日々の神の御言葉: 神の出現と働き | 抜粋 47
フィラデルフィアの教会が形を整えたが、これはひとえに神の恵みと憐れみによる。神への愛が無数の聖徒たちの心に生じ、聖徒たちは霊の旅路においてよろめくことがない。聖徒たちは、唯一の真の神が肉となり、その神はすべてを司る宇宙の頭であるという信仰を固守する。それは聖霊によって確証され、…
この最後の段階の働きにおいて、成果は言葉によって達成される。人は言葉を通じ、多くの奥義や、過去の世代を通じて神が行なってきた働きを理解するようになる。人は言葉を通じて聖霊に啓かれ、過去の世代が解明し得なかった奥義、昔の預言者たちや使徒たちの働き、そして彼らの働きの原則を理解するようになる。人は言葉を通じて神自身の性質を理解するようになると同時に、人の不従順や反抗心を理解し、自分の本質を認識するようになる。これらの働きの段階と、語られたすべての言葉を通じ、人は霊の働き、神の受肉した肉体の働きを知り、さらにはその性質全体を知るようになる。六千年以上にわたる神の経営の働きについても、あなたはそれに関する認識を言葉によって得た。自分の以前の観念を知ったのも、それを脇にのけることができたのも、言葉を通じてではなかったのか。前の段階で、イエスはしるしや不思議の働きを行なったが、この段階にしるしや不思議はない。なぜ神がしるしや不思議を示さないのかという理解も、言葉を通じて得られたのではないのか。よって、この段階で語られる言葉はかつての世代の使徒たちや預言者たちによってなされた働きを越えている。預言者たちによる預言でさえも、このような成果を挙げることはできなかった。預言者たちは預言だけ、つまり将来何が起こるかを語っただけで、当時神が行なおうと望んでいた働きについては語っていない。彼らは人類の生活を導くため、人類に真理を授けるため、あるいは彼らに奥義を明かすために語ったのではなく、ましてやいのちを授けるために語ったのでもない。この段階で語られる言葉には預言と真理があるものの、それらはおもに人にいのちを授けるためのものである。現在の言葉は預言者たちの預言と異なる。これは預言を語るためでなく、人のいのちのため、人のいのちの性質を変えるための働きの段階である。最初の段階はヤーウェの働きであり、人が地上で神を礼拝するよう、その道を整える働きだった。それは地上において働きの源となる場所を見つけるという、始まりの働きだったのである。当時、ヤーウェはイスラエルの民に対し、安息日を守り、両親を敬い、互いに平和に暮らすよう教えた。なぜなら当時の人々は、人間とは何であるかも、地上でどのように生きるべきかも理解していなかったからである。神はその最初の働きの段階において、人類の生活を導く必要があった。ヤーウェが彼らに語ったことは、人類がそれまで認識しておらず、所有もしていないものばかりだった。当時、神は多くの預言者を立ち上がらせて預言を語らせたが、彼らはみなヤーウェの導きの下でそうしたのである。これは単に神の働きの一つだった。最初の段階で神が肉となることはなく、よって神は預言者たちを通じてあらゆる部族や国々に指示を与えた。イエスは自身の生涯において働きを行なったとき、今日のように多くは語らなかった。終わりの日におけるこの言葉の働きの段階が、かつての時代や世代において行なわれたことはない。イザヤ、ダニエル、そしてヨハネは多くの預言を語ったが、彼らの預言は今語られている言葉とまったく異なっていた。彼らが語ったことは預言でしかなかったが、今語られている言葉は違う。わたしが今話していることをすべて預言にしたなら、あなたがたは理解できるだろうか。わたしが語ったのが、わたしが去ったあとのことについてだったとしたら、あなたはどうしてそれを理解できただろうか。言葉の働きはイエスの時代にも律法の時代にも決してなされなかった。中には「ヤーウェも自身の働きを行なった際に言葉を語りませんでしたか。イエスも病を癒したり、悪霊を追い出したり、しるしや不思議の働きを行なったりするのに加えて、その時言葉を語りませんでしたか」と言う人がおそらくいるかもしれない。言葉がどのように語られるかには違いがある。ヤーウェが発した言葉の本質は何だったか。ヤーウェは地上における人類の生活を導いただけで、それはいのちにおける霊的な事柄とは無関係だった。ヤーウェが語ったとき、それはすべての地で人々に指示を与えるためだったと言われているのはなぜか。「指示を与える」という言葉は、明白に語り、直接命じることを意味する。ヤーウェは人にいのちを施したのではなく、むしろただ人の手を取って、どのようにヤーウェを崇めるべきかを教えたのであり、たとえ話で教えることはあまりなかった。イスラエルにおいてヤーウェが行なった働きは、人を取り扱ったり鍛練したりするものでも、裁きや刑罰を与えるものでもなく、人を導くものだった。ヤーウェはモーセに対し、神の民に荒野でマナを集めさせるよう命じた。毎朝日の出前に、彼らはその日に食べる分だけマナを集めなければならなかった。マナは翌日まで保存することができなかった。次の日になるとカビが生えたからである。ヤーウェは人々に説教したり、人間の本性を暴いたりすることはせず、人の発想や思考を暴露することもしなかった。ヤーウェは人々を変えなかったが、彼らの生活を導いた。当時、人は子どもと同じで何も理解せず、いくつかの基本的な機械的動作しかできなかった。よって、ヤーウェは大衆を導くために律法を制定しただけなのである。
『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」(『言葉』第1巻)より
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