に、真の信仰を得て、真の従者となり得る。人々が神に心を委ね、心を開くのは、この方法によるほかは不可能である。神はそれを望んでいる。なぜなら、こうした人々の行動や思考のすべてが神の試練に耐え、神を証することができるからである。神の性質、あるいは神の中にある物事、神の存在、神のあらゆる行動における神の旨や考えについて、あらゆる観点や側面からわたしがあなたがたに伝えることは、全てあなたがたが神の真の存在について一層確信を持ち、神の人間に対する愛を真に理解し、神の人間に対する憂い、そして人間を経営して救うという神の真摯な望みを真に理解するのを支援することのみを目的とする。

ここでは、神が人間を創った時点以降における神の旨と考え、そして行動についてまとめ、天地創造から恵みの時代の開始時点までに神が行った行為について検討する。その後、神の考えのうち、人間に知られていないものがどれかを知ることが出来るようになり、そうした未知の考えから、神の経営計画の秩序を明確化して神が経営の業を作った背景やその起源と展開過程を完全に理解し、そして神の経営の業により神が望んでいる結果、すなわち神の経営の業の核心と目的について完全に理解することが可能となる。これらの事柄を理解するためには、人間が存在しなかった、遠い過去の静寂の時代まで遡る必要がある。

神が目覚めた時、神が最初に考えたことは、常に神とともに生きる人、すなわち命ある人間を創ることであった。この人間は神の言葉を聞き、神が信頼して話すことのできる者であった。次に、神はまずひと握りの土を取り上げ、神が考えていた最初の人間を創り、その人間をアダムと名付けた。命を持ち、息をする人間を創った後、神は何を感じたであろうか。神は、ともに過ごす愛すべき人間が居ることの喜びを、初めて感じたのである。また神は、父としての責任と、それに伴う憂いを初めて感じた。この生ける人間という存在は、神に幸福と喜びを与えたので、神は初めて慰めを感じた。これが、神が自身の考えや言葉だけでなく、自身のふたつの手によって実現した最初の業であった。こうした命を持ち、息をして、肉と血で創られた身体を持ち、神と話ができる人間の存在が神の前に現れた時、神は嘗てない喜びを感じた。神は責任を真剣に感じ、人間という生き物に心惹かれるだけでなく、人間の行動すべてが神を感動させ、神の心を和ませた。こうして、この人間という生き物が神の前に現れたときに初めて、神は、更なる人間を得たいという考えを持った。こうした一連の出来事は、こうした神の当初の考えから始まったことである。神にとって、こうした出来事は初めてのことであったが、その当初の出来事においては、神が感じたのが喜びであれ、責任であれ、憂いであれ、神が感じたことを分かち合う相手が、神には存在しなかったのである。この時以降、神は、それまで感じることのなかった、真の寂しさと悲しさを感じた。神は、人間が神の愛と憂いや、神の人間に対する意志を受け容れることも理解することも出来ないと感じたので、神は引き続き悲しみと心の痛みを感じていた。神は人間に対してこのようなことを行ったにもかかわらず、人間はそれに気付くことがなく、理解することもなかった。人間が神に与えた喜びと慰めは、幸福のほか、ほどなくして悲しみと寂しさも神に与えたのであった。以上が、この時点で神が考え、感じていたことである。そうした事を行っている間、神の心には憂いが入り交じり、それは喜びから悲しみへ、そして悲しみから痛みへと変化していった。神が望んだのは、人間に神の心にある事柄を早急に知らせて、神の旨を理解させることのみであった。そうすれば、人間が神に従うようになり、神と調和するようになる。人間は神の言葉を聞いてなお黙していることがなくなり、神の業をどのように支援するかを知らずにいることはなくなり、そしてなによりも、人間が神の要望に無関心でいることはなくなるであろう。こうした神が最初に完了した事柄は、極めて有意義であり、神の経営計画と現在の人間にとって大いに有意義であった。

神は万物と人間を創った後、休むことはなかった。神は自身の経営を実施するのを待ちきれず、また自身が愛する人間を得るのも待ちきれなかった。

その後聖書には、神が人間を創ってすぐに、全世界に大規模な洪水があった、と述べられている。この洪水の記録ではノアについて述べられているが、ノアは、神の働きを完了させるべく神とともに働くようにという神の命令を聞き入れた最初の人間であると言える。無論、神が地上に居る人間に対して、神の命令に従って何らかの行動をするよう召し出したのも、この時が最初であった。ノアが箱舟を完成させると、神は地球に最初の洪水を起こした。神が洪水により大地を破壊した時は、人間を創ってから、初めて神が人間に対する嫌悪感に圧倒された時であった。こうした事態により、神は洪水により人間を破壊するという悲痛な決断を余儀なくされた。地球が洪水により破壊された後、神は、こうした洪水による破壊を二度と行わないという、初めての契約を行った。この契約のしるしは、虹であった。これが神と人間との最初の契約であり、したがって虹は、神による契約の最初のしるしであった。この虹は実体のある、物理的な存在であった。この虹こそが、洪水で失った従前の人間に対する神の悲しみを喚起させ、失われた人間が見舞われた出来事を、神に恒常的に回顧させる存在なのである。神は歩を緩めることなく、神の経営を次の段階へと進めずにはいられなかった。次に、イスラエル全土における神の業において、神はアブラハムを最初に選んだ。これは、神がアブラハムのような者を選んだ最初の時でもあった。神はアブラハムにより人間を救う業を始め、その後もアブラハムの子孫により業を継続することを決意した。こうしたアブラハムに対する神の行動は、聖書で確認することができる。その後、神はイスラエルを最初の地として選び、選民であるイスラエルの人々を通して律法時代の業を開始した。この時も、神は初めて、イスラエルの人々に対して人間が従うべき明示的な規律を定め、その規律を詳しく説明した。神が人間に対して、犠牲の捧げ方や生活のしかた、すべきことと、すべきではないこと、従うべき祝祭等の期日、あらゆる行動の原則とすべき事柄について、こうした具体的な基準となる規律を定めたのは、これが初めてであった。神が人間に対して、生活に関する詳細かつ標準的な規制と原則を授けたのは、これが初めてであった。

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