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全能神が発する言葉 (神を知るための道)

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全能神が発する言葉 (神を知るための道)

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終わりの日のキリストの語られる言葉(選集)朗読

次の聖句は、神の権威を知る上で不可欠であり、その意義を以下にて説明する。聖句を続けて読む。

4.サタンに対する神の命令

(ヨブ記2:6)ヤーウェはサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。

サタンは創造主の権威を敢えて破ることがなかったので、万物は秩序ある生活を送っている

これはヨブ記からの抜粋であり、「彼」とはヨブを指す。簡潔であるが、この聖句により多くの問題が解明する。この聖句では、霊の世界における神とサタンの会話が具体的に述べられており、神の言葉の対象がサタンであることが述べられている。またこの聖句は、神が述べたことが具体的に記されている。神の言葉は、サタンに対する命令であった。この命令の詳細は、ヨブの命を奪わないことに関連している。サタンによるヨブの扱いにおいて、神は、サタンがヨブの命を奪わないという制限を設けている。この聖句から最初に分かることは、この聖句は神がサタンに対して述べたものであるということである。ヨブ記の原典には、この言葉の背景が記されている。それによると、サタンはヨブを責めることを望んでいたが、ヨブを試みる前に、神の同意を得る必要があった。神が、サタンのヨブを試す要求に同意した時、神は、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ

という条件を示した。この言葉には、どのような意味があるだろうか。この言葉は、明らかに命令である。これらの言葉の性質を理解すると、この命令は神が行なったものであり、命令を受け、それに従ったのがサタンであることも当然理解できる。この命令においては、言葉を読めば、神とサタンの関係が誰にでも明瞭に理解できる。当然だが、これは聖句にある神とサタンの対話の記録から知ることのできる霊の世界における神とサタンの関係でもあり、神とサタンの身分と地位の差でもある。またこれは現在において、人間が神とサタンの身分と地位の差異を知ることができる具体的な例であり、文書による記録である。この点において、この会話の記録は、神の身分と地位に関する人間の認識において重要な文献であり、神に関する人間の認識に対して、重要な情報を提供するものであると言わなくてはならない。この霊の世界における創造主とサタンとの会話により、人間は創造主の権威に関して、もうひとつ別の側面を理解することができる。この会話は、創造主固有の権威に関するもうひとつの証しである。

