日々の神の御言葉: 神の出現と働き | 抜粋 73

2020年7月20日

 神は沈黙していて、わたしたちに姿を現したことはない。しかし神の働きは止むことがない。神は全世界を見ているし、あらゆる物事を支配しており、人の言葉と行動の一切をつぶさに見ている。神の経営は計画に従って段階的に行われる。それは静かにまた特に驚くような成果もなく進行するが、神の歩みはますます人類に接近し、神の裁きの座が電光石火の速さで宇宙に設けられ、その直後に神の玉座もわたしたちのもとに降りて来る。それは何と神々しい光景であり、威厳と神聖に満ちた情景だろうか。鳩のように、うなり声をあげているライオンのように、聖霊はわたしたちすべてのもとにやって来る。神は賢く、義に満ちて、威厳がある。神は権威を持ち、愛と哀れみに満ちてわたしたちの間に静かにやって来る。誰も神の到来に気づかず、誰も神を歓迎せず、その上、誰も神がこれからしようとしていることをまったく知らない。人の生活は相変わらずで、心にも変化は無く、毎日がいつも通りに過ぎていく。神は、神に従う取るに足らない者として、平凡な一信者として、普通の人のようにわたしたちの間に生きている。神には神が従事するものごとや目標があり、その上に普通の人にはない神性を有している。誰もその神性の存在に気づいておらず、誰も神と人の本質の違いを見抜いていない。わたしたちは神を取るに足らない一人の信者としてしか見ていないので、のびのびと恐れることもなく神と共に暮らしている。神はわたしたちの一挙一動を観察しており、わたしたちの考えや思いつきはすべて神の前に晒されている。誰一人として神の存在に注意を払わないし、その役割を想像すらしない。さらに、誰一人としてそれが誰であるか疑っていない。わたしたちは、単純に自分たちの活動を継続している。あたかも神とわたしたちには何の関係もないとでも言うように。

たまたま、聖霊がこの人を「通して」一編の言葉を発することがある。意外なことのように思われるが、わたしたちはこれを神の発した声であると認め、神から出たものであるとすぐに受け入れる。なぜなら、これらの言葉を誰が発しようと、聖霊から出たものである限り、わたしたちはそれを受け入れるべきであり、否定することはできない。次回の発言は、わたしを通して出されるかもしれないし、あなた、あるいは他の誰かを通して出されるかもしれない。それが誰であるかにかかわらず、全ては神の恵みである。しかしその人物が誰であろうと、その人を崇拝してはならない。なぜならほかのことにかかわらず、その人が神であるということはとうていありえないし、このようなごく普通の人を選んでわたしたちの神とすることは決してできないからである。わたしたちの神は非常に偉大で尊い。どうしてこのような小さく取るに足らない人が神に代わることなどできようか。加えて、わたしたちは皆、神がこの世に来てわたしたちを天国へ引き上げてくれるのを待っているのだが、そのような重大で困難な仕事に、この小さく取るに足らない人が適格であることがどうしてありえようか。もし主が再臨するならば、白い雲の上に乗って現れ、全ての人に見えるようでなければならない。それは何と荘厳なことだろうか。どうして神が平凡な人々の一群の中に静かに隠れていることなどできようか。

それでも、人々の間に紛れているこの平凡な人こそがわたしたちを救うための新しい働きを行っているのだ。この人はわたしたちのために何も明らかにすることはないし、来た理由を説明することもない。単に為すべき仕事を段階ごとに、自分の計画に沿って行うだけである。彼は益々頻繁に声を発し、発言するようになる。それは、慰め、励まし、忠告、警告などから、非難や懲らしめまである。穏やかで優しい口調から、荒々しく威厳ある言葉使いまであり――どれもが人に哀れみと戦慄を注ぎ込む。彼が言うことは全て、わたしたちの中に深く隠された秘密に命中し、それはわたしたちの心を突き刺し、霊を突き刺し、わたしたちを恥ずかしく、みじめな気持ちにする。この人物の心の中にある神は本当にわたしたちを愛しているのか、そして一体何をしようとしているのかとわたしたちは疑い始める。もしかしたら、そのような痛みを耐えなければ天国に引き上げてもらえないのではないだろうか。これからの行く先や未来の運命について……わたしたちは頭の中で思案するようになる。それでもまだ、誰一人として神が肉体を得てわたしたちの間で働きを行っているとは考えない。神がいかに長い期間わたしたちと一緒であっても、どれほど多くの言葉をわたしたちに面と向かって語っていても、わたしたちはそのあまりにも平凡な人を、自分たちの未来の神と喜んで認めることはないし、ましてその小さな取るに足らない人にわたしたちの未来と運命の支配を任せたくないのである。わたしたちは、彼から絶えることのないいのちの水を喜んで享受し、彼のおかげで神と向かい合って生活している。わたしたちは天におられる主イエスの恵みには感謝するが、神性を備えたこの普通の人の気持ちには注意を払ってこなかった。それでもなお、彼は肉体の中に隠れて謙虚に仕事を続け、その心の声を発し、人類が彼を拒んでも表向きは気にかけず、また人の稚拙さも無知も見たところは永久に赦して、そして人々の非礼をひたすら黙認している。

