日々の神の御言葉: 神の性質、および神が所有するものと神そのもの | 抜粋 262
人類の一員として、また敬虔なクリスチャンとして、神が委ねた任務を全うするために心と体を捧げるのは私たちすべての責任であり、義務である。何故なら、私たちの全存在は神から来たものであり、神の支配のおかげで存在しているからである。私たちの心と体が神の委ねた任務のためでも、人類の正義の目…
聖書は歴史的な書物であり、もしも恵みの時代に旧約を飲み食いしていれば、あるいは恵みの時代に旧約の時代の要求を実践していたなら、イエスはあなたを拒み、断罪していただろう。もしも旧約をイエスの働きに適用していたら、あなたはパリサイ人だったはずだ。今日もし、旧約と新約をともに飲み食いし、実践したなら、今日の神はあなたを断罪し、あなたは今日の聖霊の働きから取り残されるだろう。もし旧約と新約を飲み食いするなら、あなたは聖霊の流れの外にいる。イエスの時代において、イエスは当時、ユダヤ人と自分に従う全員を、自身における聖霊の働きにしたがって導いた。イエスは聖書を自身の行為の基礎とせず、自分の働きにしたがって語った。イエスは聖書の記述を気に留めることも、自分に付き従う人々を導く道を聖書に求めることもしなかった。イエスは働きを始めた当初から悔い改めの道を広めたが、その言葉は旧約の預言の中で一切触れられていないものだった。イエスは聖書にしたがって行動しなかっただけでなく、新たな道を導き、新たな働きを行なった。イエスは教えを説く際に、一度も聖書を参照していない。律法の時代、イエスのように奇跡を行ない、病を癒し、悪霊を祓える者は一人もいなかった。イエスの働き、教え、そしてイエスの言葉の権威と力も、律法の時代の誰よりも勝っていた。イエスはひたすら自分の新たな働きを行ない、多くの人が聖書を用いてイエスを断罪しても、さらには旧約を用いてイエスを十字架にかけても、イエスの働きは旧約を超えていた。そうでなければ、なぜ人々はイエスを十字架にかけたのか。それは、イエスの教え、あるいは病を癒して悪霊を祓うイエスの能力について、旧約に何の記述もなかったからではないのか。イエスの働きは新たな道を導くためになされたのであり、わざと聖書に戦いを挑んだり、意図的に旧約を放棄したりするものではなかった。イエスはただ自分の職分を果たすため、また自分を切望して探し求める人々に新たな働きをもたらすために来たのであって、旧約を説明したり、その働きを支えたりするために来たのではない。イエスの働きは、律法の時代が発展し続けるようにするためのものではなかった。なぜならイエスの働きは、それが聖書に基づくものかどうかを問題にしなかったからである。イエスは単に、なすべき働きを行なうために来たのである。ゆえに、イエスは旧約の預言を説明せず、旧約の律法の時代の言葉にしたがって働きを行なうこともしなかった。イエスは旧約の記述を無視し、それが自分の働きに合致しているかどうかを気にしなかった。また、他の人々が自分の働きを理解しているかどうか、彼らがそれをどう断罪しているかも気にしなかった。多くの人が旧約の預言者の預言を使ってイエスを断罪したが、イエスはひたすら自分のなすべき働きを続けたのである。人々にとって、イエスの働きには根拠がなく、旧約の記述に反することが数多くあるかのように思われた。これは人の過ちではなかったか。神の働きに教義を当てはめる必要があるのか。また、神の働きは預言者たちの預言に合致しなければならないのか。結局のところ、神と聖書のどちらが偉大なのか。なぜ神が聖書にしたがって働きを行なわなければならないのか。神には聖書を超える権利がないということか。神は聖書から離れて別の働きを行なうことができないのか。なぜイエスと弟子たちは安息日を守らなかったのか。仮にイエスが安息日を守り、旧約の戒めにしたがって実践するつもりだったなら、なぜ到来後に安息日を守らず、その代わりに足を洗い、頭を覆い、パンを裂き、ぶどう酒を飲んだのか。これらはみな、旧約の戒めにないのではないか。イエスが旧約を尊重していたのなら、なぜそれらの教義を破ったのか。神と聖書のどちらが先に来たか、あなたは知るべきだ。彼は安息日の主であると同時に、聖書の主でもあるのではないか。
新約の時代にイエスが行なった働きは、新たな働きを始めることだった。つまり、旧約の働きに沿った働きは行なわなかったのである。また、旧約のヤーウェが語った言葉を適用することもなかった。イエスは自分の働きを行ない、より新たな働きを行ない、律法よりも上位の働きを行なった。そのため、イエスはこう言った。「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」。よって、イエスが成就したことにしたがう形で、多くの教義は廃棄された。安息日にイエスが弟子たちを連れて麦畑を通ったとき、彼らは麦の穂を摘んで食べた。イエスは安息日を守らず、「人の子は安息日の主である」と言った。イスラエル人の規則によると、当時、安息日を守らなかった者は誰であっても石で打ち殺された。しかしイエスは、神殿に入ることも安息日を守ることもしなかったし、彼の働きは旧約の時代にヤーウェが行なわなかったものだった。だから、イエスが行なった働きは旧約の律法を超えており、それよりも高いものであり、それに沿うものではなかったのである。恵みの時代、イエスは旧約の律法にしたがう形で働きを行なわず、そうした教義をすでに破っていた。しかし、イスラエル人はあくまで聖書に固執し、イエスを断罪した。それはイエスの働きを拒むことではなかったか。今日、宗教界もまたあくまで聖書に固執し、中には「聖書は聖なる書物で、読まなければいけない」という人がいる。また「神の働きは永遠に守らなければならず、旧約は神とイスラエルの民との契約であるから、破棄することはできない。また、安息日は常に守らなければいけない」という人もいる。そのような人は愚かではないか。なぜイエスは安息日を守らなかったのか。イエスは罪を犯していたのか。誰がそうしたことを完全に理解できるのか。どのように聖書を読んでも、人間の理解力で神の働きを知ることは不可能である。そうした人は神について純粋な認識を得ることができないばかりか、その人のもつ観念がますますとんでもないものになり、神に敵対するまでになる。もしも今日の神の受肉がなければ、人々は自分たちの観念によって滅ぼされ、神の刑罰の中で死ぬだろう。
『神の出現と働き』「聖書について(1)」(『言葉』第1巻)より
信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。
人類の一員として、また敬虔なクリスチャンとして、神が委ねた任務を全うするために心と体を捧げるのは私たちすべての責任であり、義務である。何故なら、私たちの全存在は神から来たものであり、神の支配のおかげで存在しているからである。私たちの心と体が神の委ねた任務のためでも、人類の正義の目…
創造主の権威は不変であり、犯すことができない 1. 言葉を用いて万物を創造する神 創世記 1:3-5 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。…
征服する働きの主な目標は人間を清めることで、そうして人は真理を持つことができる。なぜなら、人は今ほとんど真理を持っていないからだ!このような人たちを征服するのはとても深い意味がある。あなたがたは暗闇の影響下に落ち、深く傷つけられた。だから、この働きの目標は、あなたがたに人間の性質…
神は、人間の安全を保証すること、サタンに食い尽くされないことを保証すること以外にも、さらなることを行います。神は、誰かを選んで救う準備のために、数多くの働きを行います。まず、あなたはどのような性格か、どのような家庭に生まれるか、両親は誰か、兄弟姉妹は何名いるか、家庭の状況と経済的…