この会話は、表面上はヤーウェ神とサタンの会話である。この会話の本質は、ヤーウェ神が言葉を述べる態度と立場は、サタンよりも高いということである。つまり、ヤーウェ神はサタンに対して、命令的口調で言いつけており、サタンが実行する必要のある事柄、禁止されている事柄、ヨブは既にサタンの手の中にあること、思うがままにヨブを扱うのはサタンの自由であるが、ヨブの命を奪ってはならない、と伝えている。この会話には、ヨブがサタンの手の中に置かれているが、ヨブの命はサタンに与えられていない、すなわち、神が許可しない限り、ヨブの命を神の手中から奪うことができる者はいない、という含みがある。神の態度は、このサタンに対する命令において、明白に説明されており、またこの命令により、ヤーウェ神がサタンと会話する際の、ヤーウェ神の立場が明示されている。ここでヤーウェ神の持つ地位というのは、光、空、そして万物と全ての生物を造り、万物とすべての生物を支配する神の地位だけでなく、人間とハデスを指揮し、全ての生物の生死を支配する神の地位である。霊の世界において、サタンに対してこのような命令をする者が、神以外に存在するであろうか。それでは、神自身がサタンに対して命令したのは、何故だろうか。それは、ヨブを含めた人間の命は神によって支配されているからである。神は、サタンがヨブの命を傷つけたり奪ったりすることを禁じた。つまり、サタンがヨブを試すことを許す直前に、神はこうした命令を特に行うことを覚えており、サタンに対して、ヨブの命を奪わないよう再度命令したのである。サタンは神の権威に背いたことが一切無く、さらには神の指示と具体的な命令を注意深く聞き、それに従い、それに反することは無く、神の命令を自由に変えることも、当然ながら無かった。それは、神がサタンに対して定めた制限であり、したがってサタンが敢えてその制限を超えようとしたことは無い。これは神の権威の力ではなかろうか。これは神の権威を証しするものではなかろうか。サタンは、神に対してどのように振る舞うか、神をどのように見るかについて、人間よりもはるかに明確に理解していたので、霊の世界において、サタンは神の地位と権威を明確に理解しており、また神の権威の力と神の権威の行使が基づいている原則に関しても、深く理解していた。サタンがこうした神の権威や地位を見過ごすことも、何らかの形でそれに背くことも、神の権威を逸脱する行動を取ることも、決して無かった。また神の怒りに対抗することも一切なかった。サタンは元来邪悪で傲慢であるが、神がサタンに対して定めた限界を超えたことは無い。数百万年の間、サタンはそうした限界を固く守り、神からの指示や命令に全て従い、その限界を敢えて超えようとしたことは無い。サタンは悪意に満ちているにもかかわらず、腐敗した人間よりもはるかに「賢い」。サタンは創造主の身分を知っており、自らの限界も心得ていた。サタンの「従順な」行動から、神の権威と力は、サタンが背くことのできない天の命令であることが理解できる。また、まさにこの独自性と権威故に、万物が秩序にしたがって変化し、増加し、人間は神が立てた過程に従って生活し繁殖でき、この秩序を乱したり、この律法を変えたりすることができる人間や物が不在であることが分かる。なぜなら、人間や物はすべて創造主の手から現れ、創造主の命令と権威から現れたからである。

