日々の神の御言葉: 終わりの日における裁き | 抜粋 88
人は自身の伝統的な観念の中で、神の愛は恵み、慈悲、そして人の弱さに対する憐れみだと信じている。それらも神の愛ではあるが、あまりに一方的であり、神が人を完全にする主たる手段ではない。病気のために神を信じ始める人もいるが、その病気はあなたに対する神の恵みである。それがなければ、あなた…
聖書は旧約・新約聖書とも呼ばれる。あなたがたは「約」の意味を知っているだろうか。「旧約」の「約」は、ヤーウェがエジプト人を殺し、イスラエル人をパロから救ったときの、ヤーウェとイスラエルの民との契約に由来する。もちろん、この契約の証しは鴨居につけた子羊の血であり、神はそれをもって人間との契約を立てた。この契約は、戸枠のてっぺんと両側に子羊の血がついた家の者はみなイスラエル人で、彼らは神の選民であり、ヤーウェは彼らを見逃す(このとき、ヤーウェはエジプト人の初子および羊と牛の初子をみな殺そうとしていた)という内容だった。この契約には二重の意味がある。まず、ヤーウェはエジプトの民や家畜を一切救わず、男の初子および羊と牛の初子を残らず殺す。そのため多くの預言書の中で、エジプト人はヤーウェの契約のために厳しく罰せられると預言された。これが契約の第一層の意味である。ヤーウェはエジプト人の初子と家畜の初子をみな殺したが、イスラエルの民はすべて見逃した。つまり、イスラエルの地に住む民はみなヤーウェの慈しむ者であり、みな見逃されるということである。ヤーウェは彼らの中で長期にわたって働こうと思い、子羊の血で彼らと契約を立てた。それ以降、ヤーウェはイスラエル人を殺すことなく、彼らは永遠に我が選民であると告げた。つまり、イスラエルの十二部族の間で、律法の時代全体にわたる働きに乗り出し、イスラエル人に自身の律法をすべて明かし、彼らの中から預言者と士師を選び、彼らを自身の働きの中心に置くのである。ヤーウェは彼らと契約を立てた。時代が変わらない限り、ヤーウェは選民の間でだけ働く。ヤーウェの契約は変えられないものだった。なぜなら、それは血で作られ、自身の選民との間で立てられたからである。さらに重要なこととして、ヤーウェは時代全体を通じて働きに乗り出す適切な範囲と対象を選んだ。そのため、人々は契約をとりわけ重要なものと見た。これが契約の第二層の意味である。契約が立てられる前の創世記を例外として、旧約の他の書はみな、契約を立てた後のイスラエル人の間における神の働きを記録している。もちろん、異邦人のことを述べている箇所もあるが、総体的に言えば、旧約はイスラエルにおける神の働きを記録したものである。ヤーウェのイスラエル人との契約のため、律法の時代に書かれた書は旧約と呼ばれている。これはヤーウェのイスラエル人との契約に因んで名付けられた。
新約は、イエスが十字架の上で流した血と、イエスを信じるすべての人との契約に因んで名付けられた。イエスの契約はこうである。ただイエスを信じれば、人々はイエスの流した血のおかげで罪を赦され、ゆえに救われ、イエスを通じて生まれ変わり、もはや罪人でなくなる。イエスの恵みを受けるには彼を信じさえすればよい。そうすれば、死後に地獄で苦しまずに済む。恵みの時代に記された書はみな、この契約の後のものである。そのどれもが、そこに含まれる働きと発言を記録している。これらの書は主イエスの磔刑による救い、あるいは契約から先には進まない。これらはどれも、経験を有する、主における兄弟たちが記した書である。したがって、これらの書も契約に因んで名付けられ、新約と呼ばれる。これら二つの契約には、恵みの時代と律法の時代だけが含まれていて、最後の時代とは何のつながりもない。ゆえに、聖書は終わりの日の今日の人々にとってそれほど役に立たない。せいぜい、時おり参照する価値があるくらいで、基本的にはほとんど無価値である。しかし、宗教関係者は、依然としてそれを最も貴重なものとしている。彼らは聖書を知らず、聖書を説明する方法を知っているだけで、そのなりたちを根本的に知らない。聖書に対する彼らの態度は、聖書に書かれていることはすべて正しく、そこに不正確なことや誤りは一切ない、というものである。聖書は正しく、誤りはないと最初から決めてかかっているので、大いに興味をもって学び調べる。今日の働きの段階は、聖書で預言されていなかった。最も暗い場所における征服の働きについて、一切言及されることはなかった。それは最新の働きだからである。働きの時代が異なるので、イエス自身でさえ、この段階の働きが終わりの日に行なわれるとは知らなかった。ならば、終わりの日の人々がこの段階の働きを、聖書を調べることでその中に見つけることなどできるだろうか。
『神の出現と働き』「聖書について(2)」(『言葉』第1巻)より
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創世記 19:1-11 そのふたりのみ使は夕暮にソドムに着いた。そのときロトはソドムの門にすわっていた。ロトは彼らを見て、立って迎え、地に伏して、言った、「わが主よ、どうぞしもべの家に立寄って足を洗い、お泊まりください。そして朝早く起きてお立ちください」。彼らは言った、「いや、わ…
わたしは以前「しるしや不思議を見ることを求める者は、見捨てられるだろう。彼らは、完全にされる人たちではない」と言った。わたしは非常に多くの言葉を話してきたが、あなたは、この働きについての認識を微塵も持ち合わせない。そして、ここにいたっても、あなたは依然として、しるしや奇跡を求…
識別力を身に付け、服従し、物事を見抜く力を身に付けて霊的に鋭敏であるということは、何かに直面するとすぐに、神の言葉が内側から照らし啓くということである。これが霊的に鋭敏であるということである。神が行うことは全て人間の霊を復活させるためである。なぜ神は人間は麻痺しており愚鈍であると…