わたしたちが知らないうちに、この小さな取るに足らない人はわたしたちを神の一つ一つの働きの段階へと導き入れてきた。わたしたちは数え切れないほどの試練に耐え、数々の懲らしめを受け、死をもって試される。わたしたちは神の義なる威厳に満ちた性質を知り、神の愛と哀れみも享受し、神の偉大な力と知恵を感じ、神の愛らしさを実際に目にし、そして人類を救いたいという神の強い願いを見る。この平凡な人の言葉を通して、わたしたちは神の性質と本質を知り、神の心を理解し、人の本性と本質をも知り、そして救いと完全にされるための方法を知るようになる。その言葉は、わたしたちを死なせ、また復活させる。その言葉は安らぎを与えるが、罪悪感と恩義の感情でわたしたちを苦しませもする。その言葉は、わたしたちに喜びと平安をもたらすが、大きな痛みも与える。わたしたちは、時にはその手によって屠られる子羊のようであり、時にはその最愛のものであり、その愛と好意を享受する。時にはわたしたちはその人の敵のようでもあり、その怒りのまなざしによって焼かれ灰にされる。わたしたちは彼に救われる人類であるが、その目には蛆のようでもあり、彼が日夜見つけることを考えている迷える子羊である。彼はわたしたちに対し慈悲深くもあれば軽蔑もし、わたしたちを立ち上がらせ、慰め励まし、わたしたちを導き啓示し、刑罰を与え懲らしめ、わたしたちを呪いさえする。彼は、昼も夜もわたしたちのことを心配し、昼も夜も守り、気にかけ、決してわたしたちの傍を離れず、その心血の全てをわたしたちに注ぎ、わたしたちのためならいかなる代償も払う。この小さくて平凡な肉体から出る言葉の数々の中に、わたしたちは神の全てを享受し、神がわたしたちに与えた終着点を見た。それにもかかわらず、わたしたちの心の中では虚栄心がはびこり、このような人を神として喜んで受け入れることができないでいる。この人がわたしたちにどんなに多くのマナ、どんなに多くの喜びを与えても、わたしたちの心の内に在る主の地位を奪うことができないのである。わたしたちはこの人の特別な身分と地位を嫌々ながらに尊重しているのである。もし彼がはっきりと語り、自分が神であることをわたしたちに納得させなければ、わたしたちは決してこの人を神として、つまりもうすぐ現れるはずであったが既にわたしたちのもとで長く働いてきた神として、思い切って認めることはないだろう。

神による発話は続いていて、様々な方法や観点を用いてわたしたちにすべきことを諭し、その心の声を表す。その言葉は生命力を備え、わたしたちが歩むべき道を示し、真理とは何かを理解できるようにする。わたしたちはその言葉に引き付けられるようになり、その声音や話し方に注目し始め、そして意識下において、この小さな取るに足らない人の心の声に関心を持ち始める。彼はわたしたちのために労力を惜しまず、わたしたちのために睡眠も食欲も無くし、わたしたちのために涙も流し溜息をつき、病気に苦しみ、わたしたちの終着点と救いのために屈辱を耐え忍び、わたしたちが鈍感で反抗的なために、その心は涙と血を流すのである。この人のそのような存在ともてるものは、普通の人を超えているし、堕落した者には誰も到達することが出来ないものである。彼には、普通の人にはない寛容と忍耐力が備わり、その愛はどんな被造物にも持ちえないものなのだ。わたしたちの考えていること全てを知っていて、わたしたちの本性や本質をこのように把握し、人類の反抗的で堕落した性質を裁き、天国の神を代理してわたしたちに語りかけ、このように人の間に働くことができる人はこの人以外に居ない。彼以外に神の権威、英知、そして威厳を持つ者はいない。神の性質と神が持っているもの、神であるものが、この人からあますところなく発せられているのだ。この人以外に、わたしたちに道を示し、光をもたらす者はいない。彼以外に神が天地創造から今日まで明かしてこなかった奥義を明らかにできる者はいない。彼以外にわたしたちをサタンの束縛やわたしたちの堕落した性質から救える者はいない。彼は神を代表し、神の心の声と訓戒、そして人類すべてに対する神の裁きの言葉を表現する。彼は新しい時代を、そして新しい紀元を開き、新しい天と地そして新しい働きを持ってきた。そして彼はわたしたちに希望をもたらし、漠然と生きてきたわたしたちの生活を終わらせ、救済の道をわたしたちに余すところ無く見せてくれたのである。彼はわたしたちの存在そのものを征服し、わたしたちの心を得た。その瞬間からわたしたちの心は覚醒し、わたしたちの霊は生き返ったように思われる。この平凡で取るに足らない人物、長い間わたしたちの間に交じり生活しながらもわたしたちに拒否され続けてきたこの人こそ、わたしたちが絶えず考え、日夜待ち望んできた主イエスではないだろうか。彼なのだ。実際そうなのだ。この人こそがわたしたちの神なのだ。彼こそが真理であり、道であり、いのちである。彼はわたしたちにもう一度命を授け、わたしたちが光を見えるようにし、そしてわたしたちの心がさまようのを止めてくれたのだ。わたしたちは神の家に帰り、神の玉座の前に戻り、神と顔を合わせ、神の顔をこの目で見て、この先にある道を見た。その時、わたしたちの心は完全に彼に征服された。わたしたちはもはや彼が誰であるか疑わず、その働きや言葉にもはや反抗することもなく、彼の前に完全にひれ伏す。わたしたちの望みは、ただ残りの人生をずっと神の足跡に従って生きること、神に完全にされること、神の恵みとわたしたちへの愛に報い、神の指揮と計画に従い、神の働きに協力し、神がわたしたちに委ねたことを完成するためにできる限りのことを行うことだけである。

『神の出現と働き』「附録4:神の裁きと刑罰に神の出現を見る」(『言葉』第1巻)より

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