固有の権威があるのは、創造主の身分にある神のみである

サタンの「特別」な身分のために、サタンが様々な側面において表示する内容に対して、多くの人々が強い関心を寄せるようになる。なかには、サタンは奇跡を起こすことや、人間には不可能なことができるのであるから、サタンにも神と同様に権威がある、と信じている愚かな人々もいる。そうしたわけで、人間は神を礼拝する一方で、心の中にサタンのい場所を設け、さらにはサタンを神として礼拝することさえある。こうした人々は、哀れであると同時に、憎まれるべきである。こうした人々は、その無知さのために哀れであり、またその非道と生来の邪悪な本質のために憎まれるべきである。ここで、権威とは何か、権威は何を象徴するか、権威は何を表しているかを知らせる必要があるであろう。概して、神自身が権威であり、神の権威は崇高さと神の本質を象徴し、神自身の権威は、神の地位と身分を表す。そうであるとすれば、サタンは自分が神であるなどと敢えて言うであろうか。サタンは、自分が万物を造り、万物を支配していると敢えて言うであろうか。当然ながら、そのようなことは言わない。なぜなら、サタンは万物を創造することができないからである。現在まで、神が造った物と同じ物をサタンが造ったということは一度もなく、サタンが命あるものを造ったことは一切無い。サタンには神の権威が無いので、神の地位と身分をサタンが得ることはできない。これはサタンの本質により決定される。サタンには、神と同じ力があるだろうか。当然ながら、そのようなことは無い。サタンの行動や、サタンが起こした奇跡を何と呼ぶであろうか。それらは、力であろうか。それらを権威と呼べるであろうか。無論、それは力ではなく、権威とも呼べない。サタンは邪悪を率い、神の業のあらゆる側面を覆し、損なわせ、妨害する。現在まで数千年にわたり、人間を腐敗させ、虐待し、人間を誘惑し、欺して悪行を行わせ、神から拒否される存在にして、死の淵に向かわせたサタンは、かつて人間による祝賀や称賛、敬愛に値することを行ったことがあろうか。仮にサタンが権威と力を持っていたとすれば、人間はその権威や力により腐敗させられていたであろうか。仮にサタンが権威と力を持っていたとすれば、人間はその権威や力により危害を被ったであろうか。仮にサタンが権威と力を持つとすれば、人間はその権威や力により神を捨てて死へと向かうのであろうか。サタンには権威も力も無いのであれば、サタンの行為の本質は何であると判断すべきであろうか。サタンの行為全てを単なる謀略であると定義する人々もいるが、わたしはそうした定義はそれほど適切ではないと考える。人間の腐敗による邪悪な行いは、単なる謀略であろうか。サタンがヨブを虐げた邪悪な力と、ヨブを虐げ悩ませようとする激しい願望は、単なる謀略では得られないものである。思い出してみると、丘や山に広く群れていたヨブの動物たちは、一瞬にして消え去った。ヨブが所有していた大量の富が一瞬で消えた。これは謀略だけで成し得たことであろうか。サタンの業の性質は、損害、妨害、破壊、危害、邪悪、悪意、闇など、否定的な言葉に該当するので、そうした不正で邪悪な出来事の全てはサタンの行為と密接に繋がっており、サタンの邪悪な本質と不可分のものである。サタンの「力」や、大胆さ、野望がどれほどのものであったとしても、サタンの損傷を与える能力がどれほど優れていたとしても、サタンが人間を腐敗させ、誘惑する能力の幅広さがどれほどのものであったとしても、サタンが人間を威嚇する謀略や計略がどれほど狡猾であったとしても、またサタンが存在する形態をどれほど変化させることができたとしても、サタンには生き物を造る能力や、万物に対する律法や規律を定める能力があったことは無く、命のあるものかないものかを問わず、どのようなものも支配する能力があったことは無い。広大な宇宙の中で、サタンから生まれた人間や物、サタンのおかげで存在する人間や物、サタンに統治され、支配されている人間や物は、全く存在しない。それとは反対に、サタンは神の支配権の下で生活する必要があり、さらに神の指示と命令にすべて従う必要がある。神の許可なくしては、サタンにとってひとしずくの水やひと握りの砂に触れることさえ困難である。また神の許可なくしては、サタンは蟻を地に這わせることさえままならないのであるから、神の造った人間を動かすことなど到底できるはずがない。神から見ると、サタンは山のユリの花よりも劣り、空を舞う鳥や海の魚にも劣り、地のウジ虫にも劣る。万物の中におけるサタンの役割は、万物に仕え、人間のために仕え、神の業と神の経営(救いの)計画に資することである。サタンの本性がいかに悪意に満ちているか、その本質がいかに邪悪であるかによらず、サタンにできることは、神に仕え、神に対照を提供するという、その機能に従順に従うことのみである。これがサタンの本質であり位置づけである。サタンの本質は命や力、権威から切り離されており、サタンは神の手の中にある玩具のようなもの、神のための役立つ道具に過ぎない。

サタンの真相を理解しても、権威が何かを理解できない人々が多数いるので、ここで述べなければならないことがある。神の権威とは、神の力であると説明できる。まず、権威と力は、両方とも肯定・善であると断言できる。権威と力は、否定・悪と無関係であり、創造物やそれ以外の物と関連性が無い。神の力は、生命や活力のある、あらゆる形の物を造ることが可能であり、それは神の命により決定される。神は生命であり、したがって全ての生物の源である。さらに、神の権威は、あらゆる生物を神のすべての言葉に従わせることができる。すなわち、神が述べた言葉に従って現れ、神の命令により生き、繁殖し、それ以後、神があらゆる生物を支配しあらゆる生物に命令し、このことから逸脱する物は永遠に存在しない。人間や物には、こうした力が無い。こうした力は神のみにあり、したがってその力を権威という。これは、創造主の独自性である。したがって、それが「権威」という言葉自体であれ、権威の本質であれ、それは神としか関連づけられない。なぜなら、権威は、創造主の固有の身分と本質の象徴であり、また創造主の身分と地位を示すものである。創造主以外に、「権威」という言葉と関連づけられる人間や物は存在しない。これが創造主に固有の権威の解釈である。

サタンは、その欲のある眼でヨブを見ていたが、神の許可が無ければ、ヨブの体毛の1本ですら触れることができない。サタンは生来邪悪かつ残酷であるが、ひとたび神がサタンに命令すると、サタンはその命令に従うほか無い。そうしたわけで、サタンがヨブのところに来たとき、サタンは羊の中の狼のように凶暴であったにもかかわらず、サタンは神が定めた限界を無視することも、神の命令に背く事も無く、サタンは、全ての行動において、神の言葉の原則と限度から逸脱することは無かった。これは事実ではなかろうか。この観点から見ると、サタンはヤーウェ神の言葉に背くことが無かったことが分かる。サタンにとって、神が述べた言葉は、すべて命令であり、天の律法であり、神の権威を示すものであった。なぜなら、神の言葉の背後には、神の命令に背いた者や天の律法を破った者に対する神の罰が暗示されているからである。サタンは、自分が神の命令に背いた場合、神の権威から逸脱し、天の律法を破った報いを受けなければならないことを、はっきりと認識している。それでは、その報いとは、どのようなものであろうか。それは言うまでも無く、神による罰である。サタンのヨブに対する行為は人間を腐敗させるサタンの行動の縮図に過ぎず、サタンがそれらの行為を行っていた時、神が定めた限界と、神がサタンに対して命令した事柄は、サタンのあらゆる行動の背後にある原則の縮図に過ぎない。さらに、この一件におけるサタンの役割と立場は、神の経営の働きにおけるサタンの役割と立場の縮図に過ぎず、サタンがヨブを試した時の、サタンの神に対する完全な服従は、神の経営の働きに対して、サタンが少しも反抗しようとしなかったことの縮図に過ぎない。これらの縮図はあなた方に何を警告するだろうか。サタンを含めた万物のなかには、創造主が定めた天の律法や命令に背くことができるものは一切無く、また、こうした天の律法や命令に違反しようとするものは一切ない。なぜなら、服従を拒んだ者に対して創造主により科される罰に変更を加えたり逃れたりできる人間や物は存在しないからである。天の律法や命令を定めることができるのは創造主のみであり、それらを施行できるのも創造主のみであり、人間や物が背くことができないのは、創造主の力のみである。これが、創造主固有の権威であり、この権威は万物において至高のものであるので、「神は最も偉大であり、サタンはその次に偉大である」と言うことはできない。固有の権威を持つ創造主を除いて、神は存在しないのである。

あなた方は、神の権威に関して、新たな認識を得ることができたであろうか。まず、今述べた神の権威と、人間の力との間に、相違点はあるであろうか。その相違点とは何であろうか。一部の人々は、それらは比較できないと言う。それは正しい。神の権威と人間の力は比較できないと言われているものの、人間の思考や思想のなかでは、人間の力が神の権威と混同されることが往々にしてあり、人々はこの両者を並べて比較する場合がある。これは、どのような状況であろうか。この両者のうち一方を他方に代えるというのは、人々は不注意に過ちを犯しているのではなかろうか。両者に関連性は無く、両者は比較できないが、人々は比較せずにはいられないのである。こうした状況は、どうすれば解決できるであろうか。真剣に解決策を見出したいと願うのであれば、神固有の権威を知ることである。創造主の権威を理解し知ることにより、あなたは人間の力と神の権威を同じ範疇で議論しなくなるであろう。

人間の力とは、何であろうか。簡潔に言うと、人間の力とは、人間の腐敗した性質や欲望、野望を拡大し、最大限に達成するための技能である。そうした技能は権威とみなされるであろうか。ある者の野望と願望がどれほど強く、成功であったとしても、その者に権威があるとは言えない。そうした自惚れや成功は、せいぜいサタンが人間の世界で行う茶番に過ぎず、サタンが神となる野望を果たすために、自らの祖先を演じる喜劇に過ぎない。

ここまでの議論を踏まえると、あなたは、神の権威を、どのように認識するようになっただろうか。あなたは、ここまで伝えた内容から、神の権威に関する新たな認識を得たはずである。そこで、あなた方に質問する。神の権威は、何を象徴するか。神の権威は、神の身分を象徴するであろうか。神の権威は、神自身の力を象徴するであろうか。神の権威は、神自身に固有の地位を象徴するであろうか。あらゆる物事のなかで、あなたが神の権威を見出した事柄は何か。あなたは、どのようにして神の権威を見出したか。人間が体験する四季に関して、春夏秋冬の変化の律法を人間が変えることはできるだろうか。木々は春に芽吹いて花が咲き、夏に葉で覆われ、秋に実を結び、冬に葉を散らす。この律法を変えることができる者はいるだろうか。これは神の権威の一側面を反映するものだろうか。神は「光あれ」と言った。すると光があった。この光は、現在も存在するだろうか。その光が存在するのは、何のおかげであるか。無論、光が存在するのは、神の言葉と神の権威のおかげである。神が造った空気は、現在も存在するか。人間が呼吸する空気は、神から生まれたものか。神から生まれたものを取り去ることができる者はいるか。神から生まれたものの本質と機能を変えることができる者はいるか。神が定めた昼と夜、そして神が命じた昼と夜の律法を混乱させることができる者はいるか。サタンには、それができるだろうか。あなたが夜に眠らず、夜と昼を取り違えている場合であっても、それは依然として夜であり、一日の生活習慣を変えることはできても、昼と夜の繰り返しに関する律法を変えることはできない。そしてその事実は誰にも変えることはできないのではなかろうか。牛のように、ライオンに土を鋤かせることができる者はいるか。象をロバに変えることができる者はいるか。鷹のように、鶏に空を飛ばせることができる者はいるか。羊のように、狼に草を食べさせることができる者はいるか。魚を水の無い地上で生活させることができる者はいるか。そうした者がいないのは何故か。それは、神が魚に対し、水中で生活するよう命じたからであり、それに従って魚は水中で生活している。魚は地上で生活できず、死ぬであろう。魚は、神の決めた限界を越えることができない。あらゆる物事には律法と限界があり、あらゆる物事には固有の本能がある。その本能は創造主により定められたものであり、人間が変えることも越えることもできない。たとえば、ライオンは常に人間社会から離れた荒野に棲む。ライオンが人間とともに生活し、人間のために働く牛のように従順かつ忠実となることは無い。象とロバは両方とも動物であり、4本の足があり、空気を呼吸するが、両者は種類が異なる。なぜなら、神が象とロバを異なる種類に分け、それぞれ個別に本能があり、したがってロバを入れ替えることは不可能だからである。鶏には鷹と同様に脚と翼があるが、鶏は決して空を飛ぶことができない。鶏が飛んだとしても、せいぜい木に留まるまで程度である。そうしたことは、動物の本能により決定される。また、こうした事柄の原因が、神の権威による命令であることは言うまでも無い。

現在の人間の発達状況においては、人間の科学が「繁栄している」と言える。また、人間による科学的追求の成果は「素晴らしい」と言えるであろう。ここで述べるべき事は、人間の能力は、かつて無いほどまでに高まったが、人間が未だに科学的に達し得ない事柄がある、ということである。人間は航空機、旅客機、原子爆弾などを作り上げ、宇宙空間へと進出し、月面を歩き、インターネットを発明し、高度な技術が採用された生活様式のなかで生活しているものの、人間は、呼吸する生物を未だに作り得ない。あらゆる動物の本能と、動物が生きる上での律法、そして生物の生死の循環は、すべて人間の科学により制御することが不可能なものである。ここで、人間の科学がいかに高度なものへと進化したとしても、人間の科学は創造主の心とは比較にならず、創造主による創造の奇跡や、神の権威の力を解明することは不可能である、と言わなくてはならない。地球上には海が多数あるが、海が限度を超えて地上に来ることは無い。なぜなら、神が海に対して限界を定めたからである。海は神が命じた場所に留まり、神の許可なくして自由に移動することはできない。神の許可無くして、海と陸が侵害し合うことはできず、神が動いて宜しいと述べた時に限り、移動することが可能となり、海がどこへ移動して留まるかは、神の権威により定められる。

端的に言えば、「神の権威」とは、神の心次第であることを意味する。神には何をどのように行うかを決定する権利があり、それは神の心が望む方法により行われる。万物の律法は、人間次第ではなく、神次第であり、人間はその律法を変えることもできない。万物の律法は、人間の意志で変えることができず、しかし神の心、知恵、そして命令により変えられるものであり、これは誰も否定できない事実である。天と地、万物、宇宙、星の輝く空、四季、人間にとって見えるものと見えないものは、すべて神の権威に基づき、神の命令、戒律に従い、かつ創造の初めの律法に従って、一切不具合無く存在し、機能し、変化する。こうした物事の律法や、それらの機能が基づく固有の過程を変更することができる人間や物事は存在しない。これらのものは全て神の権威により現れ、同様に神の権威により消滅する。これがまさしく神の権威である。ここまで述べてきた事柄をふまえて、あなたは神の権威が神の身分と地位の象徴であると感じるであろうか。創造された物事やそれ以外の物事が神の権威を持つことができるであろうか。神の権威を模倣したり、権威を持つふりをしたりできるだろうか。また神の権威が人間や物事により代替されたりすることがあり得るだろうか。

創造主の身分は固有のものであるので、多神主義的に考えてはならない

サタンの技能は人間の技能よりも優れており、サタンは人間には不可能な事が可能であるものの、サタンの行為を羨んだり望んだりするかどうか、またサタンの行動を憎んだり嫌悪したりしているか、またサタンの行動が理解できるかどうか、サタンがどの程度のことを達成するか、サタンが何人の者を騙してサタンを崇拝させたり祭ったりさせることができるか、あなたがサタンをどのように定義するかを問わず、サタンには神の権威と力があると言うことはできない。神は神であり、神はひとりしか存在しないこと、そしてそれ以上に、唯一神にのみ権威があり、万物を支配する力があることを認識する必要がある。人間を欺く能力がサタンにあるから、サタンは神になりすますことができるから、神の業のしるしや奇跡を模倣することができるから、神と似たようなことをしているからといって、あなたは、神が唯一の存在ではない、複数の神が存在する、それらの複数の神の技能は多かったり少なかったりする、行使できる力に差があるなどといった誤解をする。そうした神々の偉大さを、登場する順番や年齢で決めたり、唯一の神以外に神格が存在すると誤解し、神の権威と力は固有のものではないと考えたりする。あなたがこうした考えを持っている場合、神が唯一の存在であることを認めていない場合、神のみに権威があることを信じていない場合、多神主義的に考えている場合、わたしはあなたに人間くずである、サタンの化身である、邪悪の権化であると言わざるを得ない。ここでわたしが説明しようとしていることを、あなた方は理解できるだろうか。時間、場所、あなた方の経歴を問わず、あなたは神と、人間、物事を混同してはならない。神の権威を知ることや、神の権威や神自身の本質に近づくことが、どれほど困難であると感じているか、またあなたの考え方や想像がどの程度サタンの行動や言葉と一致するか、そうした行動や言葉にあなたがどの程度満足しているかを問わず、あなたは愚かであってはならず、それらの概念に惑わされてはならず、神の地位と存在を否定してはならず、心の中の神を排除して、神の代わりにサタンを受け容れて、サタンを崇拝してはならない。そのようなことをした場合、どのような結末が待っているかは、あなた方に想像できることであると、わたしは確信している。

人間は腐敗しているものの、創造主の権威による支配下で生活している

サタンは、これまで数千年にわたって人間を腐敗させてきている。サタンは無数の邪悪を働き、何世代もの人々を騙し、また世界中で凶悪な罪を犯してきた。サタンは人間を虐げ、騙し、誘惑して神に謀反を起こさせ、何度も神の経営(救いの)計画を混乱させ、妨害してきた。それでもなお、神の権威の下で、万物やすべての被造物は神により定められた律法を遵守し続けている。神の権威に比べれば、サタンの邪悪な性質とその蔓延は極めて醜く、不愉快であり、卑劣であり、取るに足りず、脆弱である。サタンは神により造られた万物の中を歩んでいるが、神の命令を受けた人間や物事に対して、ほんの僅かな変化さえも与えることができない。数千年が経過した現在、人類は神から授かった光りと空気を享受し、神自身から授かった息を呼吸し、神が造った花々や鳥たち、魚や昆虫を楽しみ、神から授かった全てを享受している。昼と夜が引き続き交互に入れ替わり、四季は通常通り移ろいでおり、今年の冬には、空を舞うガンの群れが渡り去ってゆき、次の年の春に舞い戻り、魚は河川や湖沼以外へと移動して生活の場とすることなく、夏の日中にはセミが魂を歌い上げ、秋には鈴虫が草の間で風に合わせて優しい歌を口ずさみ、ガンは群れを成し、鷹は単独で行動し、ライオンの群れは狩りを行うことで生命を維持し、ヘラジカは草原の草花から立ち去ることが無い。万物のなかでも、動物は、すべて行き来を繰り返しており、無数の変化が一瞬にして発生する。しかし、その本能と生存のための律法は不変である。動物は神の施しと糧により生きており、動物の本能を変えることや、動物の生存の律法を妨害することは、誰にもできない。万物の中で生きる人間はサタンにより腐敗し、騙されたものの、人間は依然として、神により造られた水、空気など、神により造られた全ての物を差し控えることができず、また人間は依然として神により造られた空間で生活し、繁殖している。人間の本能は、依然として不変のままである。人間は、見ることを眼に、聞くことを耳に、考えることを脳に、理解することを心に、歩くことを脚に、業を行うことを手に、それぞれ依存している。神の施しを人間が受け取れるように神が人間に授けられた本能や、人間が神と協力するために必要な能力、創造物としての義務を履行するために必要な能力は変わっておらず、人間の霊的な必要性、人間が自分達の起源を知りたいという願望、創造主による救いに対する人間の切望は、変わっていない。以上が、神の権威の下で生活し、サタンによる残酷な破壊を幾度となく経験してきた人間の現況である。人間はサタンによる抑圧を受けてきており、また人間はもはや創造された時のアダムとエバのようではなく、知識、想像、自分の意志など、神に反対する物事や、サタンのような腐敗した性質に満たされているが、神の観点から見ると、人間は依然として神が造った時と同じ人間である。人間は依然として神により支配され、指揮され、神が定めた生涯から逸脱することなく生活しているので、神の観点から見ると、サタンにより腐敗させられた人間は、埃をかぶったようなもの、つまり空腹でお腹が鳴り、反応が少し遅くなり、従前よりも記憶力が悪くなり、少し年老いたに過ぎず、人間の機能と本能は、全く損傷していない。これが、神が救済しようとしている人間である。しかし、人間は創造主の呼ぶ声や言葉を聞くだけで、立ち上がってその言葉がどこから聞こえているかを探しまわるであろう。人間は、創造主の姿を見ただけで、その他のことは全く心に無くなり、全てを投げ出して、自らを神に捧げ、神のために命すら捧げるであろう。人間の心が、創造主の心からの言葉を理解したとき、人間はサタンを拒絶し、創造主の味方となるであろう。また人間が身体の穢れを完全に洗い流し、創造主による施しと糧を授かったとき、人間の記憶が蘇り、その時人間は、真に創造主の支配下に戻るであろう。

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