日々の神の御言葉: 受肉 | 抜粋 110
受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人に命を与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは…
聖書は歴史的な書物であり、もしも恵みの時代に旧約を飲み食いしていれば、あるいは恵みの時代に旧約の時代の要求を実践していたなら、イエスはあなたを拒み、断罪していただろう。もしも旧約をイエスの働きに適用していたら、あなたはパリサイ人だったはずだ。今日もし、旧約と新約をともに飲み食いし、実践したなら、今日の神はあなたを断罪し、あなたは今日の聖霊の働きから取り残されるだろう。もし旧約と新約を飲み食いするなら、あなたは聖霊の流れの外にいる。イエスの時代において、イエスは当時、ユダヤ人と自分に従う全員を、自身における聖霊の働きにしたがって導いた。イエスは聖書を自身の行為の基礎とせず、自分の働きにしたがって語った。イエスは聖書の記述を気に留めることも、自分に付き従う人々を導く道を聖書に求めることもしなかった。イエスは働きを始めた当初から悔い改めの道を広めたが、その言葉は旧約の預言の中で一切触れられていないものだった。イエスは聖書にしたがって行動しなかっただけでなく、新たな道を導き、新たな働きを行なった。イエスは教えを説く際に、一度も聖書を参照していない。律法の時代、イエスのように奇跡を行ない、病を癒し、悪霊を祓える者は一人もいなかった。イエスの働き、教え、そしてイエスの言葉の権威と力も、律法の時代の誰よりも勝っていた。イエスはひたすら自分の新たな働きを行ない、多くの人が聖書を用いてイエスを断罪しても、さらには旧約を用いてイエスを十字架にかけても、イエスの働きは旧約を超えていた。そうでなければ、なぜ人々はイエスを十字架にかけたのか。それは、イエスの教え、あるいは病を癒して悪霊を祓うイエスの能力について、旧約に何の記述もなかったからではないのか。イエスの働きは新たな道を導くためになされたのであり、わざと聖書に戦いを挑んだり、意図的に旧約を放棄したりするものではなかった。イエスはただ自分の職分を果たすため、また自分を切望して探し求める人々に新たな働きをもたらすために来たのであって、旧約を説明したり、その働きを支えたりするために来たのではない。イエスの働きは、律法の時代が発展し続けるようにするためのものではなかった。なぜならイエスの働きは、それが聖書に基づくものかどうかを問題にしなかったからである。イエスは単に、なすべき働きを行なうために来たのである。ゆえに、イエスは旧約の預言を説明せず、旧約の律法の時代の言葉にしたがって働きを行なうこともしなかった。イエスは旧約の記述を無視し、それが自分の働きに合致しているかどうかを気にしなかった。また、他の人々が自分の働きを理解しているかどうか、彼らがそれをどう断罪しているかも気にしなかった。多くの人が旧約の預言者の預言を使ってイエスを断罪したが、イエスはひたすら自分のなすべき働きを続けたのである。人々にとって、イエスの働きには根拠がなく、旧約の記述に反することが数多くあるかのように思われた。これは人の過ちではなかったか。神の働きに教義を当てはめる必要があるのか。また、神の働きは預言者たちの預言に合致しなければならないのか。結局のところ、神と聖書のどちらが偉大なのか。なぜ神が聖書にしたがって働きを行なわなければならないのか。神には聖書を超える権利がないということか。神は聖書から離れて別の働きを行なうことができないのか。なぜイエスと弟子たちは安息日を守らなかったのか。仮にイエスが安息日を守り、旧約の戒めにしたがって実践するつもりだったなら、なぜ到来後に安息日を守らず、その代わりに足を洗い、頭を覆い、パンを裂き、ぶどう酒を飲んだのか。これらはみな、旧約の戒めにないのではないか。イエスが旧約を尊重していたのなら、なぜそれらの教義を破ったのか。神と聖書のどちらが先に来たか、あなたは知るべきだ。彼は安息日の主であると同時に、聖書の主でもあるのではないか。
新約の時代にイエスが行なった働きは、新たな働きを始めることだった。つまり、旧約の働きに沿った働きは行なわなかったのである。また、旧約のヤーウェが語った言葉を適用することもなかった。イエスは自分の働きを行ない、より新たな働きを行ない、律法よりも上位の働きを行なった。そのため、イエスはこう言った。「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」。よって、イエスが成就したことにしたがう形で、多くの教義は廃棄された。安息日にイエスが弟子たちを連れて麦畑を通ったとき、彼らは麦の穂を摘んで食べた。イエスは安息日を守らず、「人の子は安息日の主である」と言った。イスラエル人の規則によると、当時、安息日を守らなかった者は誰であっても石で打ち殺された。しかしイエスは、神殿に入ることも安息日を守ることもしなかったし、彼の働きは旧約の時代にヤーウェが行なわなかったものだった。だから、イエスが行なった働きは旧約の律法を超えており、それよりも高いものであり、それに沿うものではなかったのである。恵みの時代、イエスは旧約の律法にしたがう形で働きを行なわず、そうした教義をすでに破っていた。しかし、イスラエル人はあくまで聖書に固執し、イエスを断罪した。それはイエスの働きを拒むことではなかったか。今日、宗教界もまたあくまで聖書に固執し、中には「聖書は聖なる書物で、読まなければいけない」という人がいる。また「神の働きは永遠に守らなければならず、旧約は神とイスラエルの民との契約であるから、破棄することはできない。また、安息日は常に守らなければいけない」という人もいる。そのような人は愚かではないか。なぜイエスは安息日を守らなかったのか。イエスは罪を犯していたのか。誰がそうしたことを完全に理解できるのか。どのように聖書を読んでも、人間の理解力で神の働きを知ることは不可能である。そうした人は神について純粋な認識を得ることができないばかりか、その人のもつ観念がますますとんでもないものになり、神に敵対するまでになる。もしも今日の神の受肉がなければ、人々は自分たちの観念によって滅ぼされ、神の刑罰の中で死ぬだろう。
『神の出現と働き』「聖書について(1)」(『言葉』第1巻)より
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人が今まで成し遂げてきたこと、つまり現在の人の霊的身丈、認識、愛、忠誠、従順、そして識見は、言葉の裁きによって得られた成果である。あなたが忠誠心をもち、今日まで立ち続けていられるのは、言葉によって成し遂げられたことである。受肉した神の働きが途方もなく素晴らしいことを、人は今や理…
受肉した神の働きは最も意義深い。それは働きについての語りであり、最終的に働きを終えるのは受肉した神であって、霊ではない。神はいつか地上に来て、人間に姿を見せ、誰一人も逃さず人を一人一人試みつつ、全人類を自ら裁くと信じている人々がいる。このように考える者は、この受肉の働きの段階を知…