日々の神の御言葉: 神の性質、および神が所有するものと神そのもの | 抜粋 241

2020年8月10日

地上にいるとき、わたしは人々の心の中において実際の神自身である。天では、わたしはあらゆる被造物の主である。わたしは山々に登り、川瀬を渡り、また、人間たちの間をふらりと訪れては去った。誰が実際の神である者に公然と敵対するだろう。誰が全能者の支配から独立できよう。誰がみじんの疑いもなく、わたしが天にいると断言できよう。また、わたしが地上にいると、わずかの誤りもなく誰が断言できるのか。すべての人間の中に、わたしの宿る場所について、事細かにすべてを明確に語ることのできる者は、誰一人いない。わたしが天にいるときは、超越的な神自身であるということだろうか。わたしが地上にいるときは、実際の神自身だということだろうか。わたしはあらゆる被造物の主であり、わたしは人間世界の苦しみを経験するということが、わたしが実際の神自身であるかどうかを左右できるだろうか。もし人間がそう考えるのなら、それは、救いようもないほどに愚かなことではないか。わたしは天にいる。わたしはまた、地上にいる。わたしは無数の被造物の間にいて、また、無数の人々の間にもいる。人間は毎日わたしに触れることができる。そのうえ、毎日わたしを見ることもできる。人間に関する限り、わたしは時に隠れているようであり、時に目に見えるようだ。わたしは実体をもつようであり、しかし、実体がないものでもあるようだ。わたしの内には、人間には窺い知れぬ奥義が潜んでいる。人間はみな、わたしの内にさらに奥義を見つけ出し、それによって心の中の不安な思いをかき消そうと、顕微鏡でわたしを覗き込んでいるかのようだ。しかし、たとえX線透視装置を使ったところで、どうして人間にわたしの内にある秘密を発見することができようか。

わが民がわたしの働きを通して、わたしとともに栄光を得る時、その瞬間、赤い大きな竜のすみかが暴かれ、泥とごみがきれいに洗い出され、長い年月の間にたまった汚水がわたしの燃える炎で干上がり、もはや存在しなくなる。すると、赤い大きな竜は火と硫黄の池で死ぬ。あなたがたは、ほんとうに竜にさらわれないよう、わたしの愛に見守られていたいのだろうか。あなたがたは、ほんとうに竜の欺きに満ちた策略を憎んでいるのだろうか。誰がわたしのためにゆるぎない証しができるのだろう。わたしの名のために、わたしの霊のために、わたしの全経営(救いの)計画のために、誰がその身に持てる力すべてを捧げることができるのだろう。今日、神の国が人間の世界にある時こそ、わたしが自らこの人間の世界に来ているのである。これがそうでなければ、わたしの身代わりとして戦場に行けるだけの不屈な者が、誰かいるだろうか。神の国が具現化するように、わたしの心が満ち足りるように、そしてまた、わたしの日が来るように、無数の被造物が新たに生まれ、豊かに育つ時が来るように、多くの人間が苦しみの海から救われるように、明日が来るように、そして、驚くべきさまで、花開き、豊かに生い茂るように、そして、未来の享受が実現するよう、すべての人間が、わたしのために惜しみなくすべてを犠牲にして、全力で進む。それが、わたしがすでに勝利し、わたしの計画が完了したしるしなのではないか。

人間が終わりの日にとどまればとどまるほど、世のむなしさを感じ、人生を生きる勇気が弱まる。そのため、無数の人々が失望して死に、他の無数の人々が探求に失望し、また、無数の人々がサタンの手に操られて苦しんでいる。わたしは、まことに大勢の人々をしばしば救い、支えてきた。人間たちが光を失ったとき、彼らを光のある場所に移し、光の中でわたしを知り、幸福の中でわたしを享受するように手助けした。わたしの光の到来により、わたしの国に住む民の崇敬の念は増す。わたしは人間が愛す神であり、人間が愛着をもってしがみつく神だからである。そして、人間はわたしの姿について忘れがたい印象に満たされる。しかし、それが霊の働きなのか、肉の働きなのか、理解できる者は誰もいない。このことだけでも、人間が生涯を通じて事細かに体験するに十分なことなのだ。人間は、けっしてその心の奥底でわたしを嫌ったことがない。かえって、霊の奥底では、わたしにしっかりと結びついているのだ。わたしの知恵は人間の尊崇の念を高め、わたしの行う不思議はその目を楽しませ、わたしの言葉は人間には計り知れないものであるが、それでも人間は、それらを心から愛しているのである。わたしの実際は人間を呆然とさせ、驚かせ、戸惑わせるが、それでも人間はすべてを進んで受け入れる。これこそが、人間の実際の背丈なのではないか。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第十五章」(『言葉』第1巻)より

神は天におり、地にもいる

地にいる時の神は人の心の中の実際の神。天にいる時の神はあらゆる被造物の支配者。かつて神は山と海を巡り、人類の間をそっと歩んで来た。誰が逆らえよう、実際的な神に。誰が逃れられよう、その支配から。誰が言い切れよう、神は天にいるのだと。誰が言い切れよう、神は地にいると。誰も言い切れない、神の居場所など。

天にいる時の神は超越的な神。それだけなのか。地にいる時の神は実際的な神。それだけなのか。神がすべて支配するというだけで、人の痛みをも味わうというだけで、誰が決められよう、神は実際的だと。誰が言い切れよう、神は天にいるのだと。誰が言い切れよう、神は地にいると。神は天におり、地にもいる。全ての物の間に神は存在し、全ての人の間に神は存在する。人はどんな時も神と交われるのだ。人はどんな時も神に会えるのだ。

『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

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