日々の神の御言葉: 終着点と結末 | 抜粋 604
どの教会にも、教会に迷惑をかけ、神の働きの邪魔をする人がいる。こうした人はみな変装して神の家に潜入したサタンである。彼らは演技に優れている。目的を果たすために、畏敬の念をもってわたしの前に来て、うやうやしく頭を下げ、みすぼらしい犬のように振る舞い、自分の「すべて」を捧げる。しかし…
聖書にあることがみな、神が自ら語った言葉の記録というわけではない。聖書はただ、神の働きのうち以前の二段階を記載しているに過ぎない。その一部は預言者たちによる預言の記録で、別の一部は各時代で神に用いられた人々の経験と認識である。人間の経験には人間の意見や認識が紛れ込んでいるが、それは避けられないことである。聖書の多くの書には、人間の観念、人間の偏見、人間の愚かしい理解が含まれている。もちろん、ほとんどの言葉は聖霊による啓きと照らしの結果であり、それらは正しい理解である。それでも、真理をまったく正確に表現しているとは言えない。ある物事に対するそれらの見方は、個人的な経験から得た認識に過ぎないか、あるいは聖霊による啓示である。預言者たちの預言は神が直接指示したものである。つまり、イザヤ、ダニエル、エズラ、エレミヤ、そしてエゼキエルのような者たちによる預言は、聖霊による直接の指示から生じたのである。これらの人たちは預言者で、預言の霊を受けており、みな旧約の預言者だった。律法の時代、ヤーウェの霊感を受けていたこれらの人たちは多くの預言を語ったが、それらはヤーウェが直接指示したものだった。それでは、なぜヤーウェは彼らの中で働いたのか。イスラエルの人々が神の選民であり、預言者の働きは彼らの間でなされる必要があったからである。それゆえ、それらの預言者はそうした啓示を受けることができたのだが、実際のところ、彼ら自身は自分に対する神の啓示を理解していなかった。聖霊が彼らの口を通じてそれらの言葉を述べたのは、未来の人々がそれらのことを理解し、それらが本当に神の霊、聖霊の働きであって、人間から出たものではないとわかるようにさせるため、また彼らに聖霊の働きの確証を与えるためだった。恵みの時代には、イエス自身が彼らに代わってこの働きをすべて行なった。そのため、人々はもはや預言を語らなくなった。では、イエスは預言者だったのか。もちろん、イエスは預言者だった。しかし、イエスは使徒の働きもできた。預言を告げ、各地で人々に説教し、教えを述べることもできたのである。しかし、イエスが行なった働きと彼の身分は同じものではない。イエスは全人類を贖うために、人間の罪を贖うために来た。イエスは預言者にして使徒だったが、それ以上にキリストだった。預言者は預言を告げるかもしれないが、だからといって、そうした預言者がキリストだとは言えない。当時、イエスは多くの預言を告げたので、預言者だったと言うことはできるが、預言者だからキリストではなかったとは言えない。なぜなら、イエスは一つの段階の働きを行なう中で神を代表していたのであり、その身分はイザヤのそれと異なっていたからである。イエスは贖いの働きを完了させるために到来し、また人間のいのちを施した。そして、神の霊がイエスに直接訪れたのである。イエスが行なった働きに、神の霊の霊感やヤーウェからの指示はなかった。その代わり、霊が直接働いたのであり、そのことはイエスが預言者と同じでなかったことを証明するのに十分である。イエスが行なった働きは贖いの働きで、それに次ぐのが預言を告げることだった。イエスは預言者であり、使徒であり、またそれ以上に贖い主だった。一方、預言者たちは預言を告げることができるだけで、他の働きを行なう中で神の霊を代表することはできなかった。イエスは、かつて人間が行なったことのない多くの働きを行ない、人類を贖う働きを行なったので、イザヤのような人々とは違っていた。
『神の出現と働き』「聖書について(3)」(『言葉』第1巻)